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夢見叶
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Novels by 夢見叶

白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました

白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました

聖女リディアは王太子レオンハルトに『愛さない』と白い結婚を宣言され、別の令嬢を本命に据えた政略婚の飾りにされる。国と女神のためと言いながら利用宣言までされ、心も立場も詰みかけた――が、前世は契約書で戦った法務OL。女神と組んで祝福婚姻契約を改竄し、望めば即離縁・暴言は神前公開・次の伴侶は女神指名の最強条項を仕込む。公開処刑される王太子を尻目に、選ばれたのは彼女を密かに守ってきた腹黒宰相補佐セルジュ。溺愛と自由を手に入れる爽快ざまぁ恋愛譚。
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Chapter: 第25話 緊急要請、それでも断る権利
 その朝、私は久しぶりに「計画通り」という言葉を信じていた。 公正契約大神殿の相談受付ホール。掲示板には、女神の羽ペンで書き換えられた新しい勤務表が貼られている。夜間対応は原則なし、臨時は申請制、休養日は確保。たった数行なのに、呼吸が軽い。「聖女様、本日の予約は……え、ええと、ちゃんと昼に収まってます!」 ティオが書類束を抱えたまま笑う。「うん。奇跡だね」「奇跡って言わないでくださいよ! 僕が昨夜、全部組み替えたんですから!」 そこへ、外がざわりとした。 駆け込んできた伝令の神官が、息を切らして言う。「隣国ウェルナの辺境で、原因不明の熱病が流行している、との噂が……! 旅の商人が……」 噂。たったそれだけの言葉で、前世の記憶が喉の奥に蘇る。増える数字、鳴りやまない連絡。 背筋が冷えた私の隣で、ティオは青ざめて未来を先に見てしまう。「患者の流入や難民が来たら……神殿の祝福、追いつきません……!」「まずは落ち着こう。正規の報告が来てから」 そう言ってくれたのは、いつの間にかホールに現れていたセルジュさんだった。黒い外套の裾が揺れて、空気がきゅっと締まる。 そして、締まった空気はそのまま、面倒の形に固まって運ばれてきた。「聖女殿! 緊急だ! 緊急事態だぞ!」 王都の有力貴族の集団。顔見知りの「祝福常連」たちが、これでもかと香水を漂わせて押し寄せる。 代表の男は、隣の者の肩を叩きながら大仰に宣言した。「疫病がこちらへ広がる前に、我が家の者たちの健康と屋敷を、夜通しかけて徹底的に祝福していただきたい!」 家の者と屋敷、事業所、夜通し。噂の段階で、まず自分たちを先に守れ、と。 ティオが胸に抱えた新フォーマットの紙が、心細そうに震えている。「え、ええと……夜間の祝福は、事前申請と緊急度の確認が必要に…
Last Updated: 2026-02-28
Chapter: 第24話 守るための残業規制という発想
 会議室の真ん中に浮かぶ光の板は、昨日のまま真っ赤だった。  祝福件数、相談件数、予定外対応、書類、移動。全部が「限界です」と叫んでいる。「……やっぱり、何度見ても、えげつないですね」  ティオが喉を鳴らす。「えげつない、で済ませるのは優しいですね」  セルジュは淡々と線を引き続けていた。いつもの丁寧な声。でも、ペン先がほんの少しだけ揺れている。 大神官長アグナスは、椅子に座ったまま沈黙していた。やがて彼は目を閉じ、ぽつりと呟く。「……似たような数字を、昔、1度見たことがある」 空気が少しだけ冷える。「10数年前、私がまだ若輩だったころ……仕えていた聖女がいた」  アグナスは自嘲気味に笑った。 「優しい方でな。誰も断らず、誰よりも早起きで、誰よりも遅くまで祈った。……そして、ある日倒れ、そのまま戻らなかった」 ティオが「そんな……」と声を漏らす。私は唇を噛んだ。数字が急に「人」になる。「当時の我々は言ったのだ。『聖女の奉仕は神意であり、止めるのは畏れ多い』と」  アグナスの指が、赤い棒グラフの頂点をなぞる。 「……神意を盾にして守っていたのは、聖女ではなく、私たちの責任の方だったのだろう」 胸の奥に、前世の空気がふっと刺さった。 『トップの号令だから』『会社のためだから』。便利な免罪符。誰かが倒れても、誰も自分の名前で止めないやつ。 アグナスが立ち上がり、私の前で膝をつきかけた。 「や、やめてください!」  私は慌てて立ち上がる。 それでもアグナスは深く頭を垂れた。 「リディア殿。私は、君の前任者を守れなかった。そして、君の契約書に手を入れることを、神意と前例のせいにして避けてきた」 言葉が重い。慰めるべきか迷って、でも私は、契約で守る側だと思い直す。「……過去は変えられません」  私はゆっくり息を吐いた。 「でも、『今からの前例』なら、私たちで作れます。頭を上げてください。責任者には、責任者の仕事をしてもらわないと困ります」
Last Updated: 2026-02-27
Chapter: 第23話 タイムカードを持たない国で
 夜明け前の大神殿は、石の床まで眠そうな顔をしている。私が祈祷室へ向かう回廊の窓には、まだ朝の色が薄い。 そこへ、足音がきっちりと等間隔で重なった。「おはようございます、聖女殿。本日一日、業務量を記録します。……差し支えない範囲で」 セルジュさんは書類バインダーを抱え、もう片方の手には、妙に立派な砂時計を持っていた。 砂時計。神殿で? と口の中でつぶやく前に、ティオがわなわな震えながら叫ぶ。「さ、砂時計まで用意してるんですか!? 宰相補佐さま、そこまで本気なんですか!」「記録は武器ですから」 淡々と言い切るのが、また怖い。私は苦笑して肩をすくめた。「差し支えない範囲がどこまでかは、業務の後で一緒に考えましょう。たぶん、今日一日で境界線が消えます」「承知しました。消えた境界線は、条文で引き直します」 頼もしさと同時に、背筋が寒いほどの宣言だった。 ◇ 聖女執務室に入った瞬間、ティオが今日の予定表を広げる。 赤。赤。赤。余白のはずの紙が、血のような赤で埋まっている。「午前は貴族家の家族祈願、午後は神殿幹部用の祝福、その合間に定例相談が……」「その合間がもう合間じゃないね」「はい……え?」 ティオが顔を上げたところで、扉が叩かれる。叩かれる、というより、叩き続けられる。「聖女様! 妻が今朝から咳が止まらず」「聖女様! 旅の一行が通りがかったついでに祝福を!」「聖女様! うちの息子の試験が今日で、念のため!」 雪崩だ。予定表が紙一枚で受け止められる量じゃない。 ティオは半泣きで私を見た。「聖女さま、今日も予定外が山ほど……」「予定外が常態化しているなら、それはもう予定ですね」「言い方が冷たい!」 ツッコミながらも、セルジュさんが小さく笑った。笑うと、余計に怖い。
Last Updated: 2026-02-26
Chapter: 第22話 聖女労働契約、黒インクだらけ
 翌朝、王宮の小会議室は寝不足の匂いがした。  窓の外には、まだ薄く、空に残像みたいな神託文字が漂っている。昨日、大聖堂の天井いっぱいに現れたあの一文。 【聖女労働契約:重大違反を検出】  あれを見た瞬間のざわめきが、今も壁に染みついている気がした。「聖女殿。こちらへ」  呼ばれた席は、なぜか末席寄り。形式上、私は当事者で、原因でもあるらしい。  テーブルの上には巻物が山。重い。前例という名の重石が、こうして物理で置かれる世界だ。 グスタフ王は額を押さえ、クロード宰相は咳払いで時間を稼ぎ、大神官長アグナスは硬い笑みを貼りつけている。  セルジュだけが、いつも通りの無表情で私の隣に立っていた。目が合うと、ほんの少しだけ、安心したようにまぶたが緩む。「まずは状況整理を――」  宰相が口を開いた、その瞬間。天井が白く瞬いた。 ドン。 落ちてきたのは光ではなく、分厚い本だった。机が震え、インクの匂いが立つ。  表紙に、黒々と刻まれている。 『聖女奉仕契約(現行版)』 室内が凍った。  そして、頭の中にだけ、あのゆるい声が響く。『原本、持ってきました。前世のシステムで言うと仕様書ですね』「……女神、さま」  アグナスが反射でひれ伏した。慣れた動きが、むしろ痛々しい。  王が椅子から半歩だけ立ち上がり、すぐに座り直した。王様でも神相手だと挙動が忙しい。『昨日の稼働停止、あれは嫌がらせじゃなくて安全装置です。今日は原因究明。はい、会議、続けてどうぞ』 女神はさらっと丸投げしてくる。私は喉の奥で、笑いかけた息を飲み込んだ。笑えない仕様書が来たからだ。「セルジュ、読み上げを」  王の命令に、セルジュが一歩前へ出る。  彼がページをめくった瞬間、黒インクの文字がじわり、と滲んだ。  まるで紙が汗をかくみたいに。「第12条。聖女は疲労を理由に祝福を拒否できない」  言葉が落ちるたび、文字の周りから黒い煙のようなものが立ち上る。
Last Updated: 2026-02-25
Chapter: 第21話 聖女業務、女神による稼働停止宣言
 公正契約大神殿の大聖堂は、どう見ても巨大な契約書だ。 柱にも天井にも条文が刻まれ、その真ん中で私だけが、生身のまま立っている。(やばい、立ったまま寝る……) 昨夜から祈願と相談と書類確認を詰め込まれ、仮眠もろくに取れていない。 そこへ「どうしても今日でないと困るんです」という有力貴族の結婚式がねじ込まれて、私の稼働ログは朝から真っ赤だった。「聖女リディア様、準備を」 補助神官の声。少し後ろでは、若手書記官ティオが紙束を握りしめて震えている。「し、聖女様……式のあとに『予定外祈願』が3件……」「聞かなかったことにしようか。今は目の前の式だけ」「す、すみません……!」 祭壇の前には新郎新婦、客席にはぎっしりと上流階級。 その視線を感じながら、私は深呼吸をした。《本日の稼働時間、すでに推奨上限の1.5倍ですねえ》 頭の奥で、軽い声が笑う。 公正契約の女神。私の庇護神であり、この世界で一番ログにうるさい存在だ。(女神様、実況は後にしてください)《いえいえ、ログは積み重ねてなんぼですから》 儀式はクライマックスへ進む。「では、公正契約の女神の祝福を——」 大神官長アグナスの声に合わせ、私は両手を掲げた。 契約書レイアウトの魔法陣が光を増し、新郎新婦の足元から淡い金色の光が立ち上がる。(ここでコケたら、式が台無し……) 焦りと眠気で視界が揺れた、その瞬間。《はい、そこまで》 女神の声が、いつもより低く落ちた。《これ以上ログを積んだら、あなたも世界契約もまとめて過労死コースなので、止めます》(世界契約まで過労死は嫌ですね……)《ですよね。では、強制停止》 祝福の光が「ブツッ」
Last Updated: 2026-02-24
Chapter: 第20話 橋を渡る人
 西の空が赤紫に沈みかけていた。 契約大橋の石畳には、紙吹雪と花びらの残骸が、湿った色のまま張りついている。さっきまで祝祭だった場所が、今は片付け途中の舞台みたいに静かだ。 遠くの広場からは、まだ人々の声が風に乗って届いてくる。 断片的な噂と、屋台を畳む音が、まだ風に乗って届く。今日一日で「契約」という単語を何度聞いたか分からない。 橋のたもとに立つ私の隣で、低い声がする。「本日の移動経路は、簡易支援契約第3条に基づき、私と護衛隊がご一緒します」 礼服から簡素な外套に着替えたセルジュ様が、いつもの事務的な口調で告げた。少し後ろには、女性騎士と平服の護衛が数名。「……私を一人にしない、条文でしたね」 さっき署名したばかりの文言を、私は口の中でなぞる。 聖女の安全確保のため、原則として単独移動を禁止する。 最低限と呼ぶには、少しばかり手厚い内容だ。(最低限の意味、やっぱりおかしい) 心の中だけでツッコミを入れる。《リディア、稼働状況の確認です》 女神様の声が頭の奥に降ってきた。《本日の精神負荷、平常時比でおよそ5倍。歩行可能ですが、急なイベントは控えましょう》「診断がざっくりしています」 足元を見ると、石畳の一部に古い文字が刻まれている。国と神殿の条文が、何十年も前からここにあるのだろう。夕焼けを受けて、その一行一行がうっすらと光っていた。《契約大橋は、もともと国と神殿の約束を刻んだ場所です。 最近は、個人のログも、少しずつここを通るようになりましたが》「私の三年間分のログも、今日ここを通ったんでしょうか」《ええ。ブラック寄りのやつが、どっさり》 背筋に、ひやりとしたものが走る。 国のため。王家のため。誰かのため。 その言葉で塗りつぶしてきた三年間が、光の粒になって橋の下へ流れていったところを想像してしまう。「……行きましょう」
Last Updated: 2026-02-14
婚約破棄された悪役令嬢の私は前世持ち。断罪の舞踏会で王太子ざまぁしたら、腹黒宰相様に溺愛求婚されました

婚約破棄された悪役令嬢の私は前世持ち。断罪の舞踏会で王太子ざまぁしたら、腹黒宰相様に溺愛求婚されました

前世持ち侯爵令嬢レティシアは、ここが乙女ゲームで自分が悪役令嬢、卒業舞踏会で公開断罪→婚約破棄→国外追放の末に死ぬ運命だと幼少期に思い出す。未来を変えるため王太子の女遊びと庶民ヒロインへの送金、不正な寄付金流用を洗い出し証拠を完備。舞踏会で逆断罪を決めた瞬間、腹黒宰相クロードが求婚し、政略婚兼国政チートの溺愛ルートへ。だが世間は『悪女が国を操る』と騒ぎ、貴婦人茶会の毒殺フラグや庭を剪定する脅しまで迫る。彼女は宰相の隣で、台本ごと敵を折る。
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Chapter: 第3章 第8話 大神殿の扉と、黒薔薇の文字列
 大神殿の扉をくぐった瞬間、胸の奥に石を押し込まれたみたいに息が詰まった。 香の甘さが、急に土の匂いに変わる。耳の奥で、鐘が鳴っていないのに鳴る。 視界の端に、黒い文字が走った。 黒薔薇の宝珠。 浄化儀礼。 開戦。 わたくしは歩幅を崩し、床の幾何学模様を踏み外しかけた。「レティシア」 背中に手が添えられる。クロード様の掌は冷たいのに、落ちる未来だけは止めてくれる。 その手に縋りたい衝動を、歯で噛み切った。「扉は人を選ぶんだってさ」 隣でユリウス殿下が、さらりと言った。 冗談の口調なのに、目が笑っていない。「選ばれたい趣味はございませんわ」「でも君は、選ばれる側の顔をしてる」 返す言葉が見つからない。喉の奥が、乾いた紙みたいに貼り付く。 神官が案内役として先に立つ。若い神官だ。頬の赤みだけが健康的で、制服みたいな法衣がまだ馴染んでいない。 テオと名乗った彼は、緊張で声が裏返りそうになりながらも、礼拝の作法を説明した。「こちらでは、左膝を……その、先に……」 わたくしは反射で右膝を折りかけ、途中で止めた。 王国と逆。指先の震えが、ひどく目立つ。 リディア殿下が、小さく笑う。「迷った?」「迷いません。確認しただけですわ」「確認は大事。数学でも政治でもね」 救われたのは、笑われたからじゃない。リディア殿下が、わたくしを試験の答案みたいに見ないからだ。 回廊の壁には、白い薔薇の浮彫が延々と続く。光を浴びて綺麗なのに、棘の部分だけ妙に鋭い。 その棘が、わたくしの視界の中で黒く染まりかけるたび、さっきの文字列が蘇る。 祭壇の間へ入った。 中央の台座に、宝珠があった。 黒薔薇を模した宝珠。薔薇の花弁の形に削られた黒曜石が、何重にも重なり、中心に暗い光が沈んでいる。 見た瞬間、胃が裏返った。 前
Last Updated: 2026-02-28
Chapter: 第3章 第7話 戦争ルートの式次第と、凍りつく背筋
 日付も、場所も、順番も――前世で見た画面と同じだった。 帝国から届いた封書は、薄いのに重い。封蝋の黒薔薇が、指先に刺さるみたいに冷たい。 表題は「黒薔薇聖核浄化儀礼 式次第」。 わたくしの喉が、勝手に鳴った。 序、参列, 祝詞、献納、聖核奉安、誓約文朗読、閉式。 欄外に、王国特使の名で空欄が用意されている。 次の頁。添えられた挿絵のせいで、視界が揺れた。 硝子の棺に眠る黒い核。薔薇の棘みたいな曲線。見ただけで、こめかみが脈を打つ。 ……嫌だ。 あれに触れた瞬間から、戦争が始まる。 背後で扉が開く音がした。 わたくしは反射で紙を伏せる。遅かった。「レティシア」 クロード様の声は低い。怒っていないのに、逃げ道が消える声だ。 机の上から封書を拾い上げられた。紙が擦れる音が、やけに大きい。 わたくしは笑おうとして、失敗した。「顔色が悪い」「……帝国の朝は、空気が硬いだけですわ」「言い訳の精度が落ちている」 指先が、わたくしの額に触れた。冷えている。 その接触だけで、張り詰めていた何かがほどけかけるのが悔しい。「これは何だ」 クロード様が式次第を開き、視線を走らせる。 挿絵の頁で、眉が僅かに寄った。「……気分が悪いのか」「気分だけなら、可愛いのですが」「可愛いで済まないから聞いている」 逃げても、椅子は奪われる。 わたくしは息を吸って、口の中の乾きを噛みしめた。「この順番が……覚えのある筋書きと重なりますの」「筋書き」「前世の記憶ですわ。戦争に繋がる方の」 クロード様の目が細くなる。理性の光。 それでも、式次第の最後の欄外で止まった。「誓約文朗読。王国特使が読むのか」「空欄が、わたくしの
Last Updated: 2026-02-27
Chapter: 第3章 第6話 歪んだ宮廷と、妃候補の席順
「遠き隣人が、我が子の隣を訪ねてくれたか」 玉座の間に響いた声は柔らかいのに、逃げ道がなかった。 わたくしは膝を折り、視線を上げないまま呼吸の深さだけを整える。王都の大広間に似た構図。なのに壁の紋章は棘のある薔薇で、軍旗の色が濃い。鏡の国。そう言ったのは、父だったか。 背後でクロードが同じように礼を取った。わたくしの肩に落ちる彼の気配が、いつもより静かで硬い。「レティシア・エルネストでございます。ルーベンス王国の特使として、謹んでご挨拶申し上げます」「特使、か。よい名だ」 皇帝陛下は微笑んだ。文化人の顔。けれど瞳の底にだけ、長い夜の疲れが沈んでいる。「だが、席は言葉より正直だ」「我が子よ。客人は椅子で迎えよ。言葉ではなく、席で」 椅子。 その単語だけで胸の奥が冷えた。宰相執務室の、空席が脳裏を掠める。あの場所に座れるのは、誰か。わたくしは、どこに座るのか。「父上、もちろん」 皇太子ユリウス殿下が軽く笑って、まっすぐこちらを見た。恋愛に素直で、政治には冷たい――船の上で聞いた評判が、視線の温度だけで裏返りそうになる。「王国の黒薔薇令嬢。君が来てくれて嬉しい」 その言い方が、もう社交の罠だ。嬉しい、の裏に条件が潜む。 玉座の脇から滑るように進み出たのは、細身の男。黒に近い官服、銀の鎖。目が笑っていない。「帝国宰相、ハインリヒ・クロイツでございます」 次に、同じ場所へ歩を進めた白衣の聖職者が、静かに十字を切った。白の中に、刺繍の黒薔薇が混じる。目元だけが冷たい。「大司教セルジオ・メルカド。主の祝福が、あなたの旅路にありますように」 最後に、皇太子の少し後ろで腕を組んでいた女性が、わたくしへ小さく顎を上げた。背筋がまっすぐで、瞳が理屈の光をしている。「皇女リディア。……あなた、噂より面白そうね」 政治、軍、宗教、皇族。 たった今、帝国の骨格が並べられた。わたくしの足元に、見えない盤面が敷かれていく。
Last Updated: 2026-02-26
Chapter: 第3章 第5話 帝都の門と、飄々たる皇太子
「ようこそ、帝都へ。王国の黒薔薇令嬢」  城門の影から出てきた青年が、そう言って微笑んだ。  港の湿った風が、金属と香辛料の匂いを運んでくる。石造りの城壁は王都より高く、旗は多い。軍の鷲と、光薔薇教の紋章と――黒薔薇を模した意匠まで、目につく場所へ誇らしげに掲げられていた。  私の胸の奥が、ひやりとした。  黒薔薇。帝国でその語は、ただの花ではない。「お迎えが早すぎますわね、殿下。まるで逃がさないと告げているみたい」 「逃がしたら、僕が怒られる。皇帝にね」  彼は言い切って、私へ手を差し出した。指先に迷いがない。  帝国式の挨拶だ。握手……そのまま、手袋越しに口づける。  脳裏のどこかで、前世のゲームのフレーバーテキストがぱちりと点いた気がした。私は余計な間を作らず、手袋の甲を差し出す。  唇が触れる直前、彼は視線だけで私の顔色を確かめた。「怯えてない。やっぱり噂どおりだ」 「噂は当てになりませんわ。殿下も、わりと」 「痛い。君、初対面で刺すのが上手いね」  笑いながらも、彼の瞳は冷たいほど澄んでいた。「フェルディナンド帝国皇太子、ユリウス・フォン・フェルディナンド。歓迎するよ、レティシア・エルネスト公爵令嬢」  名乗りが終わる前に、帝国の将校が儀礼の声を張る。「王国よりお越しの、皇太子妃候――」 「違う」  ユリウス殿下が、柔らかい声で遮った。 「彼女は王国の特使だ。僕の客人。言葉を選んで」  将校の背筋が、音を立てそうに硬直する。 その瞬間、私の認識が裏返った。  帝国は私を飾りにする気だと思っていた。けれど、少なくとも皇太子は、私の札を「妃候補」から「特使」へ戻した。  ありがたい。けれど同時に、怖い。これは貸しでも保護でもなく、取引だ。「恐れ入ります、殿下」  隣でクロード様が、やけに丁寧な敬語を置いた。口調が整いすぎていて、逆に刺々しい。 「王国宰相、クロード・フォン・ラグランジュ。特使代表として、礼を」 「礼はいい。君は相変わらず固いね、
Last Updated: 2026-02-25
Chapter: 第3章 第4話 船上の夜と、帝国使節の影
「帝国は、王国ほど王様の顔色を気にしませんので」 湯気の立つ皿の向こうで、帝国側の文官が涼しい顔で言った。船の食堂は昼でも薄暗く、波のうねりが床板をゆっくり押し上げる。 私はスプーンを止めた。王の言葉に怯え、宰相の判断に救われてきたこの国で育った身には、軽く投げられたその差が刺さる。 隣にいるクロードは黙っている。黙り方が、いつもより硬い。彼は私の皿の手前に置かれた白い布を、必要以上に丁寧に折り直した。「顔色を気にしない、というのは羨ましい響きですわね」 微笑んで返す。口角だけで。 文官は、こちらの反応を値踏みするように目を細めた。「羨ましい、ですか。では王国は楽でしょう。命じる者が明確だ」「明確なぶん、歪みも明確に溜まりますの」 クロードの視線が私の横顔に触れた。ほんの少し、息が浅くなる。 軍服の男が大きく笑い、食器を鳴らした。「歪みなら帝国にもあるさ。議会の連中は、剣を握ったこともないくせに戦の話をする。口は達者でな」 その言葉に、私の背筋が冷える。戦。 潮の匂いより先に、古い記憶の匂いが鼻を刺した。前世で遊んだ、あの物語の分岐点。平和が、音もなく戦に変わる瞬間の手触り。 私はスープを飲んで、胃の底に落とした。落ち着け。ここはゲームの画面じゃない。私は駒じゃない。「帝国は軍拡を進めていると聞きましたわ」 私がそう言うと、軍人は肩をすくめた。「進めているのは隣の小国も同じだ。海の向こうは広い。守るなら、備えるしかない」 文官が口を挟む。「守る、という言い方が気に入らない議員も多い。皇帝陛下の権威は強いが、帝国は陛下だけで回っていない。貴族も商会も宗教も、みな席を欲しがる」 席。 その単語だけで、胸の奥に椅子の背もたれが浮かぶ。帝国で用意される席は、私にとって居場所なのか、それとも檻なのか。 私は敢えて、話を数字へ引き寄せた。「席を欲しがるなら、税の配分は揉めますでしょう。航路税と港湾税、帝国はどちらを重く見ますの
Last Updated: 2026-02-24
Chapter: 第3章 第3話 出航の日と、鏡の水面
「皇太子妃候補レティシア・エルネスト様、乗船を確認」 港の書記が淡々と読み上げた肩書きが、潮の匂いより先に喉を刺した。 宰相の婚約者になったはずの私が、いつの間にか帝国の妃候補として数えられている。 王国の岸が、鏡の向こう側に沈んでいく。 桟橋は霧と人の熱でざわついていた。 荷を運ぶ男たちの掛け声、帆の軋む音、軍靴の乾いた足音。 全部が現実なのに、私の足元だけが薄氷みたいだった。 レオンハルト陛下が護衛の輪を割って歩み出る。 王冠はなくとも、海風が勝手に膝を折るみたいな圧がある。「忘れるな。これは政略である前に、和平のための旅だ」 命令ではなく、釘だった。 私は息を吸って、頷く。「陛下の釘は、痛いほど効きますわ」 言ってしまったあとで、自分の声が震えているのに気づく。 笑いに変える余裕なんてないのに、癖で口が動く。 父は私の手を握ったまま離さない。 侯爵の手は温かいのに、爪先は冷える。「目で戦うな。戻る場所は、まだ王国にある」 母は私の髪を整えるふりをして耳元で囁いた。 香の匂いが、子どもの頃の寝室を連れてくる。「椅子はね、座るよりも……降りる時のほうが勇気が要るのよ」 胸の奥が、ぐらりと揺れた。 宰相の隣の椅子。 王国のために座ると決めた椅子。 なのに今、私はその椅子ごと船に載せられている。 舷側へ向かう途中、視線を感じて足が止まる。 桟橋の端、少し離れた場所に馬車がある。 幌の影に、見慣れた金髪が揺れた。 アルノルト。 元王太子。 私が想像していたのは、憎しみか、嘲りか、あるいは自分勝手な呼び戻しだった。 けれど彼は、ただ帽子のつばを押さえ、深く頭を下げた。 私のほうへ、ではなく。 王国そのものへ、という角度で。 それが、最悪だった。 私の中で終わったはずの
Last Updated: 2026-02-14
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