Masuk紗奈はいったん怜司の手を離し、離婚協議書を両手で持った。怜司の視線が、紙の動きを追う。彼は、止めなかった。紗奈は書類を半分に折り、ゆっくりと破った。紙の裂ける音が、静かな書斎に響いた。怜司の瞳が、大きく揺れた。「出ていくつもりは、ありません」紗奈は破いた紙をテーブルに置いた。「ただ、契約を結び直したかったんです」隣に用意していた、新しい書類を渡した。書かれている条項は、3つだけだった。【互いにとって重要な事実を、隠さない。】【相手の選択を、代わりに決めない。】【婚姻期間に、期限を設けない。】怜司は最後の1行を長く見ていた。「期限なし」「気に入りませんか?」「いえ」いつもは口元だけでかすかに笑う男が、初めて、はっきりと顔をほころばせた。「俺が、望んでいた条件です」「追加したいことは?」怜司は少し考えた。「ひとつだけ」空欄に、自分で1行書き足す。【喧嘩をした日も、同じ家で眠る。】紗奈は目を細めた。「これは、どちらに有利な条項ですか?」「2人ともに」「別々の部屋は、いいんですか?」「ドアは、開けておいてください」紗奈はとうとう笑った。「検討します」ペンを差し出す。「それでは、署名を。旦那様」怜司は迷わず、名前を書いた。紗奈もその隣に署名した。公証人も法務部もいない。2人だけの、約束だった。書類を置いた怜司が紗奈の頬を包んだ。「本当に、後悔しませんか?」「一度は、後悔しました」彼の表情がこわばったので、紗奈は笑った。「どうして、もっと早くあなたを選ばなかったんだろうって」怜司はそれ以上聞かなかった。紗奈を引き寄せ、ゆっくりと唇を重ねる。急がないキスだった。けれど、安堵と喜びは、隠しようもなく伝わってきた。紗奈はその首に腕を回した。「愛しています」怜司の動きが止まった。「もう一度、言ってください」「愛してるって、言ったんです」「あと、一度だけ」「怜司さん」紗奈は笑い、唇に短く口づけた。「愛してるわ、あなた」その夜、2人は契約結婚を終えた。離婚したからではない。契約がなくても、一緒にいると選んだからだ。数日後、2人は両家の家族を招かず、ささやかな夕食の席を設けた。最初の結婚式では言えなかった言葉を、今度は直接、互いに伝えた。怜司は同じ指輪をもう一度、紗奈の
日付が変わろうとしていた。ジャケットを脱ぎながら書斎に入った怜司はテーブルの婚前契約書と離婚協議書を見つけた瞬間、足を止めた。「これは、何ですか」声は落ち着いていたが、顔からは血の気が引いていた。紗奈は向かいに立った。「契約の最後の条項を、整理しようと思って」怜司が離婚協議書を手に取る。「本当に、出ていきたいんですか?」「いいえ」すぐに返した答えに、彼の目が揺れた。「では、なぜこれを?」「復讐は終わりました。両家の問題も、ほとんど片づきました。もう、契約のために夫婦でいる理由は、ありませんよね」「理由は、契約だけだと思っているんですか?」「だから、聞きたいんです」紗奈はまっすぐ彼を見た。「隼人を倒す必要がなくなっても、私と結婚したいですか?」怜司が書類を置いた。「その問いに、まだ答えていませんでしたね」「怜司さんが私を求めてくれているのは、わかっています。でも、いつからだったのか、なぜ私だったのか、きちんと聞いたことはありません」「話せば、重荷になるかと怖かった」「今度は、私が聞いて、判断します」怜司がゆっくり紗奈へ近づいた。「6年前、一ノ瀬ホテルの新規事業説明会で、あなたを初めて見ました」紗奈は黙って聞いた。「入社して間もない社員だったのに、役員たちが反対する企画の発表を、最後までやり遂げた。数字はひとつも間違えず、責任を人に押しつけることもなかった」「会議が終わると、上司はまず、あなたに失敗の責任を問い始めた。あなたは言い訳をせず、修正の日程を示した。そのくせ、チームのミスは自分の責任だと言った」紗奈の記憶にも、うっすらと残っている。新人に近かった自分が、徹夜で仕上げた、地方ホテルの再生計画だ。「そのときから、見ていたんですか?」「意識しないようにしていました。うまくはいきませんでしたが」怜司の口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。「あの日から、忘れられなかった」「それが、愛だったんですか?」「最初は、ただの関心だと思っていました」怜司が一度息を整えた。「その後、両家の間で縁談が出たとき、一ノ瀬側が最初に検討した相手は、俺でした。でも当時、父と経営権の問題で対立していて、海外法人を任されていた。父は、自分が推していた隼人を選んだんです」「うちの家族も、そのことを知っていたんですか?」「知ってい
取締役会が終わって、わずか3日。隼人の日常は崩れた。黒瀬は彼をすべての職務から外し、損害賠償請求の準備を進めた。検察の捜査チームは、黒瀬流通と文化財団を捜索し、関係資料を押収した。隼人は海外渡航にも制限を受けることになった。征臣ももう息子をかばわなかった。虚偽の記事は訂正記事に変わり、融資幹事行は中断していた共同リゾート事業の審査を再開した。一ノ瀬の取締役会も、紗奈が損失を未然に防いだ功績を、正式な議事録に残した。数日前まで別居を勧めていた古参たちは、態度を変え、紗奈の決断を褒めた。紗奈は喜びも、腹を立てもしなかった。必要なとき、本当に守ってくれた人が誰なのか、もう知っていたからだ。麗華からは、告発だけは取り下げてくれと電話がかかってきた。紗奈は短く答えた。「会社の損害も、犯罪の捜査も、私が取引に使っていいものではありません」* * *木曜日の夜。元麻布のペントハウスの地下駐車場。車を降りた紗奈の前に、隼人が現れた。以前、家族の車として登録されていた車両で、地下まで入ったらしかった。つい先日まで、仕立てたスーツに身を包み、随行員を連れていた男だとは思えないほど、やつれていた。シャツは皺だらけで、目の下には濃い隈がある。警護員が即座に間に入ったが、紗奈は離れた場所から言った。「話があるなら、そこで言って」隼人がよろめくように、一歩近づいた。「告発を、取り下げてくれ」「嫌よ」「兄さんに、ひと言頼めばいいだろ。おまえの言うことなら、聞くじゃないか」「だからこそ、頼まない」「紗奈。俺たち、6年も一緒だっただろ」「その6年間で、私の好きな食べ物、ひとつでも覚えた?」隼人が黙った。「私がどんな仕事をしていたか、知ってる? 家の行事のあと、何度1人で泣いたか、知ってるの?」「今、それが何の関係あるんだよ」「だから、終わったのよ」その答えを聞いても、もう何も感じなかった。「その6年を、先に捨てたのはあなた」「俺がどうかしてた。莉央に騙されたんだ」「莉央を選んだのは、あなたよ。会社のお金を送ったのも、あなた」隼人の顔が歪んだ。「おまえだって、復讐のために兄さんと結婚しただろ。俺と何が違う?」「私は誰のお金も盗んでいないし、あなたを騙したまま結婚しようともしなかった」紗奈の声は、落ち着いていた。「何より、
プレスセンターのスクリーンに、黒瀬ホテル32階の防犯カメラ映像が流れた。先に客室へ入っていく、隼人と莉央。その1時間後、1人でエレベーターを降りる紗奈。時刻表示とともに、順に映し出される。「私が黒瀬怜司副会長と客室を利用したという報道は、事実ではありません」紗奈がリモコンを押した。次の画面には、録音データに関する公証書類と、書き起こしの一部が映った。政略結婚なのだから、紗奈には婚約破棄などできない。そう、隼人が言っている箇所だった。記者席がざわついた。「私生活のすべてを公開するつもりはありません。ただ、婚約破棄の責任を確認するために必要な資料は、捜査機関および裁判所へ提出する予定です」記者の1人が手を挙げた。「黒瀬怜司副会長との結婚が、復讐目的だったことは認めるのですか?」紗奈は逃げなかった。「当時の選択に復讐心がなかったと言えば、嘘になります」「ですが、感情と事実は別です。私が誰と結婚したかによって、黒瀬隼人氏が会社資金を流用したかどうかが、変わるわけではありません」画面が切り替わった。エムアール・アートアドバイザリーへ流れた委託料と決裁記録。名義上の代表者を通じた会社の関係図。決裁上限を避けるように、と隼人が指示したメール。資料が、次々に示された。「黒瀬の監査チームは、現時点で5億2000万円相当の不当な支出を確認しています。その一部が、三枝莉央氏の住居の保証金や、私物の購入に使われた形跡があります」今度は、次々と質問が飛んだ。「黒瀬隼人常務が、直接指示した証拠はあるんですか?」「合弁会社の資金も、流用されたのでしょうか?」「三枝莉央氏には、確認を取っていますか?」紗奈は確認できたことだけを答えた。「合弁会社の実際の損失は、防いでいます。私が財務調査の過程で、契約を止めたためです」別の記者が、尋ねた。「怜司副会長が監査資料を利用して、弟を排除しようとしたのでは、という疑惑にはどう答えますか?」「監査は、私の結婚前から行われていました。外部会計事務所の着手日と、調査の記録も併せて配布しています。まずは資料をご確認のうえ、ご判断ください」紗奈は怜司の代わりに弁解せず、事実だけを示した。ネットの生中継でも、『互いの浮気』より、『グループ会社の資金流用』が、大きな争点になっていた。最後に、今回の虚偽記事
「どう、終わらせるつもりですか?」怜司に尋ねられ、紗奈はノートパソコンを開いた。「隼人は私生活の問題だけに話を持ち込みたいんです。どちらが先に浮気したかだけを争えば、結局は泥仕合になりますから」画面に、資料の一覧を出した。「だから、私生活と犯罪は分けて説明します。婚約破棄の責任は客観的な資料で整理し、会社資金の問題は、監査結果として示すんです」最初のフォルダーには、黒瀬ホテル3201号室の件に関する資料が入っていた。紗奈のスマートフォンに残る録音の原本と作成時刻。隼人と莉央の入退室記録。紗奈が2人より遅く32階へ到着したことを示す、廊下の防犯カメラ映像。2人が以前にも同じ客室を繰り返し利用していた、予約と決済の記録も確保していた。紗奈は録音全体を公表しないと決めた。過度に私生活へ踏み込む部分は出さず、法務部が選んだ必要箇所だけにする。原本については、公証人による確認を受けたうえで、捜査機関へ提出する予定だった。2つ目のフォルダーは、資金の資料だった。エムアール・アートアドバイザリーへ支払われた業務委託料、隼人の電子決裁記録、莉央側とのつながりを示す法人登記、法人カードの利用明細、そして合弁会社にも同じ業者を入れようとした契約書案。怜司の指示で範囲を広げた黒瀬の監査チームの調査により、莉央の元麻布の高級賃貸住宅の保証金の一部が、ペーパーカンパニーの口座を経由して支払われたことも確認された。監査チームは、隼人が決裁上限を避けるため、契約を何件にも分割していたことも突き止めた。メールには、『取締役会への報告基準を下回るようにしろ』という指示が残っていた。3つ目のフォルダーには、今回の虚偽記事と、隼人側のPR会社の契約に関する資料があった。隼人側の顧問会社とPR会社の間では、記事が出る3日前に、『危機管理およびレピュテーション対応』の業務委託契約が結ばれていた。匿名の情報提供が偶然現れたのではなく、計画された攻撃だったことをうかがわせるものだ。「これなら、反論は難しいでしょうね」怜司が言った。「感情的な言葉は、できるだけ使いません。確認できたことだけを話します」「いいと思います」怜司は資料を自分の手に引き取ろうとはしなかった。「発表者は、あなたの名前にします。監査チームの資料には、正式な確認書をつけましょう」「副会長が
火曜日、午前9時。大手ニュースサイトと経済紙のトップに、同じ内容の記事が並んだ。【独自】黒瀬怜司副会長と一ノ瀬紗奈氏、弟との婚約中から不適切な関係か6年前、一ノ瀬ホテルの事業説明会で言葉を交わす怜司と紗奈。結婚発表前、黒瀬ホテルの32階で、一緒にエレベーターへ乗り込む2人。記事には、それらの写真が並べて掲載されていた。時期の違う写真を巧妙につなぎ、2人は以前から秘密の関係にあったという、匿名の証言まで添えてある。写真の説明から、日付は抜け落ちていた。ホテルの廊下の写真も、紗奈が浮気の現場を目撃したあと、怜司と下りていく場面だった。それが、『密会を終えた2人』と書き換えられている。事情を知る者には、雑な捏造だった。けれど、見出ししか読まない人間を煽るには、十分だった。隼人側のPR会社は、彼が兄と婚約者に同時に裏切られた被害者だという資料を、各メディアへばらまいた。莉央は複数のアカウントを使い、『一ノ瀬紗奈のほうから黒瀬怜司に近づいた』という書き込みを、ネット掲示板に広めた。事実よりも、刺激的な物語が速く広がっていった。黒瀬ホールディングスと一ノ瀬ホテルズの株価は、取引時間中、一時5%近く下落した。共同リゾート事業の融資幹事行は、事実関係が明らかになるまで、審査を保留すると通告してきた。両家の反応も激しかった。征臣は怜司に、海外出張を口実に、しばらく姿を隠せと求めた。麗華は報道の前で隼人をかばうべきだと主張した。一ノ瀬の古参たちは、紗奈に電話をかけてきた。「真実がどうあれ、市場は待ってくれない。ひとまず別居だけでも発表しなさい」「共同事業ひとつのために、グループ全体が揺らぐぞ」父は、直接離婚しろとは言わなかった。ただ、沈黙の末に尋ねた。「怜司副会長との結婚を、続けるつもりか?」「お父さんも、記事を信じているんですか?」「信じるかどうかと、市場の反応は別だ」間違っているとは言えなかった。経営者は数字を見なければならない。それでも、娘に向ける言葉さえ数字が先なのは、つらかった。紗奈は一度息を整えた。「続けます」電話を切ると、手が震えた。6年間、家の体裁のために耐えてきたのは自分だ。それなのに、隼人の裏切りの責任まで、自分に回ってくる。記事の下には、顔も知らない人間の罵声が積もっていた。浮気女。兄弟を弄







