INICIAR SESIÓNその時、何年も前のことがふと脳裏をよぎる。独りぼっちでA市を去り、生きていくことすらままならなかったあの頃の自分。当時の私は、世界中の誰からも見捨てられたような気持ちでさえいた。だから、こんな風に誰かから愛される未来なんて、想像もしていなかった。誓いの言葉を述べる時、珍しく孝之が緊張した面持ちを見せていた。そして、彼は私の手を握り、静かに話し始める。「最初は、ただ単に自分にふさわしい結婚相手を探していただけだった。綺麗で賢く、気の利く女性。もっと言えば、おじいさんにも気に入ってもらえそうな人」会場からドッと笑い声が湧き上がった。特に翔吾は、白いひげを震わせて大笑いしている。私もつられて笑ってしまった。孝之は、そんな私を愛情が溢れんばかりの瞳で、真っ直ぐに見つめてくれていた。「でも、ある時気づいたんだ。人は、誰かひとりの存在で、こんなにも強欲になってしまうものなんだって。初めは、遥に毎日会いたくなったし、遥が俺を必要としてくれるのが嬉しかった。それからは、遥の笑顔を自分一人だけのものにしたいとまで願うようになったんだ。だから、この世で一番良いものを全部遥にあげたかった」私を見つめる孝之の瞳が、じわりと潤む。「遥、俺と結婚してくれて本当にありがとう。遥に出会えたことが、人生最大の幸運だよ」私の目頭も熱くなった。そして、私が言葉を発するより早く、孝之はそっと私に口づけを落とす。会場が割れんばかりの拍手に包まれた。その瞬間、私は心が静かに満たされていくのを感じた。そして、初めて知った。誰かに迷いなく選ばれ、真っ直ぐに愛されるというのは、こういう感覚なのだと。5年後。お盆の季節。私と孝之は、墓参りのために息子を連れて帰国した。偶然、昔の友人にも出会い、彼女が近況を色々と教えてくれた。「そういえばさ、律人さんのこと聞いた?」再び律人の名を聞くと、遠い過去の話のように思えた。「彼、どうしているの?」と私は聞いてみる。すると、友人が小さく溜息をついた。「2年前、お金持ちの家の子供に、両親を轢き逃げされた女性のために、お金を受け取らないで、その裁判を引き受けたの。裁判は勝ったんだけど、相手側の家を敵に回しちゃって……結局ひどい報復を受けて、今は半
「もう、いい加減にしろ!遥がプロポーズを受けようが受けまいが、遥は俺の妻だ。それに、遥を散々傷つけておいて、どの面下げてここにきてるんだ?」口元に血を滲ませながらも、律人はまだ私の顔をじっと見つめている。私は孝之を制した。「もういいよ」私を振り返った孝之だったが、その瞳にはまだ怒りの炎がくすぶっていた。「だってあいつ……」それでも、私はただ静かに首を横に振った。「関係ない人のせいで、せっかくの素敵な時間を台無しにしないで」その瞬間、律人の顔からさっと血の気が引いた。私は自ら手を伸ばし、孝之の掌から指輪を受け取ると、自分の薬指にはめる。輝くダイヤを眺めながら、私は笑顔で言った。「ダイヤの指輪、とっても綺麗ね」顔を上げ、私はもう一度孝之を見つめる。「孝之、あなたと結婚したい。本当に、心からあなたと一緒になりたいの」孝之ははっと息をのんだ。それからすぐに彼は私を力強く抱き寄せ、唇を重ねる。周囲から温かい拍手と歓声が湧き上がる中、視界の端で、律人がゆっくりと手を伸ばし、唇の血を拭うのが見えた。やがて、彼は魂の抜けたような背中でその場から去っていった。だが、そんなことはもうどうでもいい。今の私にとって、律人は赤の他人なのだから。結婚式の前日、私は孝之を連れて、郊外の墓地へと向かった。そこには、父と母、そして祖母が眠っているため、明日、結婚式を挙げることを報告しに来たのだ。今の私がどれほど幸せか、どうしても伝えたかった。私は孝之と手を繋ぎ、白い菊を抱えて、一段ずつ階段を登っていく。墓石の前に立ち、私は言葉を失った。3人の墓の前には、それぞれ新鮮な花が供えられていて、そのそばには、一枚のメッセージカードが添えられていたのだ。かがみ込んでそれを拾い上げてみると、そこには短くこう書かれていた。【申し訳ありませんでした。安らかに眠ってください】そこに名前はなかったが、それが律人の字であることは、一目で分かった。だが残念だ。全てを失った今、こんなことをしても意味がないのだから。それに、今の私だってもう何とも思わない。孝之もそれが律人のものだと気づいたのだろう。鼻で笑うと、花とカードを遠くに投げ捨てた。そして、自分が持ってきた花を丁寧に並べ、墓石に向かって
あれだけ傲慢で、冷酷だったあの律人が、まさかこんな言葉を口にするなんて。でも、あまりに遅すぎた。私は律人を見据え、はっきりと言う。「孝之はどこもかしこも最高なの。だって彼が孝之だから。あなたが彼に勝てることなんて、一生ない」律人の瞳から、完全に光が消え失せた。私はこれ以上この男の相手をする気にはなれなかった。「早く出て行って。じゃないと、人を呼ぶわよ」しかし律人は腕を伸ばし、信じられないほどの力で私を抱きしめた。「遥……」彼の声は震えている。「以前の君はこんなじゃなかった……君は……俺のことを愛してくれていたのに……」その瞬間、私の中の何かが揺らいだ。確かにそうだった。昔の私は、律人のことが大好きだった。いつも律人のことを考え、彼の全てに一喜一憂していた。律人が少しでも微笑めば、私はしばらくの間何も手につかなくなるくらいに。けれど、そんな私はもう5年前のあの日にこの世から消えたのだ。律人自身の手によって葬られたあの私は、もう二度と戻ってこない。私は全力で律人を突き飛ばした。「あなたも昔のことだって分かってるじゃない。今の私は、あなたのことなんてこれっぽっちも好きじゃないの」この言葉で、律人は完全に打ちのめされたようだった。彼の目が真っ赤に染まっていく。次の瞬間、律人は私の前で膝をついた。私は再び呆気に取られた。しかし、律人は自分のプライドなど微塵も気にしていないようだ。私を見上げながら、彼は掠れた声で言った。「どうすれば……許してくれるんだ?」私は膝をついている男を見下ろす。だが、心は依然として静かなまま。ただ、滑稽だとしか思わなかった。かつて無我夢中の思いで追いかけていた人が、今、私の目の前で跪いているというのに、少しも心が痛まない。私は静かに口を開いた。「律人、まだ分からないの?私の両親や祖母を殺したのは、相沢家だけじゃない」律人の瞳をじっと見つめ、私は奥歯を噛み締めて言い放つ。「あなたっていう共犯者もいたの。私に許してほしいって?私の家族を生き返らせてくれたら、考えてあげてもいいよ。それか、あなたが死ぬか……ね?」私の冷酷な言葉が言い放たれた瞬間、律人が全ての力を失ったかのように力なくうなだれた。
私は呆気にとられた。なぜ律人がそんなことを私に説明する必要があるのか、理解できなかったのだ。だから、思わず笑ってしまった。「律人、それって私に何か関係ある?」律人の顔がわずかに青ざめた。私はもう、律人を見るのすら億劫だった。「出ていってもらえる?今から試着するから」傍にいた店員も少し困惑している。「椎名さん、少しこちらで……」だが、律人は全く聞く耳を持たずに、その視線はそばに並んだウェディングドレスに釘付けになっていた。彼の顔色がどんどんと白くなっていく。特にマーメイドドレスを見たとき、律人の目が潤んだ。私もそれを見て、当時のことをふと思い出した。かつて私たちが結婚の準備をしていたとき、選ぼうとしていたドレスとそっくりだったのだ。私はマーメイドドレスを指さし、店員に告げた。「これは着ないので、あとの2つを試着します」律人が苦しそうに口を開く。「君が……陸川社長と、国内で式を挙げるって聞いたよ」私はドレスのレースにそっと触れた。「ええ、そうよ。だから早く出ていって。気分が台無しになるから」自分の言葉がひどいことは分かっている。律人を傷つけたのは間違いないだろう。でも、もうどうでもいいのだ。私は律人を放置して試着室へ入った。しかし、律人の図々しさには驚かされるばかりだった。なんと、私の後をついてきて、鍵までかけたのだ。律人がじりじりと近づいてくる。私は思わず後ずさったが、すぐに冷たい壁が背中に当たった。律人が私を壁に追いつめた。もう逃げ場なんてどこにもない。よく知っているウッディ系の香りが漂ってくる。だが、今感じるのは不快感だけ。「何してるの!出ていってよ!」しかし、律人には聞こえていない。私を見下ろしてじっと見つめるその目には、抑え込まれた激情が宿っていた。「遥、俺たちはもう……本当に駄目なのか?」そんなことを問う律人の姿が、滑稽でしかない。「律人、私は結婚しているんだよ」律人は唾を飲み込み、掠れた声で言った。「それがどうしたって言うんだ?」私は思わず呆れて笑ってしまった。「何?私の愛人になりたいとでも言うわけ?」私がそう言うや否や、律人がすぐに口を開く。「それの何が駄目なんだ!?」私は律人の目を数
窓の外でちらついていた赤い光が、分厚いカーテンの向こう側へと消えた。そして、私自身の人生からも、完全に切り離されたのだった。孝之が背後から私を抱きしめ、肩に顎を乗せてきた。「本当に、どうでもいい奴なのか?」私は振り返り、孝之の両頬を包み込んで、力強く口づけをする。「うん。私には孝之がいればいいから」この言葉を口にした瞬間、今までにないほどふっと胸が軽くなった。完全に過去と別れることができた気がしたのだ。孝之の瞳に、途端に柔らかな笑みが浮かぶ。次の瞬間、彼はそのまま私をベッドへと押し倒した。「遥。今夜はずいぶん可愛いこと言うんだな?なら、俺もたっぷり可愛がってやるよ……」これは少し、まずいことになった。「孝之、ちょっと待っ……」私の言葉を遮るように、孝之に深く口を塞がれたのだった。……ようやく全てが終わった頃には、外はもう白み始めていた。疲れ果てた私は、まぶたさえ開けられない。だというのに、孝之はとても元気そうだ。彼は私を抱き寄せ、上機嫌でこう囁く。「遥、改めて結婚式を挙げようよ」私は夢うつつの中、目を開けた。「どうして?」孝之は私の指先を優しく弄りながら、低く声を落とす。「前の式は、気持ちが無くて形だけだっただろ?だから、ずっと少し心残りだったんだよ」確かにその通りだ。当時、孝之は「妻」という役割を求め、私は資金と安定した生活を求めていた。私たちは利害関係でしかなかったのだ。だから、プロポーズの言葉もなく、結婚指輪ですら秘書に買わせたもの。形だけの式で、私たちはただ台本どおりに演じる役者に過ぎなかった。しかし今は違う。孝之は私の額にそっとキスをすると、真剣な眼差しでそう言った。「今は心からお前を愛している。だからこそ、もう一度ちゃんとした式を挙げたい。それに、国内にいる遥の友人たちにも、今の遥がどれほど幸せかを見せつけてやりたいんだ」私は少しぼうっとしてしまった。実を言うと、昔の友人たちにどう思われようと、私にとってはどうでもよかった。それでも……母、父、そして祖母に、孝之と一緒になって幸せになっている私を見て欲しいと思った。私は小さく孝之を抱きしめ、囁き返す。「うん。あなたの思う通りにする」しかし、孝之はまたキ
孝之は気だるげに律人に視線を向けたが、口調には棘があった。「いっそ、椎名先生の目の前で俺たちが愛し合うところでも見せつけてやる?」「ちょっとっ……!」私は顔が真っ赤になった。たまらず孝之の胸を軽く叩く。「孝之!変なこと言わないでよ!」私がムキになっている姿を見て、孝之はかえって楽しそうに笑みを深めた。そのまま私の手を握り、指先にキスを落とす。「照れるなよ。夫婦の間では当たり前にあることだろ?」私はさらに頬が火照るのを感じた。一方で、律人の表情は怒りでどうにかなりそうだった。彼は孝之が私の腰に添えた手を憎々しげに見つめ、額には青筋が浮かんでいた。孝之ももう我慢の限界だったのか、律人の方を向き冷ややかに口を開く。「椎名先生、悪いけど帰ってくれるか?俺と妻はやることがあって、忙しいんだよ」最後の言葉をわざと強調した孝之。そして言い終わるや否や、孝之は私を横抱きに抱え上げた。私は思わず孝之の首に腕を回す。「何してるの……」孝之は俯いて、私の耳元で囁いた。「部屋に戻ろう。まだやることがあるからな」そう言うと、孝之は大股で2階へと階段を上っていった。しかし、一筋の視線がずっと背中に刺さっていることを、私ははっきりと感じ取っていた。それは、重く張り詰め、今にも溢れ出しそうな……そんな視線。だが、今回も私は振り返らない。一度たりとも振り返らなかった。もう他人に関わり、心を乱されるのは御免だ。「やるべきこと」を終えた頃には、夜も深く更けていた。窓の外では、冷たい雨が音を立てて降っていたが、寝室はそれと対照的に、濃厚な熱気に包まれている。孝之のせいで、私は微塵も力が残っていなくて、布団に丸まって、指先一本動かすのも億劫だった。それでも孝之はまだ私を背後から抱きしめてきて、私の肩に何度もキスを落としてくる。彼の声には満たされた余裕が滲んでいた。「遥、俺に押し倒されるのが好きなんじゃないのか?」強い眠気に襲われていた私は、目を閉じたまま答える。「……何て?」「元カレの前で、お前はずっと俺の手を離さなかっただろ?」と孝之は甘えたように言った。私は思わず吹き出した。「幼稚だと思わないの?律人への嫉妬なんて時間の無駄よ」それでも、孝之は譲らなかった。「あいつ