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妻が娘を連れて昔の男と旅行に行った

妻が娘を連れて昔の男と旅行に行った

By:  笑い竹Completed
Language: Japanese
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大型連休に合わせて、俺は一か月も前から旅行の計画を立てていた。妻の桐谷美月(きりたに みづき)と娘の桐谷ひまり(きりたに ひまり)を連れて、家族三人で国内の名所を巡るつもりだった。 ところが出発当日になって、二人はそろって姿を消した。 土砂降りの街中に一人取り残された俺は、何度も二人に電話をかけた。 ようやくつながった電話の向こうから聞こえてきたのは、まだ幼いひまりの冷たく苛立った声だった。 「ママは悠真お兄ちゃんとご飯食べてるの。ひまりたち、もう旅行には行かないから」 そう言い残して電話は切られ、そのまま俺の番号は着信拒否された。 そのうえ美月とひまりは、わざと俺を家から締め出した。俺は凍える寒さの中、一晩中外で過ごす羽目になった。 前夜から土砂降りの雨に打たれていたことも重なり、その日の夜には高熱を出し、肺炎にまでこじらせた。 その頃、美月とひまりは俺のことなど気にも留めず、深見悠真(ふかみ ゆうま)と三人で旅行を楽しんでいた。 もうこの結婚は終わりだ。今度こそ俺はそう悟った。

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Chapter 1

第1章

目を覚ますと、鼻をつくほど消毒液の匂いがした。

体中が軋むように痛い。頭もぼんやりしていて、ひどく気分が悪かった。

看護師に聞いてようやく事情が分かった。昨夜、俺は自宅の玄関前で倒れていたらしい。それを見つけた近所の人が、病院まで運んでくれたのだという。

ふと、ひまりが電話口で口にした、悠真お兄ちゃん、という言葉が脳裏をよぎった。

深見悠真。美月の初恋の相手だ。

ちょうど昼時だった。病室のあちこちから、患者と見舞いに来た家族の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

けれど俺のベッドのそばには誰もいなかった。

しばらく黙って天井を見つめたあと、結局俺は美月に電話をかけたが、やはり出ない。

SNSを開いてみると、少し前に美月が新しい投稿をしていた。

【大好きな人たちと、最高の連休を満喫中】

添えられていた写真には、美月と悠真が娘を挟んで肩を寄せ合い、観光地を背景に満面の笑みを浮かべていた。

どう見ても、仲睦まじい三人家族だった。

思わず自嘲の笑みが漏れる。傷つかなかったと言えば嘘になる。

だがこんなこと一度や二度じゃない。もう慣れてしまった。

俺はその投稿にわざわざ「いいね」を押してから、スマホを伏せた。

それから数日。俺が病院にいる間、美月とひまりはずっと悠真と遊び歩いていた。

そして退院の日まで、二人が病院に顔を出すことは一度もなかった。荷物をまとめるのも、家に帰るのも、すべて一人だった。

玄関のドアを開けた瞬間、中から美月とひまりの楽しそうな声が聞こえてきた。

リビングでは、美月とひまりがソファに並んで座っている。二人の周りには、大小さまざまなプレゼントの箱が山のように積まれていた。どれも凝った包装がされていて、ひと目で安物ではないと分かる。

俺に気づいた途端、二人の表情が変わった。

さっきまで笑っていたのが嘘のように冷たくなり、まるで俺が敵でもあるかのような目を向けてくる。

以前の俺なら、何事もなかったふりをして自分から話しかけ、険悪な空気をどうにかしようとしていただろう。

でも今は、心も体も疲れ切っていた。そんな気力は、もうどこにも残っていない。

美月は脚を組んだまま、不満げに俺を見上げた。

「航平、今までどこほっつき歩いてたの?何日も連絡一つよこさないで、今さら帰ってくるなんて。父親としてどうなの?」

思わず耳を疑った。

ひまりと悠真との旅行がよほど楽しかったのだろう。だから俺が何十回もかけた電話にも、まったく気づかなかったというわけか。

いや、いつだってそうだった。美月に原因があっても、最後にはすべて俺のせいにされる。

もう言い返す気にもなれなかった。くだらない。

俺が黙っていると、美月はまた俺が勝手に拗ねていると思ったらしい。

軽蔑するような視線を向けると、変えたばかりのネイルを眺めながら面倒そうに言った。

「航平、今度は何が気に入らないの?私とひまりが一緒に旅行へ行かなかったくらいでしょ?そんなことで、いつまで怒ってるつもり?」

そんなこと?そんなことで済むわけがない。

「だいたい、あの日は悠真がたまたま私とひまりを食事に誘ってくれて、それで飛行機に間に合わなかっただけじゃない。悠真はこっちに頼れる人もいないのよ?少しくらい一緒にいてあげたっていいでしょ。男のくせに心狭すぎ」

悠真には頼れる人がいない?だったら、俺は?

俺だって両親はとっくに亡くしている。ずっと一人だった。

長い間愛してきたはずの女を見つめながら、俺は初めて、美月がまるで知らない人間のように思えた。

十年も尽くしてきた。それなのに、何もかも馬鹿らしくなった。

すると今度は、ひまりまで美月の味方をし始めた。俺への嫌悪を隠そうともしない。

「パパってほんと心狭いよね。悠真お兄ちゃんみたいに優しくないし、プレゼントだって全然くれない!

これ、ぜーんぶ悠真お兄ちゃんが買ってくれたんだよ!パパはママを怒らせてばっかりだから、ひまりもうパパ嫌い!

ひまり、悠真お兄ちゃんにパパになってほしい!」

これが、俺がずっと大切に育ててきた娘なのか。怪我をしないように、つらい思いをしないようにと、何より大事に守ってきた。

それなのにひまりの中では、実の父親である俺より、悠真のほうが大切らしい。

笑える。

人の心にだって限界はある。何度も何度も傷つけられれば、そのうち痛みすら感じなくなる。

美月もひまりも、そこまで俺が気に入らないというのなら、望み通りにしてやればいい。

俺は迷うことなく鞄から離婚届を取り出し、美月の目の前に置いた。

「離婚しよう」

そして、口を尖らせているひまりへ視線を移す。

「これで悠真お兄ちゃんがパパになってくれるぞ」

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第1章
目を覚ますと、鼻をつくほど消毒液の匂いがした。体中が軋むように痛い。頭もぼんやりしていて、ひどく気分が悪かった。看護師に聞いてようやく事情が分かった。昨夜、俺は自宅の玄関前で倒れていたらしい。それを見つけた近所の人が、病院まで運んでくれたのだという。ふと、ひまりが電話口で口にした、悠真お兄ちゃん、という言葉が脳裏をよぎった。深見悠真。美月の初恋の相手だ。ちょうど昼時だった。病室のあちこちから、患者と見舞いに来た家族の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。けれど俺のベッドのそばには誰もいなかった。しばらく黙って天井を見つめたあと、結局俺は美月に電話をかけたが、やはり出ない。SNSを開いてみると、少し前に美月が新しい投稿をしていた。【大好きな人たちと、最高の連休を満喫中】添えられていた写真には、美月と悠真が娘を挟んで肩を寄せ合い、観光地を背景に満面の笑みを浮かべていた。どう見ても、仲睦まじい三人家族だった。思わず自嘲の笑みが漏れる。傷つかなかったと言えば嘘になる。だがこんなこと一度や二度じゃない。もう慣れてしまった。俺はその投稿にわざわざ「いいね」を押してから、スマホを伏せた。それから数日。俺が病院にいる間、美月とひまりはずっと悠真と遊び歩いていた。そして退院の日まで、二人が病院に顔を出すことは一度もなかった。荷物をまとめるのも、家に帰るのも、すべて一人だった。玄関のドアを開けた瞬間、中から美月とひまりの楽しそうな声が聞こえてきた。リビングでは、美月とひまりがソファに並んで座っている。二人の周りには、大小さまざまなプレゼントの箱が山のように積まれていた。どれも凝った包装がされていて、ひと目で安物ではないと分かる。俺に気づいた途端、二人の表情が変わった。さっきまで笑っていたのが嘘のように冷たくなり、まるで俺が敵でもあるかのような目を向けてくる。以前の俺なら、何事もなかったふりをして自分から話しかけ、険悪な空気をどうにかしようとしていただろう。でも今は、心も体も疲れ切っていた。そんな気力は、もうどこにも残っていない。美月は脚を組んだまま、不満げに俺を見上げた。「航平、今までどこほっつき歩いてたの?何日も連絡一つよこさないで、今さら帰ってくるなんて。父親としてどうなの?」思わず耳を疑
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第2章
そう言っても、ソファに座る母娘の表情は少しも変わらなかった。むしろ、俺が身の程知らずなことを言い出したとでも思っているようだった。「航平、いちいち大げさにしすぎじゃない?そもそも悪いのはあなたでしょ。頭を冷やしてもらうために一晩外にいてもらっただけ。それの何が悪いの?」何か言おうと口を開いたものの、言葉が出なかった。美月はあまりにも平然と言ってのけた。まるで、この時期にはもう朝晩が冷え込むことなど忘れているかのように。俺はあの日、土砂降りの中で何時間も美月とひまりを待ち続けた。そのうえ家から締め出され、冷え切った屋外で一晩を明かした。その結果、高熱を出して肺炎になったのだ。近所の人が見つけて病院へ運んでくれなければ、下手をすれば命を落としていたかもしれない。俺は静かに首を振り、苦笑した。「もう話すことはない。サインしてくれ」その言葉に、美月がわずかに目を見開いた。今まで離婚を口にするのは、決まって美月が腹を立てた時だった。俺のほうから言い出したことは一度もなかった。「航平、自分が何言ってるか分かってるの?」高熱のせいで、まだ体には力が入らなかった。それでも俺は疲れ切った体を支え、はっきりと言った。「分かってる。この結婚生活を続ける意味は、もうない」いつも周りからちやほやされることに慣れている美月は、俺があまりにもきっぱり言い切ったのが気に入らなかったらしい。みるみる顔を険しくすると、怒鳴りつけてきた。「いいわよ!離婚してあげる!」美月は離婚届をつかむと、勢いよく俺の顔に投げつけた。「航平、言っておくけど、あなたみたいな男は最初から私には釣り合ってないのよ!お金もなければ何の力もないくせに、私と離れてどうやって生きていくつもり?それに、ひまりは絶対に渡さないから。親権は私がもらう。あの子にあなたみたいな貧乏暮らしなんてさせられない!」ひまりも慌てて美月の脚に抱きついた。「ママに似合うのは、悠真お兄ちゃんみたいにカッコよくて優しい人だもん!」悠真お兄ちゃんはピアノも弾けるし、ダイビングだって教えてくれるのに、パパは何にもできないじゃん!もうパパなんかパパじゃない!この家から出てって!」ひまりの顔立ちは、六割ほど俺に似ている。そんな娘の口から飛び出す言葉は、一つ一つが胸に突き刺さった。
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第3章
俺は一人で、結婚前に買っていたマンションへ戻り、そこで暮らし始めた。俺名義の財産はそれほど多くない。このマンションが、唯一まともに資産と呼べるものだった。もともとは、いずれひまりの名義に変えるつもりでいた。父親が娘にできる、いちばん確かな愛情表現だと思っていたからだ。ところがあの時、悠真が何気なく口にした一言で、すべてが変わった。「そんな古くて狭いマンション、ひまりが住めるわけないだろ。桐谷家のお嬢様には似合わないよ」裕福な桐谷家のお嬢様として何不自由なく育ったひまりは、その言葉を聞くなり大きくうなずいた。そして駄々をこね、このマンションはいらないと言い出した。「ひまり、そんなボロいところ絶対住みたくない!ママの別荘のおうちがいい!」泣きわめく娘を見ているうちに、胸の奥がすっと冷えていった。美月はすぐにひまりを抱きしめ、優しくなだめた。「泣かないの。大丈夫よ。ママがそんな家には絶対住ませないから」そして俺をきつく睨みつける。「航平、どういうつもり?ひまりをあんなボロマンションに住ませる気なの?この子まで、あなたみたいな冴えない人間にしたいわけ?」ただ娘を思ってしたことなのに。どうして二人の口にかかると、まるで俺がひどいことをしようとしているかのようになるのか。何も言えなくなった俺は、すべてを飲み込み、苦笑しながら名義変更はやめると言った。あの頃はまだ、自分に言い聞かせていた。子どもだから仕方ない、悪気なんてない、大人の俺が、いちいち真に受けるべきじゃない、と。でも本当に俺のことを父親として愛していたなら、あんなふうに平気で傷つけられただろうか。今思えば、兆候はいくらでもあった。俺が気づくのが遅すぎただけだ。一人暮らしになってから、家事に追われることがなくなった。驚くほど、自分のために使える時間が増えた。まずは時間をかけて、自分の好きな料理を作った。そのあと、ずっと見たかったスポーツの大会の試合をのんびり観戦した。あの家にいた頃には、どちらもできなかったことだ。美月は辛いものが好きで、ひまりは魚介類にアレルギーがある。けれど俺は辛いものが苦手で、逆に魚介料理が大好物だった。だから今までは、家族全員の好みに気を配りながら料理を作っていて、自分の好みはいつも後回しだった。それはきっ
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第4章
電話の向こうで、美月が息を呑む気配がした。俺はそのまま続けた。「できるだけ早く時間を作って、役所で離婚の手続きをしてくれ」言いたいことを一気に言い切ると、そのまま電話を切った。そして、美月の連絡先をすべてブロックした。その夜は久しぶりによく眠れたが、とても長い夢を見た。夢の中で、俺は十八歳の頃に戻っていた。大学に合格したばかりの俺は、生活に余裕がなく、学費を稼ぐために家庭教師のアルバイトを始めた。成績だけはよかったおかげで、地元でも有名な資産家、桐谷家で働けることになった。教える相手は桐谷家の末娘、美月の妹だった。美月と初めて会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。彼女はライダースジャケットに身を包み、栗色の髪を陽の光にきらめかせていた。自由奔放で、眩しいほど華やかで、俺は一瞬で目を奪われた。人は、自分とは正反対の人間に惹かれるものなのかもしれない。俺が呆然とその姿を追っている間に、美月は俺の視界から離れ、一人の少年が乗るバイクの後ろに飛び乗った。二人の楽しそうな笑い声が、遠くまで響いていた。その少年こそ、悠真だった。美月の初恋の相手、そしてずっと、彼女の心の奥に残り続けた特別な存在だった。その後、深見家は突然事業に失敗し、悠真は海外に住む親戚を頼ることになった。二人の恋は、そうして何の結末も迎えないまま終わった。それから少しずつ、俺と美月が話す機会が増えていった。悠真を忘れられず、一人で朝まで酒を飲む美月を見たこともある。悠真とのことを巡って家族に反発する姿も見た。俺は何も言わず、荒れていたあの頃の彼女にずっと寄り添った。そして自分の気持ちは、ずっと胸の奥に隠したままだった。それが変わったのは、桐谷家が美月に政略結婚を迫った時だ。あの夜、美月はまた酔っていた。家まで送り届け、俺が帰ろうとした時。涙で潤んだ目をした美月が、行かないで、と俺を引き止めた。ほのかな香りが、すぐそばで俺を包んだ。そのまま俺たちは一夜を共にした。そして後日、美月のほうから結婚を持ちかけてきた。もちろん、美月が本当に俺を愛したわけではないことくらい分かっていた。それでも俺には、彼女を拒むことができなかった。当時の俺は、ごく普通の会社員だった。給料だって高くない。一方、美月は生まれた時から裕
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第5章
家を出て四日目、知らない番号から電話がかかってきた。電話口の女性は、よそよそしくも丁寧な口調だった。「もしもし、桐谷ひまりさんのお父様でしょうか?突然申し訳ありません。ひまりさんの担任です。今日、学校で保護者会があったのですが、ひまりさんだけご両親がいらっしゃらなくて……。それを何人かの子にからかわれてしまい、ひまりさんもカッとなって口論になってしまったんです。このままではお子さんのメンタルにもよくありません。お母様にもお電話したのですが、つながらなくて……。それで、お父様にご連絡しました。今から学校まで来ていただくことはできますか?」話を聞き終え、俺はしばらく黙った。スマホの日付を見る。確かに今日は、ひまりの保護者会の日だった。数日前までは、俺も行くつもりで準備していた。というより、これまでの保護者会には毎回俺が出ていた。美月は仕事が忙しくなると、自分のことすらまともに構えなくなる。ひまりの学校行事まで気にかけるはずもなかった。急に、どっと疲れが押し寄せてきた。俺は静かに答えた。「すみません。ひまりの母親とは離婚することになっていて、親権も俺にはありません。ですから、あの子が起こした問題の後始末をする義務も、保護者会に出るつもりもありません」担任は困ったように言葉を詰まらせた。どう対応すべきか分からないのだろう。俺はひまりに代わってもらうことにした。「ひまり。友達とケンカするのはよくない。それくらい、もう分かる歳だろ。自分でちゃんと解決しなさい。保護者会だって、本来ならママに来てもらえばいい。どうしても嫌なら、悠真お兄ちゃんに頼めばいいだろ。どっちにしろ、俺が行くことはない。俺はもう、お前のパパじゃないんだから。そう言ったのは、ひまり自身だろ?これからは俺に連絡してこなくていい。もう俺たちは家族でもなんでもない」言い終えると、電話の向こうでひまりが何か言いかけた。けれど俺は担任に一言断り、そのまま迷わず電話を切った。通話が終わってからも、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。いままでずっと、命より大切にしてきた娘だ。あそこまではっきり突き放して、何も感じないはずがない。胸の奥はやはり痛んだ。昔のひまりは、あんな子じゃなかった。素直で、優しくて、かわいらしい子だった。でも大きくなる
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第6章
個室に入った途端、小さな女の子が勢いよく俺の胸に飛び込んできた。同時に、隼人の慌てた声が聞こえる。「こら、愛!危ないだろ」俺はしゃがみ込み、女の子の頭を優しく撫でた。人形のように整ったかわいらしい顔立ちで、目元にはどことなく隼人の面影がある。隼人は俺のところまで来ると、嬉しそうに肩を叩いた。「航平、久しぶり!娘の愛だよ。生まれた時、お前も抱っこしてくれたじゃん。ひまりちゃんと同い年だ」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、愛ちゃんは俺の首に腕を回した。「航平お兄ちゃん、こんにちは!」素直で礼儀正しい子だった。食事をしながら、俺がこの十年間まともな結婚生活を送れていなかったこと、そして美月と離婚することになったと話すと、隼人は自分のことのように腹を立てた。「美月さんは最初から、お前のことを夫として大事にしてなかったんだよ。あんな女、お前にそこまで愛してもらう価値なんてない。それに、ひまりちゃんだってひどすぎるだろ。あれだけ大事に育ててもらって、あの態度かよ。そんな娘なら、もう放っておけばいい。俺は離婚して正解だと思うぞ」大学時代から、隼人は俺と美月の交際には反対していた。そもそも住む世界が違うと言っていたのだ。美月はいかにもお嬢様らしい気の強い性格で、傲慢なところもあり、昔から人を見下す癖があった。俺は何も言わず、苦笑しながら酒を飲んだ。隼人の言う通りだ。美月と離婚するのが俺たちにとって一番いい結末なのだろう。その夜は、学生時代に戻ったようだった。隼人とは話しても話しても話題が尽きない。その横では愛ちゃんが楽しそうにおしゃべりをして、時々覚えたての冗談を披露しては、俺たちを大笑いさせてくれた。本当にかわいらしい子だ。ひまりと同い年だというのに、性格はまるで正反対だった。これで美月とは、離婚手続きが済むまで関わることもないと思っていた。ところが予想に反して、美月は何度も電話をかけてきた。俺が出なければ、別の番号からまたかけてくる。何がしたいのか、さっぱり分からなかった。ある時、家政婦さんを通して、早く離婚届にサインして手続きを進めてほしい、と伝えてもらっていたところ、途中で美月本人が電話を奪った。「航平、いい加減にしてくれない?たった一度、旅行に一緒に行かなかったくらいで、いつまで
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第7章
背後では、俺があまりにも平然としているのが気に入らなかったのか、美月が苛立たしそうに地団駄を踏んでいた。しばらくして、ようやく愛ちゃんを見つけた。俺が手作りのクッキーを取り出して渡すと、愛ちゃんはぱっと顔を輝かせた。「わあ!航平お兄ちゃん、すごーい!おいしい!今まで食べたクッキーの中で一番おいしい!」そう言いながら、愛は近くにいた友達にもクッキーを分けていた。すると、子どもたちが口々に褒め始める。「愛ちゃんの航平お兄ちゃん、すっごく優しいね!いいなあ!」「でしょ?航平お兄ちゃんはね、料理もすっごく上手だし、お薬の研究もしてるんだよ!たくさんの人を助けられる、すごいお仕事なの!」誇らしげに話す愛ちゃんを見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。こんな気持ちは、ひまりからは一度も味わったことがない。以前先生から、ひまりがお昼をほとんど食べていない、と連絡をもらったことがあった。俺は心配でたまらなくなり、急いで手作りの弁当とジュースを用意して学校まで届けに行った。けれど、ひまりは俺の目の前でそれを全部ゴミ箱に捨てて、わがままそうに怒鳴った。「こんなのいらない!悠真お兄ちゃんが連れてってくれたレストランのご飯がいい!それに、学校にこんな安っぽいもの持ってこないでよ!友達に見られたら笑われるじゃん!」あの時は、自分の娘が言った言葉だとは信じられなかった。しかも後になって知ったのだが、ひまりは学校で俺のことを、家の運転手だと話していたらしい。父親だと思われるのが恥ずかしかったからだ。……やがてスポーツ大会が始まった。俺は観客席から愛ちゃんに声援を送っていた。種目はリレーだった。ふと相手チームを見ると、先頭に立っているひまりがすぐ目に入った。手足を軽く動かしながら、絶対に勝つと言わんばかりの表情をしている。ひまりは昔から負けず嫌いだった。何をするにも一番になりたがった。それが少し心配で、俺は何度も穏やかに言い聞かせたことがある。「ひまり、何位かなんてそんなに大事じゃないよ。ひまりが楽しめることのほうが大切なんだ」けれど、そのたびにひまりは不満そうに顔をしかめた。「ひまりは絶対一番になるの!悠真お兄ちゃんだっていつも一番を目指してるもん。だからパパはダメなんだよ。何にもできないから、マ
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第8章
ひまりは唇を噛みながら俺を見つめていた。その目には、なぜか少し傷ついたような色まで浮かんでいる。意味が分からなかった。人前で俺に構われるのを、あれほど嫌がっていたのはひまりのほうじゃないか。今さらそんな顔をして、誰に見せるつもりなんだ。それにもう、俺はあの母娘とは何の関係もない。だから俺は、二人のほうを見ようともしなかった。すると愛ちゃんがぱっと俺の前に立ち、両手を広げてかばってくれた。「航平お兄ちゃんをいじめないで!悪い人たち!」ひまりはまだ子どもだ。挑発されたと思った途端、感情を抑えられなくなった。愛ちゃんに向かって大声で叫ぶ。「その人は私のパパなの!愛ちゃんのじゃない!」ひまりが人前で俺を父親だと認めたのは、これが初めてだった。けれど、俺には分かっていた。ひまりは俺を大切に思っているわけじゃない。ただ、自分のものを他人に取られたくないだけだ。それは愛情なんかじゃない。ひまりがさらに愛ちゃんへ近づき、手を出そうとしたため、俺はすぐ間に入って止めた。その拍子に、ひまりは自分でバランスを崩して転んだ。俺は助け起こさなかった。見ることすらしなかった。先に人をいじめようとしたんだ。自業自得だ。「勘違いするな。俺たちはもう親子じゃない。俺はもうお前のパパじゃない」それだけ言うと、俺は愛ちゃんを連れてその場を離れた。それから一か月、俺は毎日のように研究室で実験に打ち込むか、自分の時間を大切にして過ごしていた。ところが美月だけは、相変わらずしつこかった。あの日のスポーツ大会のことで文句を言うため、とうとう研究室の前で俺を待ち伏せしていた。「航平、最近のあなた、本当にひどすぎるわよ!あの日だって、あんな大勢の前で他人の子をかばってひまりを突き飛ばしたうえに、あんな言い方までして!ひまりがどれだけ傷ついたか分かってるの?」俺は冷めた目を向け、淡々と答えた。「美月。昔は気づかなかったけど、お前って本当にしつこいな。何度言わせるんだ。俺たちはもう終わった。何の関係もない」美月は歯を食いしばったあと、怒りを通り越したように笑った。「航平、本気で私と離婚するつもりなの?本当に、ひまりに別の男をパパって呼ばせる気?」きっと今まで、俺が母娘を甘やかしすぎたのだろう。だから美月は今でも、俺が二人
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第9章
ひまりは今にも泣き出しそうな顔で俺を見上げ、か細い声で言った。「パパ……今日、一日何も食べてないの。お腹がすごく痛い」けれど俺は、その場に立ったまま何も答えなかった。「パパ、肉じゃがとスープ作ってくれない?」俺はひまりの横を通り過ぎ、鍵を取り出して玄関を開けた。「無理だ」あまりにもきっぱり断ったからか、ひまりは呆然とした。そこでようやく、俺が本気なのだと分かったらしい。「パパ、ひまりのこと一番大事にしてたでしょ?放っておくなんてしないよね」俺は思わず笑った。「俺がどうして、お前の面倒を見なきゃいけない?ひまり、俺はもうお前の父親じゃない。親権を持つのは美月だ。それに、お前自身がママと暮らすって言ったんだろ。俺には『この家から出ていけ』って言ったよな?」ひまりは途端に慌て始めた。立ち上がると、俺の腕をつかもうと手を伸ばしてくる。「でもパパ、ママと離婚しても、ひまりとパパは本当の親子だよ。同じ血が流れてるんだよ?」そうだ。実の娘だったからこそ、この十年間、俺はひまりを何よりも大切にしてきた。惜しみなく、すべての愛情を注いできた。でも、その愛情を注ぐだけの価値があったかと言われれば、もうそうは思えなかった。ひまりの視線が、俺のそばにいる愛ちゃんへ向いた。その顔に、さらに強い戸惑いと不満が浮かぶ。「じゃあ、愛ちゃんは?なんで愛ちゃんはここにいていいの?」俺は平然とその視線を受け止めた。そして一言ずつ、はっきりと言い聞かせる。「お前と愛ちゃんは違う。ひまり。これが最後だ。お前はもう俺の娘じゃない。これから先、俺たちはお互い何の関係もない。だから、もう俺の生活に入ってくるな」ひまりの目にみるみる涙が溜まっていった。信じられないという顔で俺を見つめ、ひどく傷ついた表情を浮かべている。その時、美月が姿を現した。すぐにひまりを抱き寄せると、俺に向かって呟いた。「航平……どうして私たちに、そこまで冷たくできるの?」あまりにも馬鹿げた言葉に、笑いそうになった。俺の愛情に甘えて、好き勝手に傷つけてきたのはそっちだろう。それなのに今さら、どうして冷たくするのかと聞いてくるなんて。俺は何も答えなかった。代わりに、勢いよく玄関のドアを閉めた。バタン、と大きな音が響く。それでも母娘は諦めず、
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第10章
しばらく仕事に打ち込んできた努力が実を結び、俺はほどなくして新たな研究成果を発表することができた。その日は恩師が祝賀会を開いてくれ、同僚たちまで横断幕を用意してくれていた。会場は大いに盛り上がっていた。俺は隼人と愛ちゃんから贈られた花束を抱え、心の底から笑った。こんなに幸せな気持ちになったのは、何年ぶりだろう。いや、もしかしたらこの十年で一番楽しい日だったかもしれない。祝賀会が終わり、仲間たちに囲まれながら店を出た。心も体も、驚くほど軽かった。ところが外へ出た瞬間、美月とひまりの姿が目に入った。二人とも、腕には花束を抱えている。俺を見つけるなり、美月は慌ててこちらへ歩み寄ってきた。どこか気まずそうな表情を浮かべている。「航平……おめでとう」驚いたことに、ひまりまで大人しく言った。「パパ、すごいね」あまりにも自然な口調だった。まるで今でも俺たちが家族であるかのように。これまでのことなど、何一つなかったかのように。二人はそうやって振る舞えていたが、俺には無理だった。美月が一歩近づく。俺の様子を窺うような目をしながら、珍しく柔らかな声で言った。「航平、今夜……久しぶりに家族三人でご飯を食べない?」ひまりも俯いたままスカートの裾をいじり、少し恥ずかしそうに口を開いた。「パパ……ひまり、本当にパパに会いたかった。一緒におうち帰ろう?」俺は思わず口元を歪めた。「どうしたら、もう二度と俺の前に現れないでくれるんだ?」あまりにもはっきり言ったせいか、二人の顔が固まった。そこでようやく、美月は今までのプライドを完全に捨てたらしい。初めて俺の前で弱気な姿を見せた。「航平……私とひまりが、あなたを傷つけたことは分かってる。今は私たちの顔なんて見たくないことも。でも、私たち十年も夫婦だったのよ。そんな簡単に全部捨てられるなんて、私には思えない。それに、ちゃんと説明しなきゃいけないこともあるの」もっと早く、ずっと前に、こんなふうに話してくれていたなら。もしかしたら、俺たちはここまで来なかったのかもしれない。でももう遅い。俺は半歩後ろへ下がり、軽く手を振った。「美月。俺はもうお前を愛してない。だから変な期待をするな。それに、俺たちの間に誤解なんてない。起きたことは全部、事実だ」美月は途端に焦
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