Mag-log in惠が真人と共に勉強をしたいと言った翌日、再び惠は書庫に入る事が叶った。「……ふふ」「どうした? 急に笑って」「いえ、その……どうやら私は、本を見る、読むことが好きなようでして」「ほう、そうだったのか」 だと言うのなら何か好みの本を探して贈るべきか。 等と考えている真人の隣で、惠は自然と浮かんでしまう笑みをそのままに書庫の雰囲気を五感で味わう。 日向と共にやって来た時と比べて、古書特有の匂いや埃っぽさと言ったものは薄れている。 自分で掃除したのだから当たり前ではあるのだが、それを残念にも思いつつ、わずかに残っていた雰囲気を惠は楽しんだ。「惠」「あ、はい。申し訳ありません、勉強をと自分で言い出したのに」「いや、そうじゃない。本が好きだと言ったな? どういった本が好みなのだ?」「へ? あ、そう……です、ね」 思っていた言葉じゃないことに若干狼狽えながらも惠は考える。 どういった本が好みか。 簡単な質問だが、惠にとっては返事が難しい質問だった。 と言うのも早瀬の家にいた頃は趣味として本を読むようなことがなかった、その時間が与えられなかったからだ。 自分の趣味嗜好ほど理解できないものは無い、少なくとも惠にとっては。 本を読むという機会はイコール教科書であり、義務教育の言葉通り惠にとっては義務だった。 最低限の一般的な教養こそ身につけられたが、感性を磨く機会を与えられなかった惠は返事に窮する。「本が好きだと言うのに、何も思い浮かばないのか?」「っ! も、申し訳ありません!」「い、いや。謝られることではないのだが……うぅむ」 今度は謝らせたかったわけじゃない真人が言葉に窮した。 その真人とて、感性を磨く機会に乏しかったという事実はある。 今の真人を形成しているのは神の一族としての義務、それに加えてある種の反面教師で磨かれた感性と言えるだろうか。 神の一族に在る人間、あるいはその関係者である大人たちの中には権力欲に酔っているものもいる。 巳神はやはりそう言った不穏分子に対して何かしらの処理をすることも仕事として含まれているのだ、当然汚い人間に触れる機会は多くあった。 そう言った人間を見るたびに真人は思った、こうはならない、と。「ふぅ。惠? すまない、俺はイスを持ってくるから、茶を用意しておいてくれないか?」「あっ! か
「書庫へ自由に入りたい?」「はい。改めてになりますが、私はまだまだ辰巳家、ひいては神様のことについて知らないことが多すぎると思いまして」 唐突にと言うわけではなく、真人の机仕事がひと段落ついたタイミングでの惠の声掛けだった。 積極的努力は何も水面下だけで行われるものではない。 物理的ではなく精神的に余裕が生まれた惠が思い立ったのはより深く神について知りたいと言うものだった。「ふむ……」 心情的に、今の惠になら許可を出してもいいと真人は思っている。 しかしながら現在辰巳家が置かれている状況は複雑だ。 パワーバランスという面ではなく、やはりタイミングがまさしく微妙と言える状態なのだ。 天宮家の調査勅命然り、工藤の跡取り息子が来訪してきたこと然り。 辰巳家を含めた神一族の機密に近い情報へ、意図せず触れて知ってしまう事が、彼女自身の身の危険を高めてしまうのではないかと真人は危惧もしている。「だめ、でしょうか?」「うぐ」 恐る恐ると言った様子で惠は真人へ伺う。 以前であれば微妙な反応を示されたのならすぐさま引いて頭を下げていたところだが、おっかなびっくりながらも引こうとはしていない。(……好ましい変化ではある、そう思う。だからこそどうにか要望を叶えてやりたいのだが) 辰巳家へ相応しい自分になりたい、辰巳家へ必要とされる自分になりたい。 そういった願望に近い物が芽生えたが故の変化ではあったが、加えて言うのならやはり惠はあの場が好きだった。 あの時は自覚できなかった知識欲と言うもの、自覚を言うのなら自分は本が好きだという面だけではあるが。 いずれにしても、好きなことをすることがひいては辰巳家のためになる事へ繋がると考えられたのなら、惠に控えると言う選択肢はなかった。「旦那様。私は、もっと辰巳のことが、神様の事が知りたいのです」「……それは、嬉しく思う」「あるいは、モノを知らなすぎる自分
さて、安定や平和という状態はその中に生きる存在の積極的努力によって維持されるものである。 現状の辰巳家は表面を見れば落ち着いたと言えるだろう、惠が穏やかに過ごせているように。「ん、で? 早瀬家の調査はちぃっときつそうっすかね?」「へい。大神サマも無茶なこと言うよと思わず愚痴っちまうくらいには」 だがその表面を剥がせばやはり維持のために努力している存在が露わになる。 落ち着いたと言うよりは落ち着き始めたと言えるタイミングだからこそその表面は実に脆い。「……具体的には?」「早瀬の息がかかっている有力者が多すぎますわ。政府高官、企業関係者……挙げればキリがねぇ」「挙句、潜り込んでる企業でも早瀬派なんつ―もんができてる、っすか。なんともまぁお手上げっすね」 日向は部下からの報告に肩を落としながら大きくため息をついた。 辰巳家の新しい生活の形、その地盤を固めたかったと言う部分もあるが。 何より一言、やはりタイミングが悪いと言えるだろう。 惠を受け入れる方針が固まったところで、大神――天宮家からの勅命だ。 勅命自体は構わないにしても相手が相手、嫁に迎え入れようと言うタイミングで嫁の実家を洗えとは何事かと。「よっぽど、早瀬家が真っ黒だと見做されてると」「そっすねぇ。惠さん関係なく警戒すべき一家だったってのもそうっすが、なんとも因果なもんすよ」 早瀬家の力は辰巳家と似通っている部分が多くある。 キーマンを抑えることで相手組織全体に影響を及ぼす手法など特にそうだろう。 それだけに、迂闊な動きをしてしまえば早瀬に気取られ足元を掬われかねない。「あーくそ。勅命賜った後に工藤のボンが来てたら助かってたっすのに」「ボンて」「あんなもんボンで十分っす! 辰巳にアポなしで来るとか喧嘩上等っすよ!? オヤジも惠さんの前じゃなかったらブチ切れてたっすよ絶対!」 日向の反応を部下は苦笑いしながらも頷き同意する。 事実、そ
――俺は、この家にいて欲しいと思っている。 その真人の言葉は惠にとって存在許可証が発行されたと同義だった。 発行理由にいまいちピンとこない惠ではあったが、喜びには変わりなく、ひいては誰かに必要とされる喜びと言うものを初めて味わえた。「旦那様、旦那様。お時間ですよ、起きてください」「む、ぅ……」 惠の手が優しく布団にくるまる真人の肩を揺らす。 一種における焦りと言うべきか、自分の立ち位置が不安定だったからこそ惠の中にあった物が存在許可証によって和らいだ。 和らいだ結果、完全に安心しているわけでもなく、未だ何かを成さなければと思ってはいるが、それでも惠は急がなくなり、所作に本来彼女が持っている柔らかさと言うものが現れた。「もう、旦那様? 本日は早いと仰ってましたよ?」「ぐ、ぬ……」 表情もそうだ。 何処となく仕方のない人だなぁと言った感情を顔ににじませ、それでも声色は柔らかいまま真人の起床に付き合っている。(……不味い、余計に布団から出られなくなったではないか) 例えるなら母に揺り起こされる子供の気持ちだろうか。 気恥ずかしさに似た感情が消えるまで、頭は覚醒していても布団から抜け出せない真人は寝ぼけているフリをしながら布団に立てこもる。 結局、惠が変わったという実感を得たのは本人以外ばかりだ。惠自身は無自覚の範疇である。 辰巳家に相応しい自分になりたい、真人の伴侶として認められる自分になりたいと言うものに加えて、必要とされたいという欲求が加わった部分を自覚してはいるものの、それが自分に対してどう影響しているかなど知る由はなかった。「もう……そうだ、旦那様? 今日は朝食にきんぴらごぼうを用意しようと思っているんです。少し時間がかかるものですし、もしここで旦那様が起きて頂けないのでしたら――」「わかった、起きる」「あら」 恥はかき捨てと言うだろう、朝の食卓からおかずが一品減るなどあってはならない、それが自分の決断力のなさからくるのならばなおさらだ。「おはようございます、旦那様」 むくりと起き上がった真人は、やはり気恥ずかしさが抜けきらないままで。「……おはよう、惠。そう言ったんだ、きんぴらごぼう、期待しているぞ」「はい。お任せください」 そっぽを向いて心の中で白旗を振りつつ、そう言うしかないのだった。 惠の環境において
多くの意味で高を括っていた。「くそっ!!」 腹立たしさをそのままに工藤が床へ投げつけたコップが割れた。 そうだ、高を括っていたのだ、辰巳家はまだしも義理の妹、すなわち惠程度なら簡単に操作できると。「人形、如きがっ……!」 何かが割れた音に気付き、工藤家の家人が慌てて部屋のドアを開け、工藤の表情を見てそっとその場を辞した。 今の彼に声をかけたのなら、あるいは割れ物を片付けようとでもしたのなら激しい折檻と言う名の何かが行われてしまうことをよく知っていたからだ。「この僕の顔を、よくも……!」 殴られたわけでもない、面目丸つぶれと言ったわけでもない。 それでも彼はただ、何かを傷つけられたと受け止めている。 高を括っていた自覚はあるのだ、あるだけに自業自得とも納得できるはずだが、惠が自分の立場を危ぶませている婚約者の妹であるという事実が邪魔をした。 すなわち。「早瀬家、めぇ……!」 早瀬に敗北した、泥をかけられたと感じている。 実際に真人だけが対処し追い払ったとは言えないだろう、惠が明確に拒否したという前提あってこその今だ。 何のためにリスクを承知で早瀬歩の婚約者に収まったと言うのか。 早瀬の名を逆に取り込み工藤の力を確たるものにするためだ、同時にあのいけ好かない顔と身体だけはいい歩を支配しその象徴とするためだ。「……ふ、ぅ。落ち着け、少なくとも決着がついたわけじゃあ、ない」 そうとも未だ道半ばには変わりないのだ。 早瀬歩の工作が行き渡るまでまだ余裕はある――それこそが不気味である一因ではあるが――焦る必要はない。「遺憾ながらも早瀬の浸食を抑えるに工藤だけでは力が足りないのは確かだ、どうしても協力者、同盟者がいる。早瀬景は、ある意味歩が言っていた通り家にだけ執着する女……手を出すに危いと思わせたのなら状況は改善できる」 現当主、早瀬景は実力者と言うよりは執着者だ。 歩はそれをつまらない女だと評してはいるが、工藤は家を守る事に執着する人間の怖さをよく知っている。 何せ自分がそうなのだ。 全て家のためにとまでは言わないが、工藤グループのためにとは思考の主軸の一つに変わりないが故に、早瀬景の気持ちは理解できる。「歩を超えて早瀬の家を脅かせるか否か、だな」 具体的な方法はまだ思いつかないも、思考すべき主眼はそこになるだろう。
真人とは対照的に、ぽかんと何処か現実感のないまま工藤の背を見送った惠だったが。「さて、惠」「っ!? は、はいっ! 申し訳ありませんっ!」「……? 何に対しての謝罪かわからんぞ」 惠の方へと向き直った真人によって現実へと引き戻された。 いや、引き戻らざるを得なかったと言うべきか。 惠にとって現状はミス、失態と捉えるべき状態だ。 家主の居ぬ間に義理の兄とはいえ真人にとって限りなく他人に近い者を家へと上げたこと。 話の内容の重要さははっきりと想像に及ばないも、一つの重大なターニングポイントを勝手に迎えてしまったこと。「本当に、申し訳ありません……!」「……」 ある意味初めてか、真人の言い分を耳にも頭にも入れず自分の考えのみで悪いことだと思ったが故に、深く惠は頭を下げた。 こうなってくると戸惑うのは真人の方だ。(いや、何故俺は今謝罪されているのだ? それはこちらの台詞と言うもので、むしろ感謝を伝えねばなるまいに……) 思考のすれ違いは未だ続いている。 根元の部分で責任と言うものを必要以上に重く捉えがちな性分は似通っているだろうに。 あるいは似ているからこそなのかもしれない。「重ねて言うが……何に対して謝罪されているのかわからない。つまり、頭を下げる必要がない。惠、頭を上げてくれ」「っ……は、はい」 果たして中々上げられない顔が緩やかに持ち上がった。 無自覚の下怯えという感情と共に過ごしたことはある。 だが恵はこの時初めて、怯えるという感情を自覚した。(……怖い。これで、余計なことをする女など要らないなんて言われたら、どうしよう) それこそ、工藤の誘いへと頷いておくべきだったのかも知れない。 そんな風に思いながらも、持ち上がりきっ







