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ガツン!
1番ホールのティーイングエリアに、鈍い音が響いた。ドライバーのヘッドがボールの上をかすめ、そのまま芝を深くえぐる。白いボールは情けなく転がり、わずか20メートル先のラフに力なく沈んだ。
「ぷっ……!」
後ろのカートのそばで、桐谷莉香(きりたに りか)が大げさに吹き出した。体の線があらわになる蛍光ピンクの高級ゴルフウェアを着た彼女は、久我雅臣(くが まさおみ)の腕に甘えるように絡みつく。
「雅臣さん、だから言ったじゃない。奥様にはクラブハウスでコーヒーでも飲んでてもらおうって」
「莉香、やめておけ」
たしなめる口ぶりとは裏腹に、雅臣の口元には露骨な侮蔑が浮かんでいた。その冷たい視線が、白石紗良(しらいし さら)の背中を突き刺す。
「紗良。わざわざついてきて、これを見せたかったのか?」
雅臣は大股で近づくと、紗良の手首を乱暴につかんだ。革のグローブ越しに、骨が砕けそうな力が加わる。
「あっ……!」
「痛いか? 1,000万円単位の金を動かす投資家が勢揃いしてるラウンドで赤っ恥をかかされた俺のほうが、よっぽど痛い思いをしてるんだがな」
ほかの者には聞こえないよう、雅臣が耳元へ口を寄せた。
「お前に何ができるんだ? 腹の子1人も守れず流産して、今度は自分の体すらまともに動かせないのか」
子どもの話が出た途端、手首を振りほどこうとしていた紗良の動きが止まった。この場所で、あのことまで持ち出されるとは思わなかった。
(子ども1人も守れなかった、ですって?)
5年前、雅臣が設立した久我ホールディングス。その礎となった不動産プラットフォームの初期モデルも中核特許も、企画し、身を削ってコードを書いたのは紗良だった。創業資金の2億円も、母方の実家から相続した、彼女の大切な財産だ。
過労の末にお腹の子を失ったとき、雅臣は病床の紗良から実印を盗み出し、持ち株をすべて奪った。その後は少しずつ経営から締め出し、うつ病患者のように扱って家に閉じ込めた。
「手を離して」
紗良は歯を食いしばり、夫をにらみ据えた。
「何だと?」
「離しなさいって言ってるのよ、雅臣」
雅臣は鼻で笑い、つかんでいた手首を乱暴に放り出した。
「身の程をわきまえろ。俺の支えがなければ、食事代すら自分で払えない寄生虫のくせに」
「あら、奥様ったら。怖い目」
莉香が尖ったネイルを顎に添え、あざけるように笑う。
「奥様、ゴルフは頭じゃなくて体を使うんですよ。そんなにガチガチで、何を打つつもりでここまでいらしたのかしら?」
「莉香、黙って」
紗良に遮られると、莉香は唇を尖らせた。
「やだ、怖い。雅臣さん、奥様が私をにらむの」
VIPラウンドに同行していた私募ファンドの代表たちのささやきが、紗良の耳に入り込んできた。
『あれが久我社長の本妻だろう?』
『ひどい運動音痴だな。そりゃ、旦那も若い女によそ見するさ』
『久我社長も、よく面倒を見てやってるよ』
雅臣がキャディに合図した。
「莉香、行くぞ。次のホールの準備だ」
彼は振り返りもせず、莉香の腰を抱いて次のホールへ向かった。
ティーイングエリアに、1人だけ取り残された。
紗良は、足元に転がるドライバーを見下ろした。腫れた手首では、今すぐ握り直すことさえ難しい。それでも、次のホールへ来いという言葉は最後までなかった。雅臣にとっては、妻をここに置き去りにすることすら大した問題ではないのだろう。
(私が寄生虫?)
(あなたの持っているもの、その帝国の土台には、私の血と涙が染み込んでいるのに)
グローブを外すと、締めつけられた痕があらわになった。手首を隠しかけて、紗良はやめた。ゴルフをうまく打てなかったのは自分だ。
だからといって、子どもを失ったことまで持ち出され、侮辱される筋合いはない。今日のことまで、また自分のせいにして片づけるつもりはなかった。
(あの人たちのいる社交界へ。私が、自分の足で乗り込んでやる)
紗良はゴルフバッグからスマートフォンを取り出した。夫に車を寄越してくれと言うこともできた。だが、探したのは南青山にあるプライベートゴルフスクールの電話番号だった。1人で練習できるVIPルームがあるという。
政財界の大物や芸能人がお忍びで通う、最高級のスクールだ。呼び出し音が2度鳴り、丁寧な声が応じた。
「お電話ありがとうございます。南青山エイペックス・ゴルフクラブでございます」
「今夜9時、1名用のVIPルームを予約したいのですが」
昼間、誰と来たのか。なぜ1人残されたのか。そんな話はしなかった。予約に必要なのは、自分の名前と練習する時間だけだった。
「かしこまりました。担当のレッスンプロにご希望はございますか?」
紗良はティーイングエリアの向こうへ遠ざかっていく、雅臣と莉香の背中をにらんだ。
「いちばん厳しくて、いちばん容赦のない人をお願いします」
「あ……でしたら、最近こちらに来た黒瀬隼人(くろせ はやと)プロがおりますが。レッスンがかなり厳しいので、奥様方にはあまりお勧めしておりませんで……」
「その人で」
紗良はためらわずに遮った。
「どれだけ厳しくても構いません。必ず、その人をつけてください」
午後11時、南青山の静かなマンション。柔らかな照明がともるリビングの床には、緑色の人工芝のパッティングマットが長く敷かれていた。カチャ。紗良が電子錠を開けて入ると、シャワーを終えて黒いガウンだけをまとった隼人が、濡れた髪をかき上げながら迎えた。たくましい胸と鎖骨から、ほのかなシダーウッドの香りが漂う。「久我雅臣はどうでしたか?」隼人はワイングラスを渡しながら低く尋ねた。紗良は受け取って一口飲み、微笑んだ。「会社からの電話のおかげで、ひとまず出ていったわ。写真への疑いが晴れたわけじゃないけど。帳簿が渡ったと知ったから、まず莉香を捜しに行くでしょうね」紗良は言葉を止め、グラスを置いた。「もし写真に顔がはっきり写っていたら、どうなっていたかしら」来る途中では会社の状況から説明するつもりだった。けれど隼人に会った途端、自分の顔がはっきり撮られていた場合のことが先に浮かんだ。隼人は写真がぼけていてよかったという一言で話を終わらせず、続きを待った。「今日は切り抜けられました。でも撮られたという事実は残ります」隼人は紗良が置いたグラスをマットから離れた場所へ移した。差し出された手を紗良が握り、二人でリビングのパッティングマットの前へ進んだ。「ひと息つきましょう。さっき言われたことと、今ここにいることを、少し切り離してみてください」隼人は紗良の手に重みのあるパターを握らせた。そして自然に、その背後へぴったりと寄り添った。後ろから抱きしめる形の完璧なアドレス。たくましい下半身が紗良の臀部をしっかり支え、体温が伝わった。紗良の息が一瞬乱れた。「はぁ……隼人、ここでパッティングのレッスンをするつもり?」
「お前……どうして手形の満期を知っているんだ!?」雅臣は閉まった寝室の扉に向かって叫んだ。投資審査に提出した満期一覧だった。紗良には会社の仕事などわからないと言って、見せたことさえなかった数字だ。自分の知らないところで誰かが資料を読んでいる。そう思うと、再びドアノブをつかんだ。寝室の扉がまた開いた。隙間から現れた紗良の唇に、残酷な冷笑が浮かんでいた。「あなたが投資を受けようとして提出した資料に書いてあったじゃない。私には会社のことがわからないと言っても、その数字まで消したわけじゃないのね」紗良は腕を組み、雅臣を冷たく見下ろした。「銀行も他人名義の取引と契約違反を調べたわ。投資が一件取り消された程度の問題じゃない。期限の利益喪失、EOD通知が明日の午前9時に予定されているから、財務部に聞いてみなさい」「あり得ない……! なぜ石原社長が投資を取り消す!? チャリティー大会で契約書に判を押すはずだったんだぞ!」雅臣は頭をかきむしり、絶叫した。「久我雅臣。ペーパーカンパニーを3社も作って粉飾決算をしていた、あの腐った帳簿。石原社長はもう全部確認したわ」雅臣は莉香の名前ではなく、先に石原誠司への罵倒を吐いた。紗良は彼が帳簿そのものを否定するか聞いていた。取引がなかったとは言わない。問題にしているのは、誰が帳簿を見たかだけだった。「誰が……誰がその帳簿を石原社長に渡したんだ!? どこの野郎だ!」紗良は送金の日付を一つ口にした。雅臣は黙り込んだ。誰から受け取ったのか答えるつもりはない。まだ録音を回収しなければならない莉香へ、彼の疑いをわざわざ向ける理由もなかった。その瞬間、
ドンッ――!元麻布のペントハウスの重厚な玄関扉が、壊れんばかりの勢いで開いた。目を真っ赤に血走らせた久我雅臣がリビングへ踏み込んできた。その手には私立探偵から送られた写真を印刷したA4用紙の束が握られていた。紗良はシルクのガウンをまとい、ソファで優雅に温かい紅茶を飲んでいた。「白石紗良、この汚らわしい女が!」雅臣が怒鳴り、写真の束を紗良の顔めがけて投げつけた。バサバサッ――!隼人とテラスで口づけを交わすぼやけたシルエット写真が、紗良の足元に散らばった。「これは何だ! 俺の金で食っているくせに、若いプロの男と遊び歩いていやがるのか!」雅臣は紗良の胸ぐらをつかもうと手を伸ばした。パシッ!紗良はティーカップを置き、その手首を払いのけた。落ちた写真には確かに自分がいたテラスが写っていた。彼女は一枚拾い、顔の写った部分を確かめた。「騒がないで、久我雅臣。その汚い手をどけなさい」「何? 汚い手だと? この写真を見てもそんな口が利けるのか!」紗良はふっと乾いた笑いを漏らした。床の写真を一枚、尖った靴先で軽く踏みつける。「暗がりで望遠レンズを使って人影を撮っただけで、私に罪を着せる気? これが私だという証拠はどこにあるの?」「何だと!?」「昨日の未明、私はアルファインベストの石原誠司社長と顧問弁護士団と一緒に南青山のクラブで新規ファンドの打ち合わせをしていたの。望むなら、石原社長と大手法律事務所のパートナー弁護士たちとの会議の録音を今すぐ再生してあげましょうか?」&nb
午前2時30分。南青山のオフィステル、その屋上テラス。都会のネオンサインが遠く眼下で宝石のようにきらめいていた。秋の夜の冷たい風が吹いていたが、紗良の頬は赤く火照っていた。ポンッ。隼人がドン・ペリニヨンのシャンパンを開けると、爽やかな泡とともに芳醇な葡萄の香りが空気に広がった。「おめでとうございます、奥様。いえ、白石紗良社長」隼人はグラスを渡しながら低く囁いた。紗良は受け取ったグラスを、彼のグラスに軽く触れさせた。チン――!紗良はグラスを持ち上げて、また下ろした。さっきまでは数字を言い間違えまいと必死だったのに、今はまともな文章が出てこない。バッグから覗く契約書の角を見て、ようやく短い言葉がこぼれた。「私、やったわよね?」隼人の答えを待ちながら、彼女はもう一度グラスを持ち上げた。「あなたのおかげよ、隼人。あなたがいなかったら、私は今でもあの男の下で空振りして、泣いていたと思う」「ボールを打ったのも、契約書に署名をいただいたのも奥様です。感謝のお言葉はいただきますが、すべて俺のおかげではありません」隼人は紗良のグラスを取り上げ、テーブルに置いた。そして大きな手で紗良の腰をしっかり抱き、自分の胸元へ引き寄せた。トン。隼人の胸に寄りかかった紗良は、窓の向こうの夜景をしばらく無言で眺めた。帳簿に記された口座番号や建物の名前ではなく、本当に明かりが灯っている部屋が眼下に見えた。契約を結んだあとも、こんな時間を持ちたいと思った。「今日は約束の投資を取りつけられました。残りの仕事まで今夜片づけようとなさらないでください」隼人の熱い唇が紗良の耳元に触れ、そのままうなじへ下りていった。「今夜は……復讐のことを忘れて、俺のことだけ考えてください」紗良は男の濡れた黒髪を指に絡め、唇を重ねることを許した。街の夜景を背に、二人の激しくも甘い口づけが深まっていった。***同じ頃、元麻布のペントハウスの書斎。久我雅臣は震える手で受話器を握りしめていた。『久我社長、申し訳ありません。アルファインベストからPF融資50億円の実行を全面保留するとの連絡がありました。メインバンクも、明日満期となる30億円の手形の期日延長を拒否しています!』「な……何だと!? 石原社長がなぜ急に投資を保留するんだ!?」雅臣は書類を投げつけ、金切り声を上げた。怒りに血走った雅
午前1時、南青山の最高級プライベートビジネスクラブ『ザ・ペント』。プライベートエクイティファンド、アルファインベストの石原誠司社長が、ワイングラスを揺らしながら紗良と向かい合っていた。紗良はタブレット端末をテーブルの上で滑らせた。画面には莉香から受け取った裏金の帳簿と、5年前に紗良名義で出願された基本特許が並んで開かれていた。石原社長は帳簿を手早くめくったが、特許の出願人が記されたページで手を止めた。「これは……久我ホールディングスの中核技術の原本だとおっしゃるんですか?」「はい。久我雅臣社長には技術的な理解がまったくありません。彼が自慢しているビジネスモデルはすべて、私が作成したものの外側をなぞったにすぎません」紗良の明瞭で冷たい声がプライベートルームに響いた。「しかも久我ホールディングスは現在、3社のペーパーカンパニーを通して不良不動産PF融資を自転車操業で回しています。アルファインベストの50億円が入った瞬間、その金は架空債権の穴埋めに消えてしまうでしょう」石原社長は50億円の入金予定口座と帳簿の社名を照合した。紗良が渡さなければ検討できなかった資料だ。彼は契約書に目を向ける前に、追加出資の説明資料を閉じた。「久我雅臣……あの恥知らずの詐欺師め、私まで騙そうとしていたのか!?」石原社長がテーブルを叩いて怒りを爆発させた。紗良は落ち着いてワインを一口飲み、微笑んだ。「私がお持ちした話は、この帳簿だけではありません。新法人『エイペックス・パートナーズ』の事業計画をご覧ください」「エイペックス・パートナーズ……?」「基本特許の権利は私にあります。ファンドにはエイペックスへ投資していただき、私はその会社の事業に責任を持ちます。久我ホールディングスの資産は外部評価を経て、必要なものだけ取得する予定です。不当に安く譲り受けたという争いに新会社まで巻き込まれるわけにはいきませんから」紗良は準備していた50億円の投資確約書を石原社長の前に差し出した。石原社長はすぐには確約書に触れなかった。「久我社長の会社が不良債権を抱えていることはわかりました。しかし、それと白石社長の会社が利益を上げられるかは別の話ではありませんか?」紗良は事業計画書を開いた。既存の基本技術と、この1週間で改良したマッチング画面を順に見せた。「まず同じ物件が重複して登録され
真夜中が近づいた頃、南青山のとあるプライベート地下駐車場。濃いスモークガラスの黒いレンジローバー、その後部座席のドアがそっと開いた。マスクと帽子で顔を隠した桐谷莉香が辺りを見回しながら車内へ滑り込んだ。「持ってきました……」莉香は震える手でハンドバッグから黒い暗号化USBメモリーとワンタイムパスワードカードを取り出した。紗良は冷ややかな目でUSBをつかみ、ノートパソコンに差し込んだ。認識音とともに画面いっぱいに表示されたのは、数十億円規模の裏金の明細と借名口座の一覧だった。久我雅臣が会社の金を横領し、香港や租税回避地へ移したことを示す明白な犯罪の証拠だった。「雅臣さんの書斎の金庫から持ってきました。怪しまれないよう元のファイルはそのままにして、コピーだけ取ったんです」莉香は唾を飲み込み、紗良の顔色をうかがった。「あの……約束は守ってくださるんですよね? 雅臣さんが破滅しても、私まで巻き込まれることはないですよね?」紗良はUSBのフォルダーを開き、一覧を読んだ。カードも別の封筒に入れた。「録音データは?」「金庫にはありませんでした。あったファイルだけコピーしました」紗良は一覧の横に「未入手」と書いた。莉香はその印を見つめ、いつ頃なら改めて探せそうか説明した。「あなたが渡した資料と時刻から記録しておく。あなた名義の取引を誰が指示したか明らかにするためよ。私が約束したのは、あなたのしていないことまで背負わせないということ」紗良はハンドバッグから1000万円分の無記名譲渡性預金証書(CD)を1枚取り出し、莉香の膝に投げて渡した。「約束の前金よ。現金化に必要な手続きも案内する。久我雅臣に怪しまれないよう普段通り振る舞って、あの人の動きを教えて」莉香は預金証書より、パソコンのファイル一覧を長く見ていた。自分名義の取引を一つ指さし、その日に雅臣からどの書類へ署名するよう言われたか補足した。紗良は帳簿の数字の横へ莉香の説明を別に記した。供述と取引記録が食い違うところから調べなければならない。「渡したファイルの一覧を、私にも送ってください。あとで別のファイルまで私が渡したことにしないでくださいね」莉香は預金証書をバッグにしまっても、ドアを開けられなかった。「あの人にコピーを取ったと気づかれたら?」「気づかれそうなら確認のために金庫を開け直さないで