LOGIN彼は激しく泣き崩れた。私は振り返ることなく、まっすぐ搭乗口へと歩き出す。飛行機が離陸する直前、靖也からのラインが届いた。【本当にごめん。愛してる】私はその文字を見つめ、わざと私を遠ざけた、と平然と言い放った彼の冷たい顔を思い出した。そして、迷わずに連絡先をブロックした。愛?彼にそんな言葉を口にする資格なんてあるのだろうか。……雲嶺市に戻ってから、私はひたすら仕事に没頭した。新しいプロジェクトは順調に進み、私の率いるチームは国際的な賞を獲得することができた。華やかな表彰式で、司会者は私をこのように紹介した。「この若き科学者は、過酷な環境に5年間耐え抜き、我が国の技術の空白を埋める大きな成果を残しました」会場は、盛大な拍手に包まれた。自分が生きている意味は、まさにここにある。そう心から確信できた。やがて、靖也の会社は破産した。倒れた彼の父は、二度と意識が戻らないまま亡くなった。亡くなる直前まで、不甲斐ない息子をずっと罵っていたそうだ。そのニュースを聞いたとき、私はちょうど研究室で分析作業の最中だった。同僚から、どう思ったかと尋ねられた。私はただ、何の感情も湧かないと答えた。因果応報、ただそれだけのことだった。美穂の末路は、さらに悲惨なものだった。彼女は達也からあっさりと捨てられ、もう利用価値はないと吐き捨てられたそうだ。彼女は二人の子供を連れて行くあてもなく彷徨い、かつての華やかな生活は跡形もなく消えた。生活に追われる彼女の姿がネットに出回り、やつれた顔には、これまでの苦労がにじんでいた。ネット上では、当然の報いだという声ばかりだった。私はただ、ただ虚しさを覚えるだけだった。私の母が、ようやく連絡をくれた。ニュースを見て、私がはめられていたことに気づいたらしい。母は電話で、声を震わせながら泣いて謝った。「悪かったわ。あなたを信じてあげられなくて、本当にごめんなさい」私は、もう気にしていないと答えた。けれど、失われた時間が戻らないことを、お互いに重々理解していた。亡くなったお父さんは帰ってこない。もう元通りにはなれないのだ。そんなとき、雲嶺市で同じ目標を追いかけられる仲間ができた。彼の名は岡崎景介(おかざき けいすけ)。私と同じように仕事
恵は電話でこう言った。「今、社内は持ちきりよ。あなたこそが本物の凄腕技術者で、美穂はただのペテン師だったってね」私は何も答えなかった。美穂は完全に精神的に崩壊した。彼女は家の中で物を投げ散らかし、靖也に向かって叫んだ。「全部あなたのせいよ!あなたが私をめちゃくちゃにしたの!なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの!」靖也はそこで初めて、自分も美穂の道具にすぎなかったと知った。彼女は最初から彼を利用してのし上がるつもりだった。子供は達也との子であり、彼女に必要だったのは、責任を負ってくれる相手だけだったのだ。靖也の母が私の家を突き止めてやってきた。ドア越しに、彼女が泣いている声が聞こえる。「光希さん、本当に申し訳ないことをしたと思っているわ。でも靖也も騙されていたの。あの子もこの5年間、ずっと苦しんでいたのよ」彼女はドアの外で跪いていた。「お願いだから、私たちを許してちょうだい。夫も怒りのあまり倒れて、今も病院で寝たきりなの……」私は、亡くなる直前の父の姿を思い出した。言葉を返す気にもならず、ドアを開けなかった。メディアはこの騒動を面白おかしく掘り下げ始めた。ある記者が、私が雲嶺市で成し遂げた実績を見つけ出した。この5年間、私はチームを率いて国家的な技術課題を3つもクリアし、国際特許を2つも取得した。しかし、それらの成果はすべて美穂に盗まれていたのだ。記事が世に出ると、世論は一気に私の味方へと傾いた。ネットの人々は、美穂と靖也を特定し始め、住所や電話番号をことごとくネット上に晒しあげた。【クズ男と悪女はお似合いだから、一生離れないでね!】【光希さん、本当に格好いい。権利を取り戻すのを応援します!】【御堂グループは一刻も早く潰れろ!】私はコメントを見つめながら、ただ騒がしいと感じるだけだった。その日の午後、私の元に一通のメールが届いた。送信元は、雲嶺市国家重点プロジェクトチームだった。そこには、新しい国のエネルギープロジェクトが動き出しており、高い技術が求められるため、ぜひ指揮を執りに戻ってほしいと書かれていた。【千葉さん、私たちはあなたを必要としています】メールの最後には、そう書いてあった。その文字を見つめながら、私は久しぶりに笑った。……私が雲
やり取りされたメールの中には、靖也本人が返信したものがはっきりと残っていた。【美穂の意見通りに修正しろ。成果は共同のものとする】「共同?」私は鼻で笑った。「光希さん、俺たちみんな悔しくてたまりませんよ」彰はそう言った。「あなたが必死に積み上げた成果が、全部あの女に横取りされるなんて」私がすべてのメールをコピーして部屋を出ようとすると、彰が追いかけてきた。「光希さん、気をつけてください。御堂家はこの街で大きな影響力を持っています」私はうなずいた。一番皮肉だったのは、美穂の二人目の子供も、靖也の子ではなかったことだ。病院の看護師は、私が雲嶺市にいた頃の同僚の奥さんで、私にこっそり教えてくれた。「森下さんの妊娠中、よく男の人がお見舞いに来ていました。メガネをかけていて優しそうな人でしたが、御堂家からお金をもぎ取ったら、二人でどこかへ逃げようって話しているのを聞きました」彼女は少しぼやけた写真を見せてくれた。それは駐車場の防犯カメラの映像を切り取ったもので、その男の横顔の輪郭がはっきりと映っていた。私はすぐに分かった。靖也の会社の最大のライバルである、コーエングループの営業部長、遠藤達也(えんどう たつや)だった。私はアパートで、証拠を1つずつ並べてみた。学歴の詐称、プロジェクトの横取り、偽のDNA鑑定、不当な異動命令、さらには不倫。並べられた書類の1枚1枚に、私の血と涙がにじんでいた。私はすべての証拠をまとめて整理し、3部コピーを取った。1部は匿名で御堂グループの取締役会へ。1部は関係監督機関へ。そしてもう1部は、この街で最も影響力のある報道機関へ送った。投函を終えた私は、郵便局の前でしばらく立ち尽くしていた。すべてをやり終えても、何の感情も湧いてこなかった。胸がすくわけでもなく、救われた気持ちにもならない。ただ、計り知れない疲労感だけが残った。一週間後、世間を揺るがす大ニュースがトップを飾った。【大手企業幹部に学歴詐称疑惑、技術成果の不正取得も】【御堂グループに激震、社長夫人の不倫疑惑が浮上】【5年前の人事異動に不正か、元技術者の告発で再調査へ】美穂は会社を解雇された。彼女の噂がネット上でまたたく間に広がり、かつて私を叩いていた人たちが当時の真相を
そこには、差出人の情報は書かれていなかった。開けると、中から1枚のDNA鑑定報告書が出てきた。鑑定をしたのは県立総合病院で、日付は5年前だった。鑑定対象は、父とみられる御堂氏と、その子供である森下氏の息子。鑑定結果には両者の間に生物学的親子関係は認められないと書いてあった。私は息を呑んだ。5年前、靖也に決断を迫ったあの子供は、彼の実子ではなかったのだ。震える手で最後のページを開くと、鑑定人のサインがあった。そこには高橋健一郎(たかはし けんいちろう)と記されていた。私はこの名前に心当たりがあった。県立総合病院の遺伝子診断科の部長だ。私は当時のつながりをたどって、彼の住所を突き止めた。呼び鈴を押して用件を伝えると、彼はきまずそうに私から視線をそらした。「千葉さん、私は何のお力にもなれません」彼はドアを閉めようとした。私は咄嗟に足をドアの隙間に差し入れた。「高橋先生、私はただ本当のことが知りたいだけなんです」彼は小さくため息をつき、私を部屋へと招き入れてくれた。私がソファに腰をかけると、彼はお茶を持ってきてくれた。コップを持つ手は、細かく震えている。「高橋先生、だれかに頼まれて、DNA鑑定報告書を偽造しましたね?」彼はお茶を手にしたまま、私を見ようとはしなかった。「その通りです」「今、私の手元にあるものが、正しい報告書ですね?」彼は静かに口を閉ざした。私はコップを置いて言った。「5年前、偽造の報告書に公印を押してほしいと頼まれたはずです。あなたはその代わりに大金を受け取った、違いますか?」彼はゆっくりと目を閉じ、そしてうなずいた。「その人は誰ですか?」「森下さんのお母さんです」彼は小さく呟いた。「娘が騙されていると言っていました。子供は御堂家の血を引いていない。でも中絶を迫られているから子供を守るために、他に方法がなかったと」「だから協力したのですか?」「私は……」彼は顔を手で覆った。「家内が重病で、どうしてもお金が必要だったのです」私はスマホを取り出して、ボイスレコーダーを起動した。「高橋先生、今の言葉をもう一度話してください」彼は顔を上げて私を見つめた、その目はうっすらと赤くなっていた。「千葉さん、本当に申し訳ありません」
上原結衣(うえはら ゆい)は車椅子に腰掛け、膝にはブランケットを掛け、うつむいて本を読んでいた。痩せた横顔だったが、その目元はどこか穏やかだった。私が通りかかると、彼女はふと顔を上げた。「あなたも診察?」声をかけられ、私は足を止めた。「ええ」彼女は小さく笑った。「私、ここに半年くらい入院してるの。あなたは初めて見る顔ね」彼女は本を閉じた。表紙には「活きる」と書かれている。「私、結衣っていうの」彼女はそう言った。「前は、ピアノの先生をしていたのよ」彼女の右足のズボンの裾が力なく垂れ下がっているのを見て、私はそれ以上聞かなかった。でも、彼女は気にする様子もなく続けた。「2年前の事故で足を失ってね。夫は浮気して、仕事も失ったわ」まるで他人事のように、淡々と話した。「一番辛かったときは、死ぬことばかり考えていたわ」彼女は手元の本を指差した。「でもね、この本を読んで、主人公は家族をみんな失っても生き続けようとした。それを見て、私も頑張ろうと思えたの」彼女は車椅子を少し脇へ寄せた。「少し、お話ししない?」私は彼女の隣に腰掛けた。窓から差し込む柔らかな光が、彼女の膝のブランケットを照らしている。「あなたは?」彼女が尋ねる。「何があったの?」私はしばらく黙り込んでしまった。答えてくれないと思うほどに、長い沈黙だった。「私、5年間も騙されていたの」私はようやく口を開いた。「仕事も、恋人も、家族も、全部なくなった。父も、私のせいで……」彼女は静かに私の言葉を聞いてくれた。「それなのに、私を裏切ったあの人たちは結婚して、幸せそうに暮らしてるの」私は力なく笑った。「私には、帰る家もないのに」結衣は深くうなずいた。「それは、本当に辛かったわね」彼女は安易に「頑張って」とか「大丈夫だよ」なんて言わなかった。ただ、こう問いかけた。「それで、あなたはどうしたいの?」「分からない」私は俯いた。「どこかへ行って、そのまま消えてしまいたい」「消えるなんて簡単よ」彼女は窓の外に目を向けた。「でも、そんなの悔しくない?」私はきょとんとした。「もし本当に諦めているなら、今こうして生きてないわ」彼女は微笑んだ。「大家さんが
3ヶ月後には、私はすっかり痩せ細っていた。南部の小さな街のじめじめした空気が、肌にまとわりつく。私が借りた部屋は、エレベーターのないアパートの6階にあった。毎日階段を上るたび、壁に手をついて息を整えなければならなかった。玄関の裏に掛けられた鏡を覗くと、そこには、ボサボサの短い髪に、こけた頬。目の下には濃い隈ができていた。もう自分でも、別人のように思えた。そこの大家は親切な人だった。私が毎日翻訳の仕事を抱えているのを見るたび、よく差し入れを持ってきてくれた。「あんまり無理しちゃだめよ」彼女はそう言ってくれた。私はお礼を言って、またパソコンに向かってキーボードを叩き続ける。睡眠薬の量は益々増え、やがて3錠飲まないとあまり眠れなくなった。夢の中では、いつも雲嶺市の荒野を吹き荒れる風が頬を刺すような感触だけがいつも残っている。目を覚ます頃には、枕はいつも涙で濡れていた。あの日の午後、契約書の翻訳を終えた私は、疲れ切ってデスクに突っ伏した。その時、スマホが震えた。元同僚のSNSだった。靖也と美穂が改めて式を挙げたらしい。投稿を開くと、何枚もの写真が並んでいた。黒いスーツ姿の靖也と、純白のウェディングドレスを纏った美穂が、教会の前で口づけを交わしている写真もあった。そして、【おめでとうございます!本当にお似合いのお二人ですね!】と添えられていた。コメント欄は祝福の言葉で埋め尽くされていた。【ずっとこの日を待ってました!本当におめでとうございます!】【美穂さんきれい!社長も素敵!】【本当にロマンチックな式だな。羨ましい!】私はそのまま下にスクロールした。すると、あるコメントが目に留まる。【あの疫病神の光希がいなくなって本当に良かった。あんな女がいたら台無しだもんね】私はスマホの画面を閉じた。引き出しを開けると、白い薬の瓶が転がっている。私は、10錠ほど出し、水で一気に喉に流し込んだ。今度こそ、少し長く眠りたかった。このまま目が覚めなくてもよかった。再び目を覚ました時、視界に入ってきたのは白い天井だった。消毒液の匂いが、鼻をつく。手を動かそうとすると、点滴の針が刺さっていた。「気がつきました?」看護師が近寄ってきた。「どうして一度にあんな量の睡