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第6話

作者: 霜降
その日の帰宅後、紗江のもとには多くのメッセージや電話が届いていた。

その大半は、彩葉のSNS投稿のスクリーンショットで、中でひときわ目立っていたのは、彼女が載せた婚約指輪の写真だった。

紗江は無言のままアプリを閉じ、誰にも返信しなかった。

電話も一切取らなかった。

顔はまだ腫れていたため、氷で冷やすことにした。

そして戻ってくると、スマホの画面には、新たな入金通知が表示されていた。

何気なく開いてみると、その桁数の多さに思わず目を見開いた。

数えきる前に、着信音が鳴り響いた。

ディスプレイに浮かんだ「財前深志」という文字だった。それは彼女自分で登録した名前だった。

婚約が決まって以来、深志からの初めての電話だった。

心臓の鼓動が速くなるのを感じ、深呼吸を数回してから、通話ボタンを押した。

「元松さん、お金は受け取ったか?」

「はい、受け取りました......

でも財前さん、結納金はすでにお支払いいただいたはずでは......」

紗江は控えめにそう伝えながら、誰かが間違えて送金したのではないかと考えた。

「結納金は元松家に送ったものだ。今回の金は、君個人に贈ったものだ」

その言葉に、紗江はスマホを握りしめたまま、しばらく黙り込んだ。

やがて低く、かすれた声で答えた。

「財前さん、そんなことをしていただかなくても大丈夫です。私......以前に婚約していたこともありますし、評判も......」

「構わない」

深志の声は、静かでありながら、どこか人の心を落ち着かせる響きを持っていた。

噂で語られる彼は、冷酷で容赦なく、気まぐれで暴力的とまで言われる男だった。

だが今、受話口から聞こえてくる声には、そんな人物像は微塵も感じられなかった。

「君も言っただろう、『以前』の話だ。過去は過去、今はもう別の話だ。気にするな。

もうすぐ遠く港市に嫁ぐことになるから、欲しいものがあれば、持っていくといい」

紗江は、思わず目に涙をためながらも、微笑んで感謝の言葉を口にした。

「ありがとうございます、財前さん」

港市への嫁入りの話は、一切外部に漏れていなかった。

それは、深志の意向だった。

財前家からの迎えの者たちは、すでに東都市に到着していた。

彼らの存在ゆえに、元松家の人間は静かに従っていた。

そのため、紗江が遠く港市へと嫁ぐことを知る者は、東都市には一人もいなかった。

出発の三日前。

荷物の整理はすべて終わっていた。

ドレッサーには、精巧な細工が施された宝石箱と、黄ばんだ願い事カードが置かれていた。

宝石箱は、かつて光陽が追いかけてきた時に贈られたものだ。

九つの層があり、それぞれにジュエリーやアクセサリーがびっしりと詰まっている。

そして空白の心願カードは、光陽が十二歳の頃、彼女に贈ったプレゼントだった。

もちろん、彼はもうすっかり忘れているだろう。

紗江は、かつてこのカードを使って、彼に結婚を願おうと思ったことがあった。

だが結局、そんな男に人生を費やすのは、あまりにも愚かしいと思い直した。

高価すぎる宝石は、返却すべきだった。

光陽の捺印が押されたカードも、他人の手に渡るべきではない。

彼女は二つのものを丁寧に梱包し、光陽の側近・杉本彰(すぎもと あきら)に連絡を入れた。

「大切なものですから、必ず彼に直接渡してください」

何度もそう念を押す紗江に対し、彰は形式的に丁寧ではあったが、その口調には明らかな苛立ちがにじんでいた。

「元松さん、忠告しますけど、もう無駄なことはやめたほうがいいですよ。

周藤さんはもうすぐ婚約されます。お互い、穏やかに暮らしましょう」

彼は、紗江が未練を断ち切れずに復縁を狙っていると勘違いしていた。

彼女は何か言い返したかったが、相手はすでに関心を失っていた。

荷物の箱を雑にトランクに放り込んで、そのまま車に乗り込んで行ってしまった。

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