LOGIN結婚して4年。周防律人(すおう りつと)の口癖は、いつも「待って」だった。 旅行に行きたいと言うと、彼は「プロジェクトが終わるまで待って」と言う。 結婚記念日を祝いたいと言うと、「会議が終わるまで待って」と言う。 実家に両親の顔を見に行きたいと言っても、「次の休みまで待って」と言う。 しかも今日は、私・周防汐里(すおう しおり)の誕生日だった。半月も前から、夜に時間を空けられるか彼に確認していた。 彼からは大丈夫だと返事をもらっていたので、私は午後の時間をかけて彼の好きな料理を作り、帰りを待っていた。 けれど、夕方6時から夜9時を過ぎても、彼が戻る気配はない。 そのとき、テレビで今日のニュースが流れた。 「周防グループ社長が、雨の中『初恋の人』をお迎えしています!2人に復縁疑惑が浮上!」 聞き覚えのある名前に、反射的に顔を上げた。 そこには、傘を差し出し、薄着の女をしっかりと抱き寄せている彼の姿があった。 ビルからマイバッハまでは目と鼻の先だ。それでも彼は、彼女が濡れないように傘を大きく傾け、自分の肩をずぶ濡れにしていた。 スマホがラインの通知音を鳴らした。律人からのメッセージだった。 【用事があったんだ。すぐ帰る】 今までもずっと待つのが当たり前だったし、いつものように食卓でじっと待ち続けるつもりだった。 でも、ずぶ濡れになったスーツを見ていたら、もう待つのはやめようと、急に心が冷めた。
View More1ヶ月後、2人の離婚が正式に認められた。汐里は東都には戻らず、離婚が成立したことを知らせる書類だけを海鳴市へと郵送した。律人は、届いたその書類を大切に金庫へとしまった。それからというもの、彼は会社での仕事に全てを捧げた。汐里がどうしているのかを調べることは、もうしなかった。知りたいと願わないわけではない。ただ、怖かったのだ。汐里が別の誰かと再婚しているなんて聞きたくなかった。それから3年が過ぎ、彼は港南市での出張を終えた。秘書の健二に帰りの航空券の手配を尋ねられ、何を思ったのか、つい「海鳴市へ向かう」と告げていた。その言葉に、健二は一瞬あっけにとられた。律人はこめかみを押さえ、撤回はしなかった。せき止められていた心のダムが、崩れ去ったような感覚だった。海鳴市にたどり着いた頃には、もう夕暮れ時だった。3年ぶりとはいえ、かつて通った白川家の住所ははっきりと覚えていた。律人は運転手に、マンションの向かいで車を止めるよう指示した。車を降り、大きな木陰に身を隠しながら、マンションのエントランスへと視線を送った。夜8時を回っても、探し求めていた汐里の姿は一向に現れなかった。そこには、1歳くらいの女の子を抱えた男が1人、そわそわと入り口を眺めているだけだった。今日はお会いできないのかと諦めかけた、その時だった。見覚えのあるシルエットが視界に入った。ベージュのワンピースに身を包んだ汐里。記憶の中と何も変わらない、あの優しい雰囲気のままだった。離れゆく時を取り戻そうとするかのように、律人は一瞬たりとも目を逸らさなかった。あまりの懐かしさに、居ても立ってもいられず、飛び出してしまいたかった。しかし、目の当たりにしたのは、汐里がその親子2人を笑顔で迎え入れる光景だった。男に降ろされた女の子は、おぼつかない足取りで、汐里の胸の中へ飛び込んだ。汐里は小さな女の子をひょいと抱き上げると、可愛らしく鼻先をこづいた。男も歩み寄ってきて、慣れた手つきで優しく彼女の肩を抱き寄せた。距離があって会話の内容までは分からない。しかし、3人からあふれ出る幸せそうな表情を、律人は痛いほど見て取ることができた。律人の視線に気づいたのか、汐里がこちらの方へふと視線を投げた。律人は無意識のうちに、幹の後
ここまで言いかけて、千夏は慌てて口を閉ざした。汐里を流産させるつもりまでは、なかったのだ。それでも、律人が血走った目で汐里を抱きかかえていた、あの日を忘れることはできない。付き合っていた頃、これほど感情をむき出しにした律人なんて見たことがなかった。当時、彼は汐里に恋をしたのかもしれないと、直感していた。何しろ、律人が自分を助ける過程で汐里を流産させてしまったのだ。彼の怒りが自分に向くのではないかと、千夏は長い間おびえていた。もし本当に汐里を愛していたら、自分が標的にされるのは避けられないから。だが結局、律人は彼女を責めることはしなかった。それどころか、これは彼の責任だとまで言って慰めてくれたのだ。律人は長い間落ち込んでいたが。自分に対する態度は以前と何一つ変わらなかった。あれは、汐里が宿していたのが最初の子どもだったからだと自分に言い聞かせた。周防家のような家柄なら、最初の子どもを重んじるのも当然だ。子どもを失った悲しみで感情が乱れただけだ。彼が汐里に特別な感情を抱いているわけではないと。しかしもし、今の彼が認める通り、本人が自覚しないうちに、すでに汐里に惚れ込んでいたのだとしたら。あの酔っ払いの一件が、すべて自分の差し金だと知れば……千夏の瞳が激しく震えた。たった今、彼に聞こえなかったことを心の中でひたすら祈った。しかし、願いは叶わなかった。律人の冷徹な眼差しが突き刺さり、その言葉には人を凍り付かせるような凄みがあった。「今、何て言った?もう一度言ってみろ」千夏は無意識に後ろへ下がり、バッグを握りしめた手が震えた。気丈を装い、千夏は必死に笑みを浮かべる。「何でもないのよ律人。ただ、あなたが『汐里が好きだ』って言うのを聞いて、混乱して口が滑っただけで……」律人がそのお粗末な言い訳に騙されるはずはなかった。彼はスマホを取り出し、電話越しに冷ややかに命じた。「2年前、あのイタリアンの店の前で俺たちに絡んできた連中の金の流れを調べろ。前後に誰と接触していたのかも、すべてだ!」律人が本気になったのを見て、千夏の中に得体の知れない恐怖が湧き上がる。彼女は、2人の過去を盾にしてすがりついた。「お願い、律人。あれは口を滑らせただけ。3年間も一緒にいた私たちなのに、そ
その時、階下からインターホンが鳴った。千夏が、どこから聞きつけたのか律人が1人で海鳴市から戻ったという情報を知り、周防家に押し掛けてきたのだ。扉を開けると、彼女は心配そうな表情を作って尋ねた。「律人、汐里さんはまだあなたと離婚したがってるの?」律人は唇を引き結び、何も答えなかった。そんな彼の様子を見て、千夏は求めていた答えを得たと確信した。千夏は表情一つ変えず、密かに口角を上げた。汐里が頑なに離婚を望んでいるのなら、たとえ律人の心に汐里の場所ができたとしても、どうということはない。汐里さえいなくなれば、当然のように自分が律人の傍らにいる唯一の存在になれるからだ。かつての2人の絆があれば、すぐにでも律人が以前のように全身全霊で自分を愛してくれるようになると信じていた。「汐里さんがそんなに望んでいるのなら、離婚に応じた方がいいわ。大丈夫、私はずっとあなたのそばにいるから」離婚が実現するという予感に、千夏は込み上げる高揚を隠しきれなかった。律人が向ける眼差しには、かつてのような温もりはなく、ただ静かな冷たさだけがあった。「千夏、俺が愛しているのは汐里だ。彼女と離婚しようが、お前とどうこうなるつもりはない」無情な言葉を突きつけられ、千夏は瞬時に動揺した。「そんな……帰国してから、あなたは以前付き合っていた頃みたいに優しくしてくれたじゃない。私が悲しい時には慰めてくれたし、仕事も放り出して一緒に旅行だってしたわ。あれは愛してくれているからじゃないの?」彼女は思わず彼の手を取り、以前のような甘えた態度で縋りつこうとした。「……私がまた離れて行くのが怖いから、そう言ってるのね律人?大丈夫よ、今回は二度とあなたの前からいなくならないわ。汐里さんと離婚すれば、また2人に戻れるじゃない。それが自然なことだわ」律人は無表情に腕を引き抜き、一歩下がって距離を取った。「お前だって知っているはずだ。結婚式の当日に俺を捨てて海外へ行ったのはお前だろう。あの時から誓ったんだ、お前との未来なんてあり得ないと。帰国してから良くしたのは、ただ昔の付き合いが体に染みついていたからだ。自分の心と向き合えていなかったんだよ。自分がいつの間にか汐里を愛していたと早く気付いていれば、もっと距離を置いていたはずだ」何度も何度
汐里が立ち去った後、律人は1人でコーヒーショップに長時間座り込んでいた。店が閉まるまでずっとだ。店主におかわりを促されて初めて、律人は我に返った。カフェを出ると、気づかないうちに白川家の前まで足が向いていた。白川家には、明かりが灯っている。上階からは、楽しげな談笑の声がかすかに漏れてきた。その中には、聞き覚えのある声も混ざっていた。4年間、汐里があれほど肩の力を抜いて笑ったことは、ほとんどなかったように思う。律人は目を閉じ、胸にこみ上げる感情を必死に押し殺して、踵を返した。今回の海鳴市への訪問は、1日も経たないうちに幕を閉じた。愛しい人は連れ戻せなかった。彼は1人ぼっちのまま飛行機に乗った。東都に着くと、すぐに自宅へと急いだ。しかしドアを開けても、ソファで彼の帰りを待っているはずの姿はどこにもない。魂の抜けた人形のように、彼はフラフラと寝室へ向かった。寝室には、まだ汐里の痕跡があちこちに残っている。ウォークインクローゼットの服、サニタリースペースの洗面用具、ドレッサーの化粧品のボトルたち……まるで彼女がまだ、そこにいるかのようだった。けれど、もう汐里は戻ってこない。律人はそれを痛いほど理解していた。彼は普段汐里が座っていた場所に座り、引き出しを開けた。1冊の日記帳が、隅で静かに眠っていた。それを手に取り、ページをめくる。そこには、汐里の途切れ途切れの記録が残されていた。日付は、4年前の入籍した日から、子供を失い退院した日まで。【〇〇〇〇年5月17日律人と籍を入れた。彼が私を愛していないのは知っているけれど、これから少しずつ分かり合えたらいいな】【〇〇〇〇年8月20日律人と2人で外食へ。これがデートなら嬉しい。幸せだ】【〇〇〇〇年9月25日海鳴市の実家に帰りたいと頼んだけど、仕事が忙しいと断られた。わかってるけど、やっぱり寂しい】【〇〇〇〇年11月9日千夏が戻ってきた。私は、お腹の子を失った】その後は、長い空白が続いていた。彼女がここを去るその日まで。日付はなく、ただ1行だけが記されている。【律人、もうあなたを待つのはやめにするわ】そのページには、涙のしずくが乾いた跡があった。日記の内容は短く、ただ淡々と日常を綴っただけのもの
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