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第3話

Author: 匿名
退職の申請を上司に出したあと、私は席に戻って、残っている仕事の引き継ぎを始めた。

引き継ぎ相手の佐藤佳織(さとう かおり)は普段から私と仲が良くて、今回のことを知って少し寂しそうにしていた。

「美玲姉さん、本当に辞めちゃうの?

そしたらあたし、あのバカップルのイチャつきを毎日見せられるってことじゃん!」

彼女の視線の先に目をやると、慎吾が花音に案件の説明をしていた。

花音はどうやら慎吾にちょっと叱られたらしく、不機嫌な顔をしていたが、慎吾がどこからかカルティエのブレスレットを取り出して彼女をなだめると、すぐにご機嫌になってそれを嬉しそうにつけていた。

そのあと、私と目が合うと、花音は慌てて立ち上がった。

「美玲姉さん、私と師匠は何の関係もないですし、これもただの普通のブレスレットなんです!」

その一言で、周囲の視線が一斉に私たちに集まった。

五年間付き合っていたのに、慎吾は私に高価なものを一度も贈ったことがなかった。それに、彼らは私のことを田舎出身でブランドなんて知らないと思っている。

みんな、私が哀れに見えたんだろう。

隣にいた佳織も、私の代わりに怒りを露わにしていた。

「まだ恋人関係なのに、あいつらあなたのことバカにしてるじゃん!」

私は彼女の手を押さえて、首を振りながら喧嘩しないように合図を送り、再び花音に視線を向けた。

「そのブレスレット、すごく似合ってるよ」

花音は私が怒っていない様子に少し困惑しつつ、諦めきれないように言った。

「お姉さん、本当にただのブレスレットなんです。怒らないでください」

私はただ不思議に思った。

怒る理由なんてない。こういうブレスレットなら、私の京城の家にいくらでもある。

その言葉を聞いた慎吾が立ち上がり、眉をひそめて私を叱った。

「美玲、くだらないことで騒ぐなよ」

私はため息をつき、首を横に振った。

「本当に怒ってないよ。もう、私のことを勝手に決めつけるのはやめてくれる?」

落ち着いた口調に、慎吾は少し意外そうな顔をしたが、すぐにふんっと鼻で笑って言った。

「そうだといいけどな」

そう言って、花音の手を引いて席に戻った。

佳織が我慢できずに私に聞いてきた。

「本当に、あいつらをそのままにしておくの?」

私は書類を整理しながら、肩をすくめた。

「うん。私の中では、もう一方的に別れたから」

五十二回も結婚式を計画して、一度も成功しなかった。もう、疲れた。

退勤後、珍しく慎吾が私のところに来て、荷物を片付けるのを手伝った。

「行こうか。月光レストランに八時で予約してあるから、今出ればちょうどいい」

そのとき、彼の視線が私のブレスレットのない手首に止まり、少し驚いた様子で聞いてきた。

「前にあげたブレスレットは?」

「壊しそうで怖くて、家に置いてきたの」

彼は明らかにホッとした顔をして、笑いながら私を見た。

「前は毎日つけてたのに、なんで急に大事に保管しようなんて思った?」

どう答えようか考えていたところに、花音が小走りでやってきて、私たちの前に立った。

「師匠、準備できました!」

慎吾はすぐに彼女に気を取られ、車に行くように指示した。

花音は当然のように助手席へ向かった。

付き合って五年、私は一度も助手席に乗せてもらったことがない。彼はその席は未来の奥さんのために取っておくと言っていた。結婚してからじゃないと座らせないと。

花音の挑発的な視線に私は目を伏せて、何も言わなかった。

もう、心は何の波も立たなかった。

レストランに着くと、慎吾と花音は同じ側に座り、私の意見を聞くこともなく料理を注文した。

私は気楽に、窓の外の景色を眺めながら時間を過ごした。

明日になれば、この景色ともお別れだから。

料理が運ばれてきたあと、慎吾が珍しく私のためにエビの皮を剥いて、小皿に盛ってくれた。

「ここのエビ、美味しいんだよ」

顔を上げると、慎吾が少し優しい笑みを浮かべていた。

こんな時でも私のことを気にかけるなんて、ちょっと驚いた。

花音がすかさず自慢げに口を開いた。

「これ、私が師匠に紹介したお店なんですよ。前に一緒に来たとき、師匠、三皿も食べたんです!」

慎吾は恥ずかしそうに頬を赤らめた。

「そんなこと、美玲の前で言うなよ……」

花音は笑いながら口元を隠し、私を見て少し申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさい、お姉さん。こんな話で師匠のイメージが崩れないといいんですけど……」

二人は私の目の前でまた笑い合った。

目の前のエビが、急に味気なく見えた。

気持ち悪さを我慢しながら一口食べて、すぐに皿を押し戻した。

「私、エビあんまり好きじゃないの。あなたが食べて」

二人のじゃれ合いはようやく止まり、慎吾が遠慮がちに聞いた。

「不機嫌か?」

私は首を振った。

「ううん、このエビ、生臭くてちょっと苦手」

――あなたたちと同じ。生臭くてたまらない。

食事が終わったあと、慎吾は酔っ払った花音を家まで送っていった。その玄関のドアを閉めたのは私だった。

彼らが去ったのを見届けて、私はすぐにタクシーを呼び、空港へ向かった。

LINEのメッセージには、慎吾が次の結婚式のプランをまだ私と話し合っていた。

少しは後ろめたいのか、今回は自分が主体で準備すると言ってきた。

【今度こそ、ちゃんと最後までやり遂げるよ。誰にも邪魔されない】

私は無表情で返信した。

【うん】

分かってる。無理だって。

きっとまた、前と同じように理由もなく中止になる。

搭乗時間が近づいた頃、彼からまたメッセージが届いた。

【花音が飲みすぎて胃が痛いらしい。今夜は帰れそうにない。君も一人で気をつけてな】

私は鼻で笑った。もう、全部分かってる。

【大丈夫。彼女の家に泊まっても構わないよ。私はもう荷物をまとめてここを出たから、これからは私たち、何の関係もない。

慎吾、さよなら】

そう最後のメッセージを送ったあと、私は彼をブロックして削除した。

飛行機に乗り込んだ私は、窓から遠ざかっていくA市の煌びやかな夜景を見つめていた。

一方その頃、慎吾は完全に呆然としていた。
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