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弟子との一線を越えた夫は、憎む価値もない
弟子との一線を越えた夫は、憎む価値もない
Autor: 結菜

第1話

Autor: 結菜
神谷柚希(かみや ゆずき)は、事故で腕を切断されてしまった息子の神谷健太(かみや けんた)を抱き、空港で救援を待っていた。すると突然、この便が誰かにチャーターされたという知らせが届いた。

「お願いします、どうにかなりませんか……」柚希は空港の係員の手にすがった。

「息子の腕は切断していて、一刻を争うんです。3時間以内に東都へ戻って手術を受けさせないといけないんです!」

切り落とされた腕が入った保冷バッグを、柚希は凍えそうになりながら必死に抱きしめ、絶対に離そうとはしなかった。

係員は困り果てた表情で答えた。

「申し訳ございませんが、神谷さんが通常の3倍の料金でこの機を貸し切られました。愛弟子の快気祝いを開かれるそうで、絶対に誰も乗せないよう指示を受けているんです」

神谷さんって?

「どちらの神谷さんですか?」柚希は問いただした。

係員は答えた。「有名なピアニストの、神谷雅臣(かみや まさおみ)さんです」

雅臣。それは、柚希の夫の名だった。

言葉が終わるか終わらないかのうちに、柚希は大勢のファンに囲まれ、サインに応じながら歩いてくる雅臣の姿を目にした。

いつも通り冷徹で凛とした雅臣。しかし柚希は、雅臣が隣を歩く弟子の入江遥香(いりえ はるか)をかばい、ファンにぶつからないよう手を添えているのを目撃した。

あまりにも慣れた所作だった。

思考を巡らせる暇もなく、柚希は血だらけの保冷バッグを抱えて雅臣に駆け寄った。声を震わせて叫んだ。

「雅臣、健太が大変なの……旅行先で農機の事故に巻き込まれて、腕を……

手術ができる病院に連絡はついたの。3時間以内に戻れればつなげる可能性はある……

健太はまだ3歳なのよ。この子の人生を潰したくない……どうか、私たちも乗せて。お願い」

雅臣の視線が、痛みで意識を失っている健太の姿を一瞬だけ捉えた。しかし、その目には何の情も宿らなかった。

「だめだ」

全身がこわばった。柚希は耳を疑った。

「今、何て言ったの?健太は、あなたの実の息子なのよ!」

雅臣が視線を上げた。その声は、驚くほど冷徹で残忍だった。

「この便は遥香のために手配したものだ。あまり聞き分けのない、幼稚な焼きもちはやめてくれないか?」

その一言が、まるで錆びた鉄釘のように、柚希の胸へ容赦なく突き刺さった。

柚希は言葉を失った。雅臣の性格なら、一度決めたスケジュールを他人のために変えないことは分かっていた。だが、目の前の健太は雅臣の息子なのに……

健太の人生がかかっているのに、それよりも遥香の快気祝いが重要だと言うのか?

たかが小さな公演を終えただけで、ここまで急ぐ必要があるのか?国内に戻ってから祝えばいいのではないか?

すると遥香がわざとらしく咳をし、か弱い様子で柚希に近づいた。

「柚希さん、神谷先生を困らせないでください……私、血が怖くて、この子と一緒に飛行機になんて乗れません。

他の便を探してみたらどうですか?ここは大きい空港ですもの」

雅臣は遥香の言葉を静かに黙認した。

柚希は悔しさを滲ませながら問い詰めた。「どうしてなの?健太はあなたの子供よ。入江さんと息子のどちらが大事なの?もしかして、自分の弟子とできているの?」

「やめろ。そんな汚らわしい勘繰りはやめてくれ。ただの師弟関係だ」

柚希の胸に、どす黒い屈辱と悲しみが押し寄せた。

このところ、雅臣が持ち帰ったペアグッズ、ラインのアイコン変更、そして、こっそりと微笑む練習をしていた雅臣の姿を思い出す。

ようやく雅臣が振り向いてくれると思ったのに。

彼は、とっくに不倫していたんだ。あの優しさも、すべて入江さんのためだった。

「雅臣、お願い。健太を救って。2時間後には嵐が来るわ、これが最終便なの!」

雅臣が迷った表情を見せると、遥香は髪を揺らしながら鼻で笑った。

「柚希さん、前も神谷先生の気を引くために倒れたとか嘘をつきましたね。そんなみっともないことで先生を困らせないでくださいよ」

雅臣が顔をしかめた。あれは随分と前の話で、一度嘘をついてからは絶対にそんなことはしていないというのに。

柚希は頭を振った。「違う、嘘じゃない!雅臣、どうか健太を助けて!」

雅臣は柚希の振る舞いを「面倒な騒ぎ」と断定し、高圧的に告げた。「幼稚な真似をして気を引くのはやめろ。そんな安っぽい手には乗らない」

そう言い放つと、彼は迷わずその場を去った。

今の雅臣が、まるで他人のように思えた。

便はもうないのに、どうして一度も信じてくれないのか?

結婚して3年、柚希がどれだけ尽くしても、雅臣の心を温めることはできなかった。

何をやっても無駄なのだ。

柚希がいくら叫ぼうが、雅臣は沈黙という壁を突きつけてくる。

柚希が円満な家庭を築こうとしても、雅臣は一度も笑顔を向けてはくれなかった。

エンジン音を轟かせながら、機体は滑走路を走り出した。雅臣は一度も振り返ることなく、そのまま去っていった。

力が抜け、柚希は床に崩れ落ちた。保冷バッグから、無数の氷が散らばった。

柚希は凍える手で散乱した氷を拾い集め、震える指先で、もう3年も着信拒否していた幼馴染、黒崎凛斗(くろさき りんと)に連絡を入れた。

「海外の劇団への移籍の話、受けるわ。その代わり、今すぐ東都へ帰れるプライベートジェットを手配してほしいの」

受話器の向こうから、静かな声が答えた。「分かった。簡単なことだ」

「ありがとう。離婚届が受理されたら、健太を連れて行くわ」

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