FAZER LOGIN水瀬澪花(みなせ みおか)は、母子健康手帳の交付手続きをするため、市役所の窓口を訪れた。本人確認書類を取り出そうとした拍子に、同じファイルに挟んでいた婚姻届受理証明書が窓口のカウンターに滑り落ちた。 職員はそれを拾い上げ、記載内容に目を留めると、端末を確認した。 「こちらは今回のお手続きには必要ありませんが……念のため確認したところ、この証明書の内容は、こちらの記録と一致していないようです」 澪花は数秒、反応できなかった。我に返ると、思わず声を強めた。 「公印まで押してあるんです。偽物のはずがありません」 職員は困ったように眉を寄せた。 「公印が不鮮明で、何が押されているのか確認できません。念のため伺いますが、ご主人は久世晴臣(くぜ はるおみ)さんでお間違いないでしょうか。こちらの記録では、久世さんには別の方との婚姻記録があり、お子さんもいらっしゃいます」 一瞬、思考が止まった。澪花はその場に立ち尽くす。 周囲で順番を待っていた人たちが、苛立った声で「早くして」と急かしてくる。騒ぎに気づいた警備員が駆け寄り、澪花の腕をつかんでその場から引き離した。 警備員の手を振りほどくと、怒りに任せてスマホを取り出し、晴臣へ電話をかけた。 十数回かけても、晴臣は一度も出なかった。 そのとき、下腹部が重く痛み始めた。考える間もなく、慌てて救急外来へ向かった。 先生には、急に動揺したせいで、一時的にお腹が張っただけだと言われた。ようやく安心して、救急外来を出る。 病院の外へ出たところで、少し離れた場所に晴臣が立っているのが見えた。 名前を呼ぼうとしたそのとき、少し先から看護師の声がした。 「お子さんはもう大丈夫ですよ。この点滴が終わったら、一緒に帰れます」 澪花の足が止まった。その場から動けない。
Ver mais結婚式場で、澪花は自らデザインしたウェディングドレスを身にまとい、ゆっくりと悠真のもとへ歩いていく。その姿を見た瞬間、悠真は目を赤くした。澪花へ駆け寄り、その手を取った。「澪花、愛してる!」二人は指輪を交換し、参列者の祝福と歓声に包まれながら誓いを交わした。そして、二人は抱き合い、唇を重ねた。少し離れた場所でその光景を見ていた晴臣は、その場で血を吐いた。もしあの出来事がなければ、今、澪花の隣に立っているのは自分だったはずだ。二人で家庭を築き、かわいい子どもが生まれ、澪花が好きな動物を飼う。そして、一生幸せに暮らしていたはずだ。けれど、もしもはない。幸せまで、あと一歩だった。それなのに、自分の手で壊してしまった。晴臣の指には、今もあの指輪がはまっている。澪花が捨てた指輪も、ネックレスに通して首から下げている。晴臣はその指輪を強く握りしめた。幸せそうな澪花を見つめながら、これで自分も、澪花と一緒に結婚式を迎えたようなものだと思った。智紀も目を赤くしている。この2年間、澪花から連絡が来ることは一度もなかった。ふと、母が亡くなる前に言い残した言葉を思い出した。「澪花ちゃんを、必ず守ってあげてね」あのとき、澪花を命よりも大切にすると誓った。それなのに、その誓いを破った。結婚後も、澪花は大好きな仕事を続けている。服やイラストのシリーズを次々と発表し、どれも人気を集めた。数々の賞にも輝き、充実した毎日を送っている。悠真は澪花に仕事を諦めるよう求めたことは一度もない。むしろ、澪花の仕事を全力で応援し、好きなように続けられるよう支えた。時間があるときは友人たちと買い物や食事に出かけ、集まりにも参加した。1年後、澪花の妊娠が分かった。家族は皆、心から喜んだ。なかでも佳代子は澪花の体を心配し、何人もの栄養士や理学療法士に来てもらった。10か月後、澪花は無事に愛らしい女の子を出産した。看護師は、おくるみに包まれた赤ん坊を澪花に抱かせた。澪花は赤ん坊の袖をそっとめくり、左腕に目を落とした瞬間、そのまま固まった。そこには、薄青い痣があった。大きさも位置も、モモの前脚にあった痣とまったく同じだ。澪花の様子に気づいた悠真は、不安そうに尋ねた。「どうした?どこか具合が悪いのか?」澪花は笑って首を横
2年後、澪花は卒業の日を迎えた。在学中は優秀な成績を収め、『再生』は世界のファッションランキングで上位を独占した。何度も個展を開き、多くの作品がコレクターの手に渡った。卒業生代表として壇上に立った澪花は、客席にいる友人や仲間、そして悠真を見渡した。この2年間、彼らはいつもそばにいてくれた。苦しい時も、大切な時も、変わらず一緒にいてくれたのだ。澪花はマイクを手に取り、笑顔で言った。「3年前、勇気を出してあの選択をした自分に、ありがとう。そして、友人たちにも、本当にありがとう!」卒業パーティーが終わると、悠真は澪花を海辺の散歩へ誘った。夕日が海をオレンジ色に染めている。二人は夕暮れの風に吹かれながら、自然と肩を並べて歩いている。「ありがとう」しばらく歩いたあと、澪花がふいに口を開いた。悠真は口元を緩め、隣にいる澪花へ目を落とした。「その言葉、もう何度も聞いたよ。そろそろ聞き飽きた。次は、ありがとう以外の言葉が聞きたいな」澪花が顔を上げると、悠真と目が合い、その優しい眼差しに思わず見入ってしまった。そのとき、花の入った籠を持った子どもが二人のもとへ駆け寄り、幼い声で呼びかけた。「お兄ちゃん、お姉ちゃん。お花、買いませんか?」籠の中は、澪花の好きな花ばかりだった。澪花は笑ってうなずいた。「これ、全部ください!」子どもはお金を受け取り、籠の中の花をすべて澪花に渡した。二人は再び歩き出し、取り留めのない話を続けた。すると今度は、ラッピング用の箱を手にした別の子どもが駆けてきた。「お姉ちゃん、そのお花、包みましょうか?」澪花は少し驚いたが、手にした花を見てうなずいた。子どもはあっという間に花を包んで澪花へ差し出し、笑顔で言った。「お姉ちゃん、幸せになってね」そう言い残し、走り去っていった。そのあとも、カードやシャンパン、花のブレスレットまで、次々と届けられた。澪花は隣にいる悠真を見て、不思議そうに尋ねる。「この辺って、いつもこんな感じなの?」悠真は愛おしそうに澪花を見て笑った。「気に入った?」「うん、好き!」「うん。俺も澪花が好きだ。いつの間にか、俺の毎日に澪花がいるのが当たり前になってた。今では、澪花のいない毎日なんて考えられない。笑ってる顔が
車のドアが開き、悠真が降りてきた。眉をひそめ、澪花の前に立って晴臣を遮った。「久世さん、澪花は帰ってほしいと言いましたよね。聞こえませんでしたか?」澪花の前に立つ悠真を見て、晴臣はようやく、これまで澪花の行方を追えなかったわけが分かった。親しげな二人の様子を目にし、胸に溜め込んでいた苦しみが一気にあふれ出した。晴臣は目を血走らせ、声を張り上げる。「澪花は俺の妻だ!外野に、俺たちのことに口を出される筋合いはない。俺に澪花を諦めろと言う権利もない!」悠真は鼻で笑い、軽く首を横に振った。晴臣をまっすぐ見据え、きっぱりと言う。「久世さんと澪花の婚姻届受理証明書は偽物です。二人が法的な夫婦だったことは一度もないんです。澪花を何度も傷つけた時点で、二人の関係はとっくに終わっています。澪花は誰のものでもありません。自分の人生を選ぶ権利があります。久世さんとは、もう何の関係もありません」その言葉に、晴臣の全身が震えた。拳を握りしめ、悠真に殴りかかろうとする。次の瞬間、悠真のボディーガードたちが前へ出て晴臣を取り押さえ、その場から連れていった。晴臣の姿が見えなくなると、悠真はすぐに隣の澪花へ目を落とし、優しい声で尋ねた。「さっき、あんなふうに腕をつかまれて、怖くなかった?どこか痛くない?」澪花は静かに首を横に振った。「大丈夫。いつまでも隠れてはいられないもの。いつかは見つかると思ってた。覚悟はしてたから」悠真は澪花と一緒に家へ入った。澪花が落ち着いたのを見届けてから、帰っていった。翌朝早く、智紀もやって来た。急いで家へ入ったところで、悠真と鉢合わせた。智紀はすぐに眉を寄せ、怒った声で問い詰める。「悠真、澪花ちゃんはずっとここにいたんだろ。どうして居場所を知らないなんて嘘をついた!」悠真は智紀から目をそらさず、静かに答えた。「澪花が二人に会いたくないと言ったんだ。俺も、智紀が来たところで、澪花を余計に悲しませるだけだと思った。澪花はもう二人と関わりたくないんだ。俺は澪花と約束した。だから、澪花が決めたことは全部尊重する」智紀の胸が激しく上下した。拳を握りしめたが、それ以上言い争わず、急いで中へ入る。リビングでは、澪花がデザイン画を整理していた。その姿を見た瞬間、智紀の足が止まり、目が赤くなった。
この日、澪花がアトリエでの仕事を終えて帰宅すると、門の前に立つ見覚えのある人影が目に飛び込んできた。晴臣が、ここまで捜しに来たのだ。ひどく痩せ、目の下には濃い隈が浮かんでいる。視線は澪花に釘づけになり、呼吸まで荒くなっている。澪花の胸の奥がわずかに重くなり、顔から笑みが消えていった。晴臣は澪花を見た瞬間、ずっとこらえていた想いがあふれ、勢いよく駆け寄った。澪花を腕の中へ抱き込み、二度と離さないかのように強く抱きしめた。抱きしめる腕には、痛いほど力がこもっていた。晴臣は声を詰まらせながら言った。「澪花、やっと見つけた。半年以上、考えられる場所はすべて捜した。昼も夜も、後悔し続けた。もう一生、澪花に会えないと思ってたんだ」澪花を離そうとせず、片手で頬にそっと触れた。「ごめん、澪花。全部俺が悪かった。全部、香澄が仕組んだことだった。俺は香澄を信じて、澪花が傷つけられるのを止めもしなかった。澪花、痛かったよな……?」澪花は静かに立っていた。目の前の晴臣を見ても、心は少しも動かなかった。「痛かった。晴臣。体の傷が治るまでには、長い時間がかかった。でも、心に残った痛みは一生消えない。たった一言謝ったところで、生まれるはずだったあの子は戻らない。モモも帰ってこない。私が受けた苦しみも、傷つけられた記憶も消えない」その言葉に、晴臣は目を真っ赤にし、慌てて澪花の手首をつかみ、しどろもどろになりながら何度も謝った。「ごめん。本当に知らなかった。俺は……」晴臣はうなだれ、必死に頼み込んだ。「全部俺が悪い。謝るだけじゃ足りないことも分かってる。怒りをぶつけたいなら、何をしてもいい。殴っても、責めてもいい。気が済むまで俺にぶつけてくれ。頼むから、俺から離れないでくれ。お願いだ」「嫌」澪花は手首を軽く引き、苦い笑みを浮かべながら晴臣を静かに見つめた。「殴って、責めたところで、何が戻るの?モモが車にはねられたとき、私は道路にひざまずいて抱きしめた。腕の中で、モモの体が少しずつ冷たくなっていった。手術台に横たわる私のお腹には、何本もの針が刺さった。あの子が少しずつ体から引き離されていくのを、はっきり感じた。晴臣が謝って、私が殴って責めれば、それで全部償えると思う?この痛みは、もう一生消えない。もし晴臣を許したら、あ