LOGIN妻の河口夕顔(かわぐち ゆうがお)から、息子の森浩次(もり こうじ)がひどい交通事故に遭って、両目が潰れてもう二度と見えなくなったという連絡が入る。 僕は会社を飛び出し、病院へ駆けつける。そして医者の前に膝をつき、どうか僕の眼球を息子に移植してほしいと必死に頼み込む。 手術が終わって、摘出された後、僕はストレッチャーで手術室から運び出される。だけど、そのとき廊下の向こうから、妙に明るい笑い声が聞こえてきた。 「森阿須賀(もり あすか)って、本当にバカだよね。何度騙されても、まったく懲りないんだから」 「夕顔、今度死んできてって頼んだら、あの人多分そのままやっちゃうんじゃない?ほんと、素直な犬みたいでウケる」 笑いの中心で、夕顔は男の秘書――有村哲也(ありむら てつや)と手を絡めて笑い転げていた。 「まあ仕方ないよ。哲也は、こういうお祭り騒ぎ見るの好きだし。だから、息子が怪我したってダマしただけ。 まさかここまでバカとは思わなかったけど。自分の目玉、本当に差し出しちゃうとはね」 八歳の息子までが、当然のように頷いていた。 「こんなバカなパパを持ってるなんて、僕までかわいそうになるよ」 妻と息子の嘲笑を聞いた瞬間、胸の中で何かが音を立てて崩れていく。 十年以上も家族として暮らしてきた相手でも、他人になるのは、ほんの一瞬なんだ。 今回は、僕の方から手放すことにした。
View More夕顔はなおも必死に言葉を重ねる。何とか僕の気持ちを変えようと、諦めずに話し続けていた。僕は足を止める。そして無表情のまま振り返り、自分の義眼を指差した。「僕がどれだけの代償を払ったか、話してほしいのか?浩次は水鉄砲の中に唐辛子入りの液体を入れていた。僕は手術を終えたばかりだった。傷口にそれが入って、神経は全部壊死した。医者には言われたよ。神経が壊死した影響で、残った左目も、いずれ視力を失う可能性が高いって。一年後か、二三年後か、いつ完全に見えなくなるかは、誰にも分からない。夕顔、どうして僕たちは、こんな結末になった?全部、君が招いたことじゃないのか」僕の問いに、夕顔の顔から血の気が引いていく。唇を震わせるだけで、一言も言い返せなかった。「哲也は若くて見た目も良かった。だから惹かれたんだろ。でも、自分が家庭を裏切っておいて、どうして今さら僕に許しを求められる?浩次がああなったことだって、君に責任がないと言えるのか」夕顔は、自分と浩次が反省して謝れば、僕がこれまで受けた屈辱も、味わった苦しみも、すべて忘れてくれるとでも思っていたのだろう。僕は皮肉っぽく笑い、義眼を軽く叩く。「謝れば、この目は元に戻るのか?」その一言で、夕顔は完全に力を失った。さっきまで必死だった表情は消え、肩を落とし、行き場を失った子犬のように俯く。「本当に、離婚するしかないの?」「そうだ」僕は迷わず答える。一切の躊躇もなく。……結局、夕顔は離婚協議書にサインした。その後も離婚成立までの手続きを黙って進め、正式に離婚が成立した日、浩次も病院を退院した。本来なら、何事もなく終わるはずだった。だが、その頃にはネット中で、夕顔と哲也の不倫騒動が大きな話題になっていた。【河口グループの株価が急落した理由ってこれか。業界じゃ不倫なんて珍しくないけど、河口って男を見る目がなさすぎる】【自分の秘書と不倫してたらしいね。あの男、どう見ても金目当てじゃん】【聞いた話じゃ、その秘書を喜ばせるために旦那さんの目まで犠牲にしたとか……】さらに、こんな書き込みまで現れる。【でも子どもはかわいそうじゃない?】するとすぐに返信が付く。【全然かわいそうじゃないよ。うちの子が同じ学校だけど、あの子はかなり性格が悪かったらし
僕は帰ってきた夕顔を見ると、あらかじめ用意しておいた離婚協議書をテーブルの上へ置き、そのまま彼女の前へ滑らせた。「浩次の親権は君に渡す。財産分与は弁護士と相談して決めたとおりにする。本来なら、君は不倫した側なんだから、慰謝料を請求したっておかしくない。でも……浩次を育てていくことを考えれば、そこまで争うつもりはない」最後まで言い切る前に、夕顔は疲れ切った声で僕の言葉を遮った。「浩次、両目とも助からなかったの」僕は一瞬だけ言葉を止める。それでも表情を変えず、静かに続けた。「それでも財産は半分ずつだ」夕顔は真っ赤に腫れた目で僕を見つめる。その瞳には失望が滲んでいた。「阿須賀……あの子は私たちの息子なのよ。この事故で、もう二度と目が見えないの。人生そのものが変わっちゃったのよ!それなのに、あなたは帰ってきて最初に離婚の話しかしない。私、お金を渡さなかった?もしかして、浩次が今こうなってるのを見て、内心では当然の報いだって喜んでるの?哲也も同じよ!あいつも何かあったら全部逃げて、自分だけ責任を放り出した!」夕顔は取り乱したように叫ぶ。全身を震わせ、泣き崩れそうになりながら。まるで僕が悪者であるかのように。僕は黙ってペンを彼女の前へ置く。「前にも言った。これは全部、自業自得だ。ここで泣き喚いたって、何も変わらない。離婚協議書にサインしてくれ。せめて最後くらい、穏便に終わらせよう」夕顔は涙を拭い、かすれた声で言う。「ずっと前から離婚するつもりだったの?浩次の親権だって、最初から放棄するつもりだったんでしょう?」「保護者会の日、君が浩次に言ったこと……全部聞いてた。もうずっと前から僕を捨てるつもりだったなら、今さら優しいふりなんてしなくていい。それとも、哲也に捨てられたから、今になって後悔してるのか?」感情的になったわけじゃない。ただ、事実を口にしただけだった。夕顔の肩が小さく震える。俯いたまま、僕の目を見ることができない。「浩次には、父親はあなたしかいない。あの子、本当に危ない状態だったの。お願い……離婚のことは今は置いて、一緒にあの子を支えてくれない?どうしても離婚するなら、その前に一度だけ浩次に会ってあげて」何度も何度も頭を下げられ、僕は最後には折れるしかなかった。浩次はIC
僕は病院で入院手続きを済ませ、一週間後に義眼を入れる手術を予約する。手術に向けて、医師が義眼の型取りをしている最中だった。半月以上も姿を見せなかった夕顔から電話がかかってくる。受話器の向こうから、泣き叫ぶ声が響いた。「阿須賀……浩次が、大変なの!学校でいじめられて……階段から突き落とされて……目にガラスの破片が刺さって……」泣き声で言葉は途切れ途切れだった。僕は最後まで黙って聞き、それから淡々と尋ねる。「それで?」あまりにも冷たい返事だったのだろう。夕顔はしばらく何も言えなくなった。「阿須賀、今回は本当なの!浩次、すごく血を流してるの……お願い、来て……」「行かない」僕はその言葉を遮る。「夕顔、自分で蒔いた種だ。浩次がこうなったのは、君にも責任がある。僕はもう片目を失った。そして残った目も、いずれ見えなくなる。だから僕を利用しようなんて考えるな。本当でも嘘でも関係ない。もう、君の言葉は一切信じない」夕顔の泣き声がまだ続いていた。僕はそのまま電話を切る。義眼の装着が終わり、診察室を出た頃、病院の廊下が急に騒がしくなった。「お願い!息子を助けて!先生……先生はどこですか!」血だらけの夕顔が、意識を失った浩次を抱えて病院へ駆け込んでくる。両膝は真っ赤に腫れ上がり、ここへ来るまで何度も転んだのだと分かった。その後ろには、哲也も険しい表情で続いている。以前のような親密さはどこにもなく、今にも掴み合いになりそうなほど険悪な空気が漂っていた。夕顔は近くにいた医師へすがりつく。「先生!息子の目にガラスが刺さって……全身血だらけなんです!お願い、助けてください!」ちょうどその時、僕は診察室から出てきた。その光景を見た瞬間、心臓が大きく脈打つ。どれほど憎もうとしても、浩次は僕が幼い頃から育ててきた子だ。血まみれでぐったりしている姿を見ると、胸が締めつけられる。夕顔も僕に気づく。涙を乱暴に拭いながら、恨めしそうに叫んだ。「これで満足?浩次が大変だって言ったのに、また嘘だと思ってたんでしょう!あなたの息子なのよ!もう何とも思わないの?」その責めるような声を聞いた瞬間、わずかに湧き上がった痛みも消えていく。僕は静かに視線を浩次から外した。「病院まで来たなら、
僕は浩次を慰めようとはしない。泣きわめき、床に座り込んで駄々をこねる姿を、ただ静かに見つめていた。幼い頃から自分の手で育ててきた子どもが、こんなにも見知らぬ存在に思え、こんなにも嫌悪感を抱く日が来るなんて。哲也は慌てて浩次を抱き起こし、優しくなだめる。それから僕へ向き直ると、眉をひそめて責めるように言った。「森さん、それでも父親ですか?子どもの自尊心くらい守ってあげるべきでしょう」その言葉だけを聞けば、まるで僕のほうが冷酷な父親みたいだった。夕顔は苛立ったように眉間を押さえ、哲也を制した。その声もどこか棘がある。「そもそも、あなたが勝手に立ち上がったりしなきゃ、こんなことにはならなかったのよ!」ところが浩次は、哲也の手を勢いよく振り払う。一度も顔を見ることすらしない。母子の態度が急に変わったことに、哲也の目が一瞬だけ険しく細められた。それでもすぐに表情を取り繕い、再び僕へ話しかける。「森さん、どうか浩次のことは許してあげてください。やっぱり本当の家族は、君たちなんですから……もし今までのことが許せないなら、二度と同じことはしないと約束します。僕は今すぐ会社を辞めても構いません!」「辞める」という言葉を聞いた途端、夕顔は慌てて哲也を見上げる。僕はそんな二人を見て、小さく笑う。「浩次を自分の息子みたいに思ってるんだろ?だったら、この先は君が育てればいい。生きようが死のうが、もう僕には関係ない」「阿須賀!何てこと言うの!」夕顔が声を荒らげる。「そんな言い方したら、浩次が傷つくじゃない!哲也はただの秘書よ!私たちの間には何もない!浩次の父親になれるわけないでしょ!」必死に否定する夕顔を見ても、僕はもう何も言う気になれなかった。浩次もまた涙を流し始める。「パパ、ごめんなさい……もう怒らないで……」哲也の表情がわずかに曇る。それでも矛先は最後まで僕へ向けられた。「森さん、子供は悪くありません。全部、僕のせいです。社長も浩次も、僕を元気づけようとしてあんなことをしただけなんです。僕は今日限りで会社を辞めます。だから、どうか許してください」三人が口を揃えて芝居を続けるたび、胸の奥の怒りだけが膨れ上がっていく。僕は口元だけをわずかに吊り上げた。「そうか。じゃあ、君も片目をえぐり