LOGINあの日、航平は去ってからも諦めきれず、この街に残った。毎日花束を抱えて店に現れ、スイーツを大量に注文しては、開店から閉店までずっと座っている。本当に頭を悩まされている。卓也が追い出そうとしたけれど、私は手を振って、「売り上げが上がると思えばいいじゃない」と言った。そんな日々が半月も続いたあと、突然客が来なくなった。朝、厨房で仕込みをしている時、「紗耶香、ちょっと来てみて」と呼ばれた。厨房から顔を出すなり、私は卓也を軽く睨みつけた。彼、航平と喧嘩した以来、いきなり呼び捨てにするようになったんだから。見ると、伝票プリンターがひたすら伝票を吐き出し続けて、もう1メートル分も溜まっている。五分後、とうとう機械が紙詰まりを起こした。手に取って見てみれば、備考欄にびっしりと私を罵る言葉が並んでいる。【厚かましい泥棒猫】【人の男を平気で奪うクソ女】【ここから出ていけ】卓也と私はわけがわからず、まったく見当もつかなかった。しばらく調べて、ようやく店の口コミサイトで異変に気づいた。大量の悪評がレビュー欄を埋め尽くしていた。そこには、誰もがあるインフルエンサーの動画を見て来たと書いてある。その動画を再生すると、私が希美と航平の仲に割り込んだと、自信満々に決めつけていた。しかも、希美が帰国したあとに、何度も彼女をいじめたというのだ。私は怒りを通り越して、笑いがこみ上げてきた。こんなつまらない小細工、どう見たって希美の仕業だ。警察に通報すると、すぐに調べがついた。真帆が、またもや希美をそそのかして、ネット上にデマを流させたのだった。私は航平との間に起きたことを、隠さずにネットにあげた。すると、ネットの人たちはすぐに、本当の被害者が私だと理解してくれた。【はあ?結局、被害者が樋口さんの方か。あいつら図々しいにもほどがある】【河野航平もきっしょ。半年前に空港で一途な男を演じてたのに、あのときは信じた自分がバカみたい】【だから言ったじゃん。何でもかんでもすぐ信じるなって】その後、店はもとの落ち着きを取り戻した。航平は、真帆と希美がやったことを知り、ようやくこの街を去っていった。去り際にもう一度だけ店に来て、ティラミスを一つ注文した。あの騒動のあと、初めて穏やかに言葉を交
両親の故郷で、私は小さなスイーツ店を開いた。ここの生活はのんびりしていて、営業はだいたい午前十時から午後四時までだ。店はだんだん軌道に乗って、一人では手が回らなくなり、人を雇うことにした。開店したばかりの頃から、清水卓也(きよみず たくや)はよく店に来てスケッチをしていた。長く顔を合わせるうちに、私たちは親しくなった。その後、彼が就職に苦労していると聞いた。ちょうど私も人手が欲しいと思っていたから、話はすぐにまとまった。彼は私と同じ聴覚障害者だが、私より少しだけ運が良くて、左耳は聞こえる。ある日、私が厨房で忙しくしていると、卓也が「外にお客さんが会いたいって」と知らせてきた。「うん」と返事をして、手を止めた。以前から、私に会いたがる客は少なくなかった。けれど、その相手が航平だとは思いもしなかった。久しぶりに会った航平に、私の心はもう微塵も揺れなかった。ところが彼はひどく興奮していて、私の腕をつかみ、店の外へ連れ出そうとした。私が振りほどけないのを見て、卓也が近づき、いきなり航平に拳を食らわせた。殴られた航平は怒りをあらわにし、二人はそのまま取っ組み合いになった。隣の店主と二人がかりで、やっとの思いで引き離した。仕方なく、私はその日は早めに店を閉めた。そうして私たち三人は、店内に向かい合って座っている。「そいつは誰だ」航平が最初に口を開いた。「俺たちは婚約してるのに、無事ならどうして家に戻らない」私は彼の顔を見て、あまりのおかしさに声を出して笑った。「家?家がどこにあるっていうの」私の笑みに皮肉を感じ取った航平は、一瞬ひるんでから言った。「俺たちの家に決まってるだろ!」私は笑みを引っ込めた。「航平、すべてを壊したのはあなたじゃない?私が家を出た日、希美の誕生日だったわね。あなたは私の前で彼女をクビしたふりをして、陰では彼女のために豪邸を借り、車まで買い与え、家政婦を雇っていた」航平の顔は青ざめ、一瞬うしろめたい表情が走った。彼は苦しげに頭を抱えた。「俺は……ただ諦めきれなかっただけなんだ。本当はお前を愛してる。頼む、一緒に帰ろう」私は怒りで笑うしかなかった。「諦めきれなかった?だから元カノとあんなことをしたの?どんな立場で私に許してほしいなん
私たちの関係が、もう二度とあの頃には戻れない。穏やかな海面の下では、荒れ狂う波が渦巻いている。入院のせいで、航平との結婚式は三か月延期になった。彼はあちこちから結婚式のアイデアをかき集めてきて、一つひとつ私に話して聞かせた。「紗耶香、海で挙式しないか。飛行機からスカイダイビングしてさ、招待客にどでかいサプライズを」目を輝かせながら話すその様子は、まるで本当に私との結婚を心待ちにしているかのようだった。それまでは、式の細かい準備は全部私一人でやっていた。何を相談しても、彼は「紗耶香の好きにしていいよ」「紗耶香が気に入ればそれでいい」としか言わなかった。もしくは【忙しい。つまらないことでいちいち連絡してくるな】のメッセージだった。そんな彼の様子を目の当たりにしながら、私は彼が出した提案に賛成してみせた。すると彼はすっかり気をよくして、ますます張り切るようになった。あるとき、彼が夢中になって話している最中に、私はふと言葉を遮った。「航平は本当に私と結婚したいの?もし、結婚しなかったらどうするの?」口元には、さりげない冗談のように柔らかな笑みを浮かべていた。けれど航平はその場で固まってしまい、慌てた声で言った。「紗耶香、驚かさないでくれよ。全然笑えない」私は彼に抱きしめられるまま、それ以上なにも言わなかった。その直後、スマホが鳴った。彼は画面をちらりと見ると、スマホを持って別の部屋へ行った。戻ってきたときには、すまなさそうな顔をしている。「紗耶香、ちょっと会社で用事ができた。すぐ戻るから」私はうなずくだけで、それ以上はなにも聞かなかった。そして、希美のSNSの更新を目にしたとき、彼はもう戻ってこないのだと確信した。私はそのまま、彼の豪邸をあとにした。……午後十時の飛行機に、私は乗り遅れた。離陸から一時間後、その飛行機が墜落したという知らせが入った。空港は人でごった返し、乗客の家族たちが係員に詰め寄って、親族の安否を必死に尋ねていた。私は人混みに紛れて、航平が地面に膝をついて泣き叫んでいる姿を見ていた。その泣き方があまりにも痛ましくて、周囲の人々が彼を慰めていた。彼は「妻を助けに行くんだ」「俺の妻がこの飛行機に乗っているんだ」と叫び続けている。私は嘲るよ
気がつくと、私は病院のベッドに横たわっていた。航平がベッドの隣に座っていて、私が目を覚ましたのに気づくと、その目はみるみる赤く染まっていった。私は思わず、ぺたんこになったお腹に手をやった。あそこには、かつて確かに何かが宿っていたような気がした。意識が遠のいていたとき、小さな女の子が見えた。彼女は私のことを「ママ」と呼び、小さな柔らかい手で私の頬を撫でた。「ママ、私、先に行くね」ぼんやりとしていて、はっきりとは見えなかったけれど、その子は私にも航平にも似ている気がした。今の航平は、目の下にどんよりとクマができ、顎には青々とした無精ひげが生えている。普段の几帳面な彼とは、まるで別人のようだった。彼は、私がお腹を撫でているのを見ると、ぎゅっと強く抱きしめてきた。「紗耶香、子どもはまた必ずできるから」その目尻から、涙がひとりでにこぼれ落ちた。それはまるで、あの子がこの世界に残した、最後の痕跡のように思えた。私は何も言わなかった。何を言えばいいのか、わからなかったのだ。あの子は、あまりにも静かに訪れて、そして、あまりにも静かに去っていった。それから航平は、ずっと病院に泊まり込んで私についていた。かつては何よりも優先されていた仕事も、今の彼にとっては、もうどうでもいいものになってしまったようだった。私が近づくのを拒むと、彼は体を丸めてソファに沈み込んだ。190センチの大柄な体が、そのソファいっぱいに埋もれていた。彼は毎日、私の耳元で何かを話し続けていたが、私は一度も応えなかった。その声が煩わしくて、私はいっそ補聴器を外してしまった。私がそこまで拒絶しているのを見ても、彼は怒る様子はなかった。ただ、少し笑って、また私のために食事の支度を始めるのだった。その日は珍しく、決まった時間になっても航平が姿を見せず、私は一人の静けさに浸っていた。「紗耶香、ミルクプリンだよ。お前の大好きなもの」彼は宝物でも見せるかのように、そう言ってスイーツを取り出した。私は手を伸ばして、少し湿った彼の前髪をそっと撫でた。「疲れたでしょ」その店はとても人気で、毎日数量限定で売り切れてしまう。朝五時から並び始める人もいるほどだ。「紗耶香のためなら、全然疲れないよ」私は微笑んで、優しく
パーティーには、希美も来ていた。彼女は今航平の秘書だから、この場にいても何の不思議もない。彼女は金色のドレスをまとい、私を見ると、わざとらしく顎をしゃんと上げてみせた。その首元で、ルビーのネックレスがきらめいている。数日前、航平が高額で落札した品だ。相場を大きく上回る金額で、ニュースでは婚約者を喜ばせるためだと騒いでいた。私は軽く会釈し、声には出さず、口の動きだけでこう言った。「あなたには、ふさわしくない」希美は悔しさに足を踏み鳴らしたが、それ以上は何も起こせない。今夜は東都の大物たちがこの場に集めている。誰もが大輝とのコネを欲しがっているのだ。こんな場で、彼女が騒ぎを起こせるはずがなかった。航平は私の腰に手を回し、大輝夫婦と話している。「河野社長と婚約者の方は、相変わらず仲がいいですな」「いえいえ、永島さんには到底かないませんよ」そう答えながら、彼は私の腰を抱く手に、ぐっと力を込めた。その様子を目にした希美の顔に、嫉妬と憎しみがありありと浮かぶ。私は胸がすく思いで、わざと航平の体に寄りかかった。唇を彼の耳元に近づけると、航平の体がぴくりと強張る。希美から見れば、まるで私が航平にキスしているようだった。私は小声でささやく。「どうしたの、愛人が妬くのが怖いの?」航平は私の額にキスを返し、こう言った。「そんなことあるわけないだろ。お前は何をしたって正しいんだから」その言葉に、ぞっと鳥肌が立つ。傍から見れば、私と航平は世界で一番親密なふたりだ。その時、希美はうっかり手元のグラスを倒してしまう。大きな音が響き、周囲の視線が一斉に集まった。だが航平は、彼女が慌てて破片を片づける姿を冷ややかに一瞥しただけで、私の腰を抱いたまま別の場所へ歩き出す。こうした集まりでは、人脈づくりこそが肝心なのだ。航平がほかの招待客のところへ向かうと、私は二階のバルコニーに出て風に当たることにした。夜風は優しく、空には星が瞬き、かすかな花の香りが漂ってくる。頭の中では、四千万を手にした後の計画を考えていた。そのとき、すぐ近くから真帆と希美の声が聞こえてきた。「耳が聞こえないくせに、よくこんな場に顔を出せるわね。本当に迷惑」「真帆、そんな言い方したら、彼女がまたキ
夜、体調が悪くて早めに寝ようとしていた。執事に牛乳を届けてもらったあと、明日の午後にまた来てくれるよう頼んだ。寝る前には、珍しく航平に電話までかけた。甘い言葉をいくつか交わしたあと、彼が本当に出張先にいることを確信した。これでやっと安心できた。全員が休んだのを確認してから、私は部屋を抜け出し、暗闇の中を階下へと忍び足で向かった。今回は余計な荷物を持っていないから、行動がしやすい。昨日のうちに、石宮市行きの航空券を買ってある。タクシーもすでに手配済みで、裏門のところで待機しているはずだ。音を一切立てず、慎重に足を運んだ。裏門の柵を抜けると、たしかに車が停まっているのが見えた。逃げ出せるという高揚感に、胸が躍った。あと少し、あと数歩で、ここから抜け出せる。ドアハンドルを握った瞬間、その手をがしりと掴まれた。耳元に、航平の冷たい声が響く。「紗耶香、そんなに俺から逃げたいのかよ」悪魔のささやきのような声に、体が震えた。彼は出張中のはずなのに。私の疑問を見透かしたように、彼は親切げに説明してくれた。「バカだな。お前がそんな甘ったるい言葉、一度だって言ったことあったか?」笑っているのか怒っているのかわからない表情で、今にも私を食い尽くしそうな目をしている。彼は私の手を引いた。どんなに抵抗しても、無駄だった。「紗耶香、言うこと聞かないとダメだろ」そう言うと、彼は私を寝室に引きずり込み、ベッドに乱暴に放り投げた。見下ろすように立つ彼は、ネクタイを緩め、シャツのボタンを外していく。私は必死にもがいたが、簡単に押さえつけられてしまった。混乱の中、手探りでベッドサイドテーブルの硬いものに触れ、迷わずそれを彼の頭に叩きつけた。額から滴る血が、私の顔に落ちてきた。もともと整った顔立ちだから、白い肌に額の血がまるで鮮やかな花のように映える。私は激しく息を切らしながら、次の瞬間に首を絞められるんじゃないかと怯えていた。ところが彼は口元を上げて、こう言った。「気は済んだか。希美のことで、俺を殺そうってのか?」私は鼻で笑った。「へえ、わかってたの?」彼はタバコを一本取り出した。立ち込める煙の向こうで、彼はどうでもよさそうに言い放つ。「彼女は彼女、お前はお前だ