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第8話
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彼女が愛したとき、春は遠く 第26話
「つまり……私たち、会ったことがあるってこと？」「うん。優秀卒業生の代表スピーチの日に、演台の裏で。その時、スピーチ原稿をなくして、君が探してくれたんだ」凛花の脳裏に、ふいに大学時代の記憶がよみがえった。そうだ、卒業式で代表として話す直前、同じく発表を控えた男の子がいて、彼の原稿が見つからず、彼女は必死に探したのだった。片隅に落ちていたのを見つけたが、緊張していた凛花は、その顔までは覚えていなかった。まさか、あの時の彼が—— 「律也、あの時の男が、あなた？」「思い出してくれた？」律也は優しく笑う。「けど、卒業後すぐに君の消息は追えなくなって……数年後、あるプロジェクトのパーティーで再会した。君が神谷の秘書になっているなんて思わなかったよ」「そうだったんだ」凛花は唇を噛み、胸の奥がなぜかざわつく。まさか、この流れって……告白！？「凛花、もし、あの時からずっと君が好きだったって言ったら、引くかな？」律也の真剣な目に、凛花は思わず吹き出した。「なにそれ……そんな告白、ずるいよ。相手の反応まで気にするなんて」「じゃあ……」彼は少し不安げに言葉を続けようとした。凛花の前だときだけ、こんなにも緊張するのだった。「でも、私たち……契約してるよね？」凛花は小さな声で、視線を伏せた。すると、律也はどこからか契約書を取り出し、目の前でそれを破り捨てた。「君が望むなら、契約に意味はない。望まないなら、今ここで終わりにすればいい」その仕草に、凛花は思わず笑ってしまった。彼女の笑顔——それを、少し離れた場所から、誰かが静かに見つめていた。片隅に立つ黎真の目に、涙はなかったが、その瞳はどこまでも空虚だった。彼の記憶の中にはない、あんなに心から笑う凛花。それは自分の隣では、決して見られなかった表情だった。律也と凛花の結婚式には、街の名士たちがこぞって集まった。ドレッシングルームでは、凛花の母が髪を結いながら、満面の笑みを浮かべていた。「凛花、三十年も待った甲斐があったよ。やっとお嫁に行ってくれたんだね」「ちょっと、母さん。普通は泣いてる場面でしょ？」凛花が頬を膨らませると、母は笑いながらも目を潤ませていた。「泣いてなんかいられないよ、あんたもう三十なんだから。む
彼女が愛したとき、春は遠く 第25話
黎真が返事をする間もなく、突然、数名の警察官が近くに現れた。「神谷瑠璃さんですね？」瑠璃の全身がびくりと震えた。反射的に逃げようと背を向けたが、すぐさま警察に壁へ押し付けられ、両手を後ろにねじられた。「神谷瑠璃さん、あなたを傷害教唆の疑いで、任意同行を求めます」「違う、違います！」瑠璃は取り乱した様子で叫ぶ。どうして！？全部手を回したはずなのに……まさか、雪野律也が？「雪野さん、ご協力いただきありがとうございます。おかげさまで、捜査は大きく前進しました」警察の一言に、凛花の眉がわずかに動いた。この件はもう終わったと思っていたのに。彼が、ずっと水面下で調べ続けていたなんて。心がじんわりと温かくなる。凛花はそっと、律也の手を強く握った。「どういうことだ？」黎真が混乱した声で瑠璃を見つめた。「瑠璃、お前、一体、何をした？」「彼女が何をしたか、まだわからないの？」凛花が冷たく笑う。「神谷黎真、あの日の暴漢、私が呼んだんじゃない。彼女が仕組んだのよ。自作自演の茶番だったって、どうして気づかなかったの？」黎真の頭が真っ白になった。震えるように瑠璃を見つめる。「嘘だろ？瑠璃、本当にお前がやったのか？正気じゃない……」「そうよ！私はもう、正気じゃなかったのよ！」瑠璃は叫ぶように答えた。「私が彼女を襲わせようとした！あの日、あの男たちは私が呼んだのよ！凛花の純潔なんてどうでもよかった、あの女を壊してやりたかったの！だって、だって彼女があなたを奪ったから！私はあなたがほしかっただけよ、黎真！」涙と怒りが混ざった顔で、彼女は言葉を続けた。「あなたは私に、結婚しようって言ったじゃない！ずっと一緒にいようって言ったじゃない！でも今は、全部あの女に夢中じゃない！私はただ、あの日、あいつらが彼女を殺し損ねたのが、悔しいだけなのよ！」「お前、狂ってる……」黎真は首を振りながら、顔を歪めた。「神谷黎真、目が腐ってたのはあなただよ。私がどんな女か、ちゃんと見極められなかったくせに。だけどあなただって、まともな人間じゃない。凛花と七年も付き合っておいて、一度も正式な関係にしようとしなかったなんて。最低の男じゃない？今さら許しを乞うつもり？笑わせないで。私こそ、誰よりもあんたを愛
彼女が愛したとき、春は遠く 第24話
「か、神谷さん……！」いきなり現れた黎真に、その男は目を見開いた。「今、何て言った？雪野と凛花が偽装結婚だと？」「お、俺の友達が、雪野の秘書と親しくて……そう聞いたんです……」黎真の目にわずかな光が差し込む。一気に酔いが覚めたような気がした。だが、その男がさっき凛花を侮辱した言葉を思い出し、すぐ隣にあったバケツを掴むと、迷わず男にぶちまけた。「ちょっ、神谷さん、何するんですか！」「次、また俺の前で中古だの、汚れた女だのぬかしたら……今度はただの水じゃ済まねぇからな」黎真が外に出た時、ちょうど凛花が女子トイレから出てきた。彼女は彼の姿を見て、心の中で舌打ちした。しまった、もう少し時間ずらせばよかった。だが、黎真はすぐに彼女の前に立ちはだかった。その口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。「凛花、君と雪野はやっぱり偽装結婚なんだろ？本当は愛し合ってなんかないんだよね？」その一言に、凛花の瞳孔が揺れた。どうして、彼がこのことを知っているの？このことを知っているのは、彼女と雪野本人、そして書類手続きをした秘書だけのはず。「何の話？意味がわからない」彼女は動揺を隠し、立ち去ろうとした。だが黎真は、酔った勢いのまま彼女を抱きしめ、叫ぶように言った。「わかってるんだ、君はまだ俺を、俺のことを愛してるんだろ？俺のもとに戻ってきてくれ、凛花……会いたかった……！」そして、そのまま強引に彼女の唇を奪った。「んっ……神谷黎真、やめて！気が狂ったの！？」凛花は渾身の力で彼を突き飛ばし、唇を何度も拭った。「自分が何してるかわかってる！？」「わかってるさ！君は俺にヤキモチを焼かせたくて、雪野と結婚したふりをしてるんだろう！？そうなんだろう、凛花！」黎真が再び凛花を抱きしめようとしたその瞬間、律也が駆けつけ、彼女の前に立ち塞がった。「神谷！俺は言ったはずだ、誰も彼女に触れるなって！」律也の拳が、迷いなく黎真の顔面に叩き込まれる。その一撃は、ずっと我慢してきた怒りの集約だった。顔を押さえながらも、黎真は喚き続ける。「雪野、知ってるぞ！お前と凛花は契約結婚だってな！すぐに離婚するんだろ？だったら彼女はまた俺のところへ！」律也の眉がぴくりと動く。彼女が言ったのか？
彼女が愛したとき、春は遠く 第23話
律也がSNSに投稿すると、すぐに友人たちから「祝杯をあげよう」と誘いが入り、当然のように「奥さんも一緒に！」という声があがった。凛花がこういった場を好まないことを知っていた律也は、最初は断ろうとしていた。だが、凛花は自分から口を開いた。「行くよ。結婚したんだし、あなたの友達に会っておくのもいいでしょ」今、少しずつだけど、彼と一緒にいたいと思うようになってる。そんな気持ちが、凛花の背中を押していた。彼の友達に会ってみるのも、彼のことを知るいい機会かもしれない。場所は、江都でも最高級と言われる会員制クラブ「ブルージャズ」二階の個室には、すでに黎真が来ていた。彼の登場に、周囲の友人たちは驚き、からかい始めた。「おやおや？黎真が律也と同じ席に来るなんて、珍しいな！」「今日、白川さんが来るからって、彼女は連れてこなかったのか？」すでに数杯飲んでいた黎真が冷たい視線を一つ送るだけで、その場の空気は一瞬で凍りついた。「黎真」瑠璃が現れた瞬間、彼の顔がさらに冷え込む。「なんで来た？」「隣の部屋で友達と飲んでて、あなたがここにいるって聞いたから、ちょっと覗きに来たの」「お義姉さん、いらっしゃい！」周囲が囃し立てる中、黎真が何も言わないことに気づいた瑠璃は、嬉しそうに彼の隣に腰を下ろした。そこへ、律也と凛花が到着した。「皆さん、お待たせ」十指を絡めたまま、扉をくぐる。凛花の視線が、すぐに黎真と瑠璃に向かう。彼女がここにいるとは思っていなかった凛花は、少し困惑する。律也は彼女の不安を察し、ぎゅっと手を握りしめた。そして堂々と声を上げる。「紹介するよ、俺の妻、白川凛花だ」その瞬間、場がざわついた。「おお、律也が女を連れてくるなんて初めてじゃね？」「しかも奥さんだって！まさか最初が本命とはな！」誰かがグラスを手に立ち上がり、凛花に差し出した。「奥さんに乾杯！おめでとうございます！」凛花が躊躇していると、律也が代わりに受け取り、そのまま飲み干した。「凛花はお酒が飲めないんだ。無理させないで。代わりに俺が飲むよ」その言葉に、凛花の口元がふっとほころんだ。かつては、彼女が黎真のために無理して飲んでいた——今では、誰かが自分のために飲んでくれる。「うわー、律
彼女が愛したとき、春は遠く 第22話
「あいつ、本当に後悔してるのかもしれないな」律也がふと呟くと、凛花はその言葉に目を伏せた。その瞳に一瞬だけよぎった寂しさを、律也は見逃さなかった。彼女の中にまだ黎真への未練が残っているのではないか——そう思った瞬間、律也の胸にざらりとした不安が広がった。「大丈夫か？」律也が静かに尋ねると、凛花は視線を戻し、彼の口元をそっと見つめた。出血が止まっていることを確認し、ようやく安心したように息をつく。「うん、大丈夫」凛花の心配そうな表情に、律也は思わず笑みをこぼした。「俺のこと、心配してくれてるの？」「当然でしょ。だって、あなたは私の夫なんだから。心配しないで、誰を心配するのよ？」凛花は眉をひそめながらも怒ったように言った。「神谷黎真、本当に頭おかしくなったの？いきなりあなたを殴るなんて！」「それだけ、君を取り戻したいって気持ちが強いんだろうな」律也は不安を抑えながらも、彼女の本心を探るように言った。「ありえないわ」凛花は即座に否定する。「私、あの人にはとっくに見切りをつけたもの」「そっか」律也は俯きながら、小さく微笑んだ。その口元の笑みを、凛花は見逃さなかった。「なに笑ってるのよ？殴られたばっかりで」「いや、君が俺を心配してくれるなら、あの一発くらい、安いもんだと思って」その言葉に、凛花の頬がほんのりと紅く染まった。「バカ」「車、止めて」突然律也が言った。「え？どうかした？」「さっき、君が俺の手を握ってくれた時、ひとつ重大な問題に気づいたんだ。今すぐ解決しなきゃいけない」「何よ、それ？」律也は凛花を連れて、近くのジュエリーショップに入った。そして迷わず、指輪コーナーへ直行する。「すみません、結婚指輪をいくつか見せてください」「え？」凛花は一瞬呆気にとられた。結婚指輪？今？私たち、契約結婚のはずなのに。「どれが好き？」律也は振り向きながら、彼女の意見を求めた。「じゃあ、これ」凛花は適当に指をさした。「じゃ、それにしよう」律也はすぐにカードを出して支払いを済ませた。「ギフト包装はご希望ですか？」「いえ、必要ありません」律也は女性用の指輪を取り出し、凛花の薬指にはめた。そして、男性用の指輪を手に持ち
彼女が愛したとき、春は遠く 第21話
律也は避けきれず、黎真の拳をまともに受けた。その衝撃で数歩よろけ、後ろに下がる。「律也！」その姿を見た凛花は顔色を変え、慌てて彼のもとへ駆け寄った。「大丈夫？どこか痛む？」黎真の拳には、怒りと執着が込められていた。律也の口元には血が滲み、凛花は慌ててポケットからハンカチを取り出し、彼の唇の端を優しく拭った。「痛くない？」「平気だよ、全然痛くない」律也は彼女からハンカチを受け取り、微笑んだ。その微笑みを見た瞬間、凛花の心の最後の防波堤が、音を立てて崩れ落ちた。彼女はくるりと振り返り、怒りを露わに黎真を睨みつけた。「神谷黎真、あんた、正気なの？自分が何してるか分かってるの？」「そんなに……そんなに、あいつのことが大事か？」凛花が律也を心配するその様子に、黎真の胸がずきずきと痛んだ。かつては、自分に向けられていたあの優しさも、眼差しも——今はもう、他の男のものになっている。「そうよ、大事に決まってる。彼は、私の恋人であり……夫でもあるの」凛花は律也の手をきゅっと握りしめた。指と指がしっかりと絡み合う。「神谷黎真、もう終わりにして。私、律也と結婚したのよ！」「な、に？」黎真はその場に立ち尽くした。彼女と過ごした七年——そのすべてが、今まさに崩れ去ろうとしている。彼女が、よりにもよって他の男と結婚だなんて——まさか、そんなはずがない。「嘘だ。たった一発、あいつを殴っただけで、そんな嘘を？」「嘘だと思うなら、これを見て」凛花が静かに言い、律也がスマートフォンを取り出した。そこには、婚姻届を提出した日、二人で撮った写真が映っていた。並んだ名前と笑顔の二人。どう見ても本物だった。「これが……何かの冗談だろ？」黎真は信じられないとばかりに、かすかに笑って首を振った。「お前が他の男と結婚するなんて、ありえない。お前は俺を七年間も愛してきたんだぞ。そんな簡単に、他の男と結婚なんて……できるわけがないだろ？」「あなたも知ってるでしょ。私、あなたと七年間一緒にいたのよ」凛花は冷たく笑った。「七年……七年も付き合って、あんたは私に何の約束もしてくれなかった。でも、律也は出会ったその日に、私を連れて区役所に行ってくれた。私の本気を、ちゃんと受け止めてくれたのよ」
