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第244話

Author: 藤崎 美咲
そうと決めたからには、結衣が動くしかなかった。

これは、言葉のない駆け引きだ。

玄関まであと少しというところで、結衣は悠真の声がしないことに気づき、歩く速度をさらに落とした。

ドアノブを回して扉を開けても、悠真は追ってこない。

結衣は唇を噛み、スーツケースを階段の段差に持ち上げるふりをしながら、そっと横目で彼の様子をうかがった。

「待て」

背後から、低く冷ややかな声が響く。

結衣の唇の端が、ほんのわずかに上がった。

振り向くと、悠真がゆっくりと歩み寄ってくる。そして彼は無言のまま、スーツケースを持ち上げて外に運び出した。

結衣が何か言おうとした瞬間、悠真はそのままスーツケースを玄関の外に置いた。

結衣の笑みが、唇の端で凍りつく。

「誠司に送らせる」悠真は淡々と言った。「新しいマンションのセキュリティはしっかりしている。そこに住めば安全面の心配はない」

その言葉に、結衣の胸の奥でようやく灯りかけた希望が、一気に冷水を浴びせられたように消えていく。

少しの間を置いて、無理に笑みを作った。「……わかった」

大丈夫。

まだ勝負はついていない。

星乃と悠真はすでに離婚している。

別荘にいられなくても、悠真と一緒にいられるチャンスはいくらでもある。

自分はいまも冬川グループに残っている。

それに、花音が味方してくれている。

勝率で言えば、自分の方が星乃よりずっと上だ。

……

その頃、バーの中は賑やかだった。

人でごった返し、熱気と喧噪に包まれている。

一番奥の比較的静かなボックス席で、星乃と律人が向かい合って座っていた。テーブルの上には、ずらりと並ぶグラス。どれも濃い酒ばかりで、横の氷桶にも数本のボトルが冷やされている。

「本音ゲームだ」律人が言う。「怖いなら、いまのうちにやめてもいい」

星乃は前のグラスをちらりと見た。

どれも度数の高い酒ばかりで、中には複数のスピリッツを混ぜたものまである。

それでも星乃はふっと笑った。「あなたが怖がらないのに、私が怖がる理由ある?」

「結婚する前、みんなが私をなんて呼んでたか知ってる?」

律人が片眉を上げた。興味ありげな表情をつくってみせる。「なんて?」

「酔わない令嬢よ」星乃は少し誇らしげに顎を上げた。「実家のパーティーでは、私ひとりでテーブルの人たちをまるごと潰したの」

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