Mag-log in奈々美は強引に彰の腕に自分の腕を絡め、にこやかに言った。「いいことを教えてあげる。私たち、もうすぐ婚約するのよ」その言葉に、由奈はさすがに驚きを隠せなかった。思わず彰へ視線を向ける。しかし彰は、その視線を受け止めようとしない。わずかに目をそらした。由奈が驚いたのは、彼が結婚することではない。相手がよりによって奈々美だったからだ。彰の母親は、将吾の異母妹である。つまり、彰と奈々美は、近い親族同士の婚姻になってしまう。そんなことを、将吾が知らないはずがない。たとえ和恵が黙っていたとしても――彰自身が、この事実を知らないはずがないのだ。奈々美の、得意げでありながらどこか警戒を含んだ視線を受け、由奈はふと可笑しくなった。「それは……おめでとうございます。じゃあ、私はこれで」これ以上関わるつもりはなかった。言い終えると、すぐにその場を離れる。去っていく由奈の背中を見送りながら、彰の口元にわずかな苦笑が浮かんだ。由奈が驚いたのは、彼が政略結婚をすることではない。相手が――あまりにも不釣り合いだということだ。――きっと今ごろ、家の都合に従う自分を軽蔑しているだろう。利益のためならどんな理不尽な要求も飲み込む一族の中で育った彼に、自分の未来など語れるはずもない。奈々美はその表情を見逃さなかった。由奈への未練か、それとも名残惜しさか――そう思い込んだ彼女は、彰の腕を離し、冷たく笑った。「影山さん、余計な感情は捨てたほうがいいわよ。うちと影山家が協力するって話、忘れたわけじゃないよね?あなたの意思に関係なく、私はいずれあなたの妻になるんだから」彰は一瞥をくれ、何も言わずに踵を返す。背を向けた瞬間、胸中に浮かんだのはただ一言――なんて馬鹿馬鹿しい女だ。由奈が個室へ戻ってほどなく、食事会はお開きとなった。勉たちと店の前で別れ、ひとり駐車場へ向かう。その途中、ふいに雪が降り出した。街はたちまち淡く霞み、風に舞う細かな雪が襟元へと入り込んでくる。由奈はコートの襟をかき寄せ、タクシーを拾おうと歩道に出た。そのとき、背後に気配が近づき、頭上の光がふっと遮られる。振り返った先にいたのは、祐一だった。黒い傘を差し、わずかにこちらへ傾けている。そのせいで彼の肩は半分、雪に濡れていた。由奈が言葉を探すより先に、彼は由奈の手
その誘いに、由奈は静かに頷いた。「ぜひ、お願いします」勉と別れたあと、三人は駐車場へ向かった。車の前で足を止めた由奈は、ふと思い出したように紬を振り返る。「そういえば……千代さんの容体、どうなったんですか?」紬は一瞬だけ言葉に詰まり、視線を落とした。「……あまり変わってない。意識も戻らないままで、医者も……正直、難しいって」由奈は何も言わなかった。ただ静かに頷く。紬は慌てたように言葉を足す。「でも、由奈お義姉ちゃんは何も気にしなくていいからね。うちは、今回の事故を由奈お義姉ちゃんのせいにしてないし。それから、真由美さんの言うことも真に受けなくていいから。あの人、今は滝沢家がぐちゃぐちゃになるのを面白がってるだけだよ。あ……それと、奈々美にも気をつけて。あの子、何するか分からないから」――その言葉が現実になるまで、そう時間はかからなかった。数日後、勉との食事の席で、由奈は思いがけず奈々美と顔を合わせることになる。同じレストランの、別の個室だった。勉の席には、かつて脳神経外科で一緒だった同僚が二人。由奈が現在取り組んでいるアルツハイマー新薬の研究に興味を示し、話は自然と専門的な内容へと流れていった。途中、由奈は席を外して洗面所へ向かうその時、廊下の曲がり角で、奈々美と鉢合わせる。視線がぶつかった時、奈々美の表情がわずかに固まる。次の瞬間、その目にははっきりとした敵意が宿っていた。「……よく海都市に戻ってこれたわね。もう二度と顔見せないと思ってたけど」由奈は軽く目を伏せ、わずかに笑う。「別に、何か悪いことをした覚えはないし。戻ってきちゃいけない理由もないでしょ?」奈々美は一歩、距離を詰めた。その瞬間、ふわりと漂う濃いローズの香りに、由奈の胸がむかつく。思わず身体を引いた。その反応を、奈々美は別の意味に受け取ったらしい。口元に冷たい笑みが浮かぶ。「……やっぱり後ろめたいんでしょ?おばあちゃん、あなたのことどれだけ気にかけてたか分かってる?それなのに、彼女が入院中、あなたは一度も見舞いに来なかった。祐一さんはあなたのために命を懸けて、自分の家族すら顧みなかった。おばあちゃんのことさえ守れなかった。あなたって、本当に――疫病神以外の何者でもない」由奈の眉がわずかに寄る。挑発だと分かっていた。ここで感情的になれば
翌朝、由奈は洗面所に駆け込み、朝食をほとんど吐き戻していた。喉の奥が焼けるようで、立っているのもやっとだった。物音に気づいた浩輔が、扉の外から声をかける。「姉さん、大丈夫?」返事がないのを不安に思い、ドアを開けて中へ入ると、便器に寄りかかるようにして崩れ落ちている由奈の姿が目に入った。「……っ、今すぐ病院行こう!」慌てて彼女を抱き上げ、そのまま玄関へ向かう。ちょうどそのとき、ドアの外に立っていた紬と鉢合わせた。状況を一目見て、紬の表情が変わる。「ちょっと、どうしたの?」「説明は後!とにかく病院だ!」浩輔はそのまま外へ飛び出した。「待って、私も行く!」紬も慌てて後を追う。……救急外来の廊下。浩輔と紬は並んで座り、落ち着かない様子で扉を見つめていた。やがて医師が出てくる。「ご家族の方は?」「はい、俺です。彼女の弟です」「お姉さん、普段から、つわりはひどいんですか?」その言葉に、浩輔は一瞬固まる。横で紬が首をかしげた。「つわりって……どういうことですか?」「え……あの……」浩輔は視線を落とし、言葉を探すが、何も出てこない。「患者さんの旦那さんは……いらっしゃらないようですね」医師は小さくため息をついた。「妊娠していること、ご存じなかったんですか?六週目です。吐き方がこの程度を繰り返すようなら、絶食の上で入院管理が必要になります。脱水や電解質の異常も調べなければいけません」「え……妊娠……?」紬が思わず声を上げる。「とりあえず入院を――」と浩輔が言いかけた、そのとき。「必要ありません」静かな声がして、診察室の扉のところに由奈が立っていた。壁に手をつきながら、なんとか身体を支えている。「姉さん、なんで出てきたの!」駆け寄る浩輔を、由奈は軽く首を振って制し、医師に向き直る。「昨日の夜から急に吐いただけで、普段はこんなことありません。ここ数日、食事も乱れていて……少し疲れていただけだと思います」医師はしばらく彼女の様子を見てから、頷いた。「では薬を出しておきます。吐き気が強いときだけ服用してください。妊娠中は、精神状態も大事です。ストレスや不安はできるだけ避けて、食事も少量をこまめに」「わかりました。ありがとうございます」……医師が去ると同時に、紬が一歩前に出る。「ねえ……
この一件は、瞬く間に各大手ニュースサイトやSNSのトレンドを席巻した。ペンキを浴びながらも微動だにせず、堂々としていた祐一の姿は、ネット上で大きな議論を巻き起こす。【金持ちって心にも余裕があるんだね。すげえ】【いや、あのビジュアルは反則。自分だったら絶対泣いてたわ】【元妻ってどんな女?滝沢社長をここまで追い詰めるってヤバすぎ】【恋愛にのめり込むとこうなる見本だな】【親の面倒も見ないで、家のことを放り出す男に会社経営なんて無理でしょ。ちゃんと調査すべき】称賛と嘲笑。擁護と断罪。無数の声が、祐一に容赦なく突き刺さる。……その頃、海都市郊外の乗馬クラブ。静かなラウンジで、将吾夫妻は彰の祖父、敦とグラスを交わしていた。テレビには、ちょうど祐一が記者に囲まれている映像が流れている。「まさか将平さんが、甥にここまで容赦しないとはな」敦は画面から目を離し、将吾へと視線を向けた。将吾はグラスを指先で回しながら、ゆっくりと笑う。その声音には、どこか乾いた冷たさが混じっていた。「こちらが情けをかけたところで、あの子が手を緩めることはないでしょう」隣に座る真由美も口を挟む。「祐一は昔から頑固で、状況を読めないんですよ。自分一人で全部コントロールできると思ってる。そろそろ痛い目を見て、目を覚ます頃じゃないかしら。それに、商売なんてそんなものでしょう?勝った者が上に立ち、負けた者は地に落ちるんだから」敦は指でグラスの縁をなぞる。「ところで、祐一の弱点は……彼の元妻、だったな」真由美は一瞬だけ笑みを引っ込める。「ええ、池上由奈と言って、栄東市の中道家の令嬢なんです」思い出したように、わざとらしく続けた。「そういえばお孫さんの彰さんも、昔あの子に少し興味を持っていらしたとか。由奈がうまく誘惑したんだと思いますけど……その件、ご存じでした?」その言葉に、敦の表情がわずかに沈む。吾はすぐに真由美へ視線を送り、話を引き継いだ。「彰さんと奈々美の縁談は順調です。ですから、決して由奈を彰さんに接触させるようなことはしません。ご安心ください。それに――今の由奈には中道家と白石家の後ろ盾があります。たとえ祐一にとって由奈が弱点だったとしても、迂闊に手を出すよりも、そっとしておく方が得策だと私は考えます」「中道家と白石家の二家く
二人は頷き、弁護士事務所を後にした。出口まで歩いてきたところで、背後から祐一が彼女を呼び止めた。「由奈」由奈は足を止め、振り返る。感情の読めない静かな声で返す。「まさか、今さら後悔したって言わないよね?」祐一はしばらく彼女を見つめていた。冷たい風にさらされるその顔に、やがてかすかな笑みが浮かぶ。「君には、何の不自由もなく、ただ幸せでいてほしい。たとえ、俺がいなくても」由奈の呼吸が一瞬詰まる。視線を逸らし、小さく答えた。「……そうするよ」それ以上は何も言わず、彼女は車に乗り込んだ。ドアが閉まった瞬間、シートに体を預け、顔を上げる。こぼれた涙を手の甲で拭った。それでも――窓の外にまだ立ち尽くす祐一の姿が目に入ると、次の瞬間には、涙が堰を切ったようにあふれ出した。そこには絶望も、恨みもない。報われなかった恋というわけでもない。それなのに――かつて祐一に黙って海都市を去ったあの日よりも、ずっと心が痛んだ。……逆方向へ走る車の中で、祐一は窓の外を見つめたまま、視線を動かさない。その目には、消えることのない寂しさが沈んでいた。指先では、小さな箱を弄んでいる。中に入っているのは、本来なら婚約パーティーで渡すはずだったダイヤの指輪。結局、渡されることはできなかった。車は滝沢グループ本社の前で止まる。そこにはすでに報道陣が押し寄せ、車が現れた瞬間、波のように押し寄せてきた。数十人の警備員が即座に壁を作り、群衆を押し返す。ボディーガードが前方を固める中、麗子が駆け寄ってドアを開けた。祐一が車から降りる。黒いコートに包まれた長身は、いっそう冷ややかで近寄りがたい。目の下にうっすら浮かぶ青みだけが、ここ数日の疲労を物語っていた。「滝沢社長!昨年の江川市爆発事故から生還されたのに、なぜ長く戻られなかったのですか?前妻のために滝沢家を顧みなかったという噂もありますが――」「今回海都市に戻ったのは経営権争いのためですか?」「滝沢将吾さんに滝沢家を出るよう求めた理由は?ご自身の不満により、和恵さんや千代さんに危害を加えたという疑惑については?」フラッシュが激しく瞬き、無数の問いが飛び交う。だが祐一は一切目を向けず、耳も貸さない。ポケットの中の箱を握りしめたまま、重い足取りでまっすぐ建物へ向かう。麗子は横でマイクを払
真由美は自宅に戻っても、どうしても怒りを飲み込めなかった。将吾を睨むその目には、あからさまな非難が滲んでいる。「さっき、どうして何も言わなかったの?少しくらい取りなしてくれれば、将平さんだって気が変わったかもしれないのに!これじゃ何も手に入らなかったじゃない!」将吾はソファに腰を落とし、苛立ちを隠せずに息を吐く。娘がいるのを思い出したのか、声だけは抑えた。「奈々美、先に部屋へ戻ってくれ」奈々美が階段を上がっていくのを見届けてから、将吾はネクタイを乱暴に外し、テーブルに放り投げた。「お母さんが亡くなったばかりなんだ……少し空気を読んでくれないか」「何それ、結局は私が悪いの?」真由美は感情を爆発させる。「あの時お義母さんの薬を変えたのって、今日のためなんじゃ――」言い終わる前に、パシッという乾いた音がリビングに響いた。奈々美は階段の途中で足を止め、気配を殺して陰に身を隠し、そっと下を覗き込む。頬を押さえた真由美の目に、怒りが宿る。将吾に殴られたのは、これで二度目だ。彼女は笑った。怒りに歪んだ、冷たい笑みだった。「ははは、図星だった?お義母さんがいなくなった途端、親想いの息子ぶるつもり?だったら今すぐ将平さんに教えなさいよ――あの事故がどういうものだったのかをね!」「黙れ!」将吾の声は、低く唸るように響いた。胸が激しく上下し、その目の奥では、焦りと苛立ちが渦を巻いている。真由美の歪んだ顔を直視できない。今のやり取りを誰かに聞かれていないか、そのことばかりが、頭をよぎる。――殴るべきではなかった。今さらながらにそう思う。しかし、後悔したところで、もう遅い。彼女の言葉は、焼けた鉄のように胸に突き立てられ、じわじわと皮膚を焦がしていく。確かに、彼女の言う通りだ。母の薬をすり替えたあの日から、自分はもう引き返せない。それでも――すべてを暴かれることだけは、耐えられない。そんな彼とは違い、真由美はむしろ落ち着きを取り戻し、口元の血を拭いながら低く笑った。「今さら怖くなったの?祐一さんが戻ってきて、将平さんと一緒に実権を握った今じゃ、あなたはもう何も手に入らないのよ。それくらい分かってるでしょ?それなのに、何を取り繕ってるわけ?」「……もうやめてくれ」将吾は深く息を吸い、感情を無理やり押し込めた。「これ以上騒ぐな。奈々美