LOGIN「先輩! ……ッ?」「おいっ⁉︎」 反射的に駆け寄ろうとして、途端に俺も身体の力が抜けて無様に転んだ。蛇口を全開にして中身を絞り出したような、脳の奥が痺れるほどの虚脱感だ。 咄嗟に晴己が腕を掴んでくれたお陰で、間一髪濡れたのが膝だけで済んだ。濡れたり乾いたり、確実に生乾きだ。返ったら速攻で洗濯しないと。「根こそぎあたしが霊力を貰ったからね。こんなに渡したの初めてなんじゃない? 全力って言ったけど、まだちょっと持て余してるもの」「渡したって、何すか。成海に取り憑いた時点で奪ってたんじゃないんですか?」「キミね……奪ってたなんて人聞きの悪いこと言わないで。取り憑いたからって、宿主の霊力を好き勝手使えるわけじゃないのよ。それは宿主の精神を乗っ取った場合だけなんだから」 つまり、理論上は可能だったと。今更ながら、取り憑かれているという事実が恐ろしくなったような。 俺は倒れたまま動かない西山を見た。「……あの化け物はどうなったんだ?」「もう居ないわ。無事に祓えたと思う。そうよね、隠神さん?」「そうだね、奴の気配はもう何処にもない。あとはこのびしょ濡れの体育館の証拠隠滅だけど……えいっ」 隠神がまるで虫を退けるくらいの軽さで手を振った。すると締め切っているはずの体育館の中に強い風が吹いて、それに思わず顔を覆った次の瞬間、水浸しだった床が乾いていた。「規格外過ぎるだろ……あ、膝乾いてる」「こんだけ凄いのに、今回全然役に立たなかったぞ」「何か晴己、俺に当たり強くない?」「まあ、それなりに」「それなりに⁉︎」 でも晴己の言う通りだと思う。これだけの力がありながら、隠神は超序盤で俺たちを見捨てて何処かへ行った。結果として回収したノートは全然関係なかったし。 ……ノートと言えば、これはどうするべきなんだろう。「あげるよ、それ」「……!」 背後から声を掛けられた。振り向くと、花子……じゃない、市川茉里が浮いていた。「ね、あたしのこと、『トイレの花子さーん』って言ってくれない?」「と、トイレの花子さーん……」 ふっ、と冷たい空気が和らいだ。代わりに、また息が詰まるような重たさが満ちる。「……よし、これで戻れたかな。というか、強くなったかも? キミ、本当にすごいね」「いや、というか何が起きたんですか?」 何がどういうシステムなのか、全く
目の前で、西山の姿が消えた。 俺たちが化け物と対峙している間、突然ふらふらと西山が歩き出して、自らあの化け物へと向かって行った。何かを探しているような様子にも見えたけれど、あの無数の黒い手に阻まれて、ついに彼女は取り込まれてしまった。「くそっ、花子さん、あれどういう状態なんですか⁉︎」「やるじゃない。書き手を直接食べちゃうなんて」「冷静に言ってる場合か⁉︎」 この大怨霊、いま食べられたって言ったか⁉︎ 慌てる俺をよそに、隠神と花子さんは冷静だ。晴己は……良し、あいつもびっくりしてる。「どうするんだよ……!」「とりあえずこれ、焼こうか」 そう言って隠神は三冊のノートを取り出した。一瞬、花子さんが目を細めたが頷いた。隠神の見立てでは、このノートこそが奴の力の源らしい。だから全てを破棄すれば倒すことができるのだと。「まずこれから」 隠神は適当に一番上にあったピンク色のノートを燃やした。もちろんライターなんて物があるわけもなく、隠神が何かの術で火を点けた。紙のノートはよく燃えて、あっという間に煤になって消える。「さあ、効いたかな?」 どこかワクワクした様子で隠神が化け物を見た。 しかし奴は悲鳴を上げるどころか、微動だにしない。「……効いてなくね?」「あ、あれ? 一冊だけだからかな」 次いで、その下にあった青色のノートを同じ手法で燃やした。しかし、やはり変わらない。 晴己は隠神を見上げた。「それ、関係ないんじゃね……?」「嘘でしょ」 隠神の顔が引き攣った。それを見て、俺の顔も引き攣った。隣を見ると、花子さんも口元だけが笑った顔のままぴたりと止まっていた。「……もう一回聞くけど、どうするんだよ」「……どうしようか!」「このクソ狸!」 俺の怒鳴り声が体育館中に響き渡った。ほぼ同時に、晴己の拳が隠神の腰にクリーンヒットした。「あいたっ! いや本当にどうしよう! このノートで弱らせられるから、人間が食べられてもまあいいかって思ってたからさぁ!」「ごめん正直あたしも全く同じこと考えてたわ!」「これだから大妖怪は!」 俺の盛大なツッコミが響いた途端、化け物がそれに負けないくらいの咆哮を轟かせた。「来るよ!」 花子さんの警戒を促す言葉に続くように、化け物から黒いヘドロのような物体がいくつも飛来した。 花子さんは俺の前に出る
ぞくりとした隙間風が私たちを覆う。それが重たくて寒いくらいだ。なのに、不思議と嫌な感じはしなかった。「たのもう、たのもう〜」「さっさと出てきなさい、この厄介者!」 火の玉と隠神さんが私たちの前へ進む。 明かりのない体育館の中は、暗く奥まで見えない。そこに、ちょうど月明かりが雲から顔を出した。「何かいる。成海、気を付けろよ」「分かってる」 体育館の真ん中に、何か黒いモノがいる。『ある』ではなく『いる』と分かったのは、それが動いているからだ。 頭の大きなコケシのような形をしていて、出来損ないの千手観音のように無数の手がボコボコと飛び出ていた。「きゃああっ! なに、何なの、あれ……⁉︎」 気持ち悪い! 気持ち悪い!気持ち悪い! 私は思わず吐きそうになって口元を抑えた。「アレがキミに憑いていたものよ」「あ、あんなのが……⁉︎」「そう、そしてキミが呼び出したモノでもあるの」「し、知らない! あんなの知らない!」「知らないはずがないでしょ。……キミたち、『こっくりさん』をやったじゃない」「えっ……」 ——何で、それを知っているの。私は火の玉を見たが、そこから読み取れるものは何もない。「こっくりさんって、降霊術の? 今時そんなのする奴いるんだ」「『ばずり』がどうとか言ってたわよ。そういうのが流行ってるんだって」「……あー、なるほど」 嘘、その時の会話まで知っているなんて! 私は冷たくなった両手を握りしめる。力を入れているはずなのに、手が震えている。「で、でもあれは……あれは私がやり始めたんじゃない。私はただ、巻き込まれただけで」「そうね。キミはどっちかって言うとただの被害者。……いじめでしょう、アレ」 小鳥遊くんと、生徒会の彼が同時に私を振り返った。いや、生徒会の彼はずっと私から目を離してなどいなかった。「飛び降りた女子生徒は、その時にいた子よね?」「……ッ」 私は咄嗟に否定できなかった。それが、彼らに確信を与えたようだった。ぎり、と自分が歯軋りをした音が脳によく響いた。 ……思い出すのは、いつだって醜い彼女たちの嗤い声だ。 およそ三週間前の放課後。部活が自主練になった日に、私はいつものように畑本たちに呼び出された。 でも、その日は呼び出される場所が違っていた。『あの、何で教室……? しかもここ、使ってない教室
揺れている。……地震かな。 そう思ったら目が開いた。「あっ、起きたみたい」「ぜえ、はあ……お、起きた……?」 揺れがおさまった。頬に当たるシャツ生地の布越しに伝わる体温がぬくい。それに反して背中はひんやりと冷たくて、服が濡れているような気持ち悪さを覚えた。 そして身体を起こそうとして、私はそこでようやく自分が誰かに背負われていることに気が付いた。「え……えっ⁉︎ 何で、誰⁉︎」「ぐえっ!」 咄嗟に目の前の襟を掴んだせいで、私をおぶっている人が潰れたカエルみたいな声を出した。私の足を支えていた手が緩んで、落ちるようにその背中から急いで降りた。 せ、制服じゃなくて良かった。ジャージで良かった!「あ、あああの、どちら様ですか?」 私をおぶっていたのは、黒髪の少し猫っ毛の男子生徒だ。全く見覚えのない外見の彼は、締まった襟元を直しながら答えた。「げほっ……二年の小鳥遊です。先輩、途中で倒れて……もしかして覚えてない?」「覚えてないって、何を?」 小鳥遊くんは何とも言えない微妙な顔をした。あからさまに困っているような様子に、私は一体何を忘れたのか恐ろしくなった。「忘れていた方がいいこともあるのよ」 透けるような女の子の声が、小鳥遊くんのすぐ近くから聞こえた。しかしそれらしい姿はどこにも見当たらない。「これはちょっと……貸しにしたいくらいには、覚えておいてほしいけど……はあ、疲れた……」「ご苦労様。あたしが触れると良くないからね。さっすが男子高校生!」 独り言のように話す小鳥遊くんの前に、青白い光が浮いている。女の子の声はそこから聞こえていた。それを理解した瞬間、さあっと血の気が引いた。「ひっ……ゆ、幽霊⁉︎」「あら、視えるの?」「ひひひ、ひの、火の玉が……!」 顔なんて見えるはずもないが、その火の玉と『目が合った』ような気がして、私はいよいよ全身の鳥肌が止まらなくなった。「こ、来ないでっ、こっちに来ないで!」「落ち着きなさい。別に今更取って食ったりしないわ。あたしたちが探しているのは、ノートの方だし」「……!」 ノート、と聞いて胸がどくんと波打った。血の気が引いたまま眩暈が止まらず、思わずジャージのポケットに手を入れた。しかし、無い。ポケットに入れて持って来ていたはずのお気に入りのシャーペンが無い。「あれ、ない。ない…
「っくしゅん!」 自分の足音以外響かない暗い廊下に、くしゃみがひとつ。「うーん、誰かに噂されてる予感」 隠神は鍵のかかった引き戸の前に立っていた。成海と晴己が謎のアヤカシに追われて何処かへ逃げて行った後、彼はひとり別行動を取っていた。 図書室。そう記された標識の部屋を探して。「なーんかここ怪しいんだよね」 そう言いながら手を翳し、霊力を使って鍵開けを試みる。カチャン、と難なく鍵が開く音がした。 図書室の中は、例に漏れず夜の静寂を保っていた。電気は付けない。狸の夜目は割ときくからだ。「……やっぱりあった。原因これでしょ」 それは、一冊の古びたノートだった。色褪せた表紙と変色した紙が、その年月の長さを物語っている。「心のノート、ねぇ」 その表紙に書いてある文字を読み上げると、どろりとノートから文字が溢れ出るような感覚に陥る。しかし隠神は構わずノートを開き——そしてげんなりと呆れた。「よくもまあ、醜い言葉だこと」 そこには、思いつく限りの悪口が見受けられた。死んでほしい、殺したい。そんな言葉でさえも。 どろり、どろり。文字が浮かび上がって、手元へ流れ込んでくる。流れた文字を目にする度、誰かの声が脳に木霊する。『許さない』『なんで』『助けて』『恨んでやる』 それは、少女の声だ。涙が混じった声の中に、激しい憎悪が滲んでいるのが分かった。「邪魔くさいな」 ふっ。隠神は流れ出る文字に向かって息を吹きかけた。すると瞬く間に文字はノートの中に戻っていき、最初から何もなかったかのようにきちっと罫線の中に収まった。「文字を食うアヤカシ、か。何か居たなあ、そういうの。店主に訊けば分かるんだろうけど」 頭を掻いても、まるでその名前は思い出せない。もう一度、ノートの表紙を見る。その下に、小さく可愛らしい字体で元の持ち主の名前が記載されていた。「……『市川 茉里』」 当然ながら、聞き覚えのない名前だ。第一これだけ古いノートなら、この持ち主はとうの昔に卒業して去っているだろう。このノートに書かれた嫌な記憶と共に。 隠神はノートを一旦抱えたまま、別の本棚を物色し始めた。同じような気配が、別の場所からもしていたからだ。「あと二つ、かな」 そして、それぞれデザインが違うノートを発見した。しかしそのどちらも、中身は似ていたがタイトルはついていなかった。
か細い女子の声だった。三つ編みのおさげを両肩にぶら下げて、黒縁の眼鏡を掛けている。「えっと……俺は小鳥遊成海です。二年生で、忘れ物をしちゃって」 俺は警戒を解かないまま、パッと思いついた嘘を吐いた。我ながら苦し紛れだと思う。 しかし女子生徒はホッとしたように胸を撫で下ろし、自分を『西山 恵』と名乗った。そして三年生だとも。「私も忘れ物をしたの。暗くて怖かったから……人がいてくれて良かった。あんな事故もあった後だし」 ——嘘だ。これは直感だが、彼女も嘘を吐いていると確信をした。というか、直前で晴己が化け物に連れて行かれたのを目の当たりにしている。それなら、俺が取るべき行動は決まっていた。この嘘吐きの正体を暴くことだ。「俺はもう回収したんで、良かったら先輩のあとを着いていきますよ」「本当? それなら、お言葉に甘えようかな」 花子さんは何も言わない。だが、今も俺の隣にいる。だが西山は花子さんについて何も触れない。その視線が向けられることもない。幽霊が視えているわけじゃないのか。「……気を付けて。彼女、すっごい『穢れ』よ」「穢れ……?」 先輩に聞こえないよう、声を落として聞き返す。「簡単に言うと、負のオーラを溜め過ぎている状態ね」「溜め過ぎるとどうなるんですか?」「死ぬわ。極論だけどね」「……!」 それは、かなりやばい奴なのでは。俺にはその『穢れ』とやらがどんなものかは分からないが、西山の周りは確かにドス黒いモヤが纏わりついている。 ただ確かに西山のはモヤが多い印象だが、それ自体は普通の人でもよく見られるものだ。モヤが多い人ほど疲れているような印象だったから、勝手にストレスの具現化なんだと思っていた。 いつも見ている疲れ切ったサラリーマンのモヤが『薄汚れた綿』だとしたら、彼女の纏っているそれは、まるで『底なしの沼の泥』だ。光を一切反射せず、彼女自身の輪郭をじわじわと侵食しているように見える。「彼女、あたしが視えてないみたい。このまま着いていきましょう」「了解」 俺たちは、西山の少し後ろを着いて歩くようにした。 結局図書室には辿り着けないまま、逆方向へと進んで行く。そういえば隠神は全く姿を見ないが、今どこで何をしているんだろう。あいつの仕事は俺らのお守りじゃなかったのかよ。職務怠慢もいいところだ。「そういえば」 ふと、西山が