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仄かに花の香りがした。
それが、店先に咲いた桜の香りだと気付いた時、胸の奥で寂しさにも似た静寂を感じて、深く息を吸った。 「さ、店開きしようか」 背後で暖簾をかける音がした。何度も耳にしたその音が、不思議と真新しく聴こえる。 振り返ったその景色は、ほとんど変わりはしないのに。 「買い物に行かなきゃ」 「俺も行くよ。買わなきゃいけない物ってあったっけ」 見慣れた後ろ姿たちが、暖簾をくぐっていく。もう一度背後を振り返るが、探した姿はもう見えない。 春の温もりを纏った風が頬を撫でた。俺はそっと目を閉じて、店に入ろうと踵を返した。 その時、玄関の前で大人しく座っていた白い犬が鳴いた。 「わん!」 後ろ姿を見送った方角の反対側に体を向けて、ふさふさな尾を千切れんばかりに振っている。 「あ、あのう。ごめんください」 白い着物を着た女性だ。細長い指を胸の前でもじもじと絡ませて、俯きがちにこちらを見ている。 きちっと整えられた着物の裾から覗く青白い足は、地面に触れる寸前で淡く霞み、その輪郭は曖昧だった。 女性は恥ずかしさを滲ませた小さな声で、懸命に言葉を紡いだ。 「ええっと……困り事があったらここへ行きなさいって教えてもらって……」 「ああ、なるほど」 脳裏に、聞き慣れた声が蘇る。 日は移ろい、同じ時は二度と存在しない。その刹那の出会い、それすなわち奇縁——あの人の口癖が、いつの日か自分の口癖になっていくのだろうか。 合縁、奇縁、袖振り合うも他生の縁。 果たして、この縁がいったい何を結ぶのか。 「いらっしゃいませ。まずは一服、それから話を伺いましょう。ようこそ、奇縁堂へ」 りん、りん、と鈴が鳴る。軽やかなその音は、まるで来客を歓迎しているかのようだ。 この音を聴く度に思い出す。 二年前の春。桜も散った終わり頃の、今も色褪せない記憶を。とんだ不運と気の迷いから始まったと思っていた、運命という言葉にするにはドラマチックすぎる摩訶不思議な縁を。 あの日も、鈴が鳴っていた。 ———— 走りながら、考えた。いわゆる『普通』とは一体何なのかを。 階段を駆け降りながら、考えた。こんなにも走らなければならない理由を。 「誰か……っ!」 小鳥遊成海は、荒れた呼吸の合間に喘ぐように叫んだ。 「助けてくれー!」 道端にいた鴉が三羽、驚いた様子で激しい羽音を響かせて飛び立った。 何でこんなことになっている。俺はいつものように校門を出たはずだ。 そして火曜日の特売に間に合うように行きつけのスーパーに向かっている最中で、信号待ちをしている時に、『それ』と目が合った。 視線が絡んだ。 たったそれだけで、俺の日常は音を立てて崩れ去ってしまった。最高に狂ってる鬼ごっこの始まりだ。 振り向く余裕は、もうとっくにない。 「クソッタレ……ッ!」 俺はただの人間だ。ちょっと幽霊が見えるってだけの。運動神経だって別に良いわけじゃない! 人気のない、車が通る気配もない横断歩道を駆け抜ける。赤く光る信号機など無視した。そんなものに構っている場合ではない。 追いつかれたらどうなるか、なんて分かりようもないが、追いつかれてはいけないということだけは、背中を這う冷たい感触が物語っていた。 気が付けば、見覚えのない十字路に差し掛かっていた。 「っどこだよここ!」 もう完全に迷子だ。何年もこの町に住んでいるというのに、いったいどこまで逃げ回ってしまったのか見当もつかない。 それでも、止まるわけにはいかない。俺は一瞬迷ったのち、とりあえず左へ足先を向けた。 振り向きざまに、背後に迫る『それ』が僅かに視界に入った。 曲がり角にある民家の外壁からショートカットするように身を乗り出しているのは、赤みを帯びた黒い肌、そして俺に向かって伸ばされる大きく鋭い爪。 バチンッ! 強い静電気のような衝撃が走って、背を押された形になった俺は勢い余って倒れ込んだ。 その拍子、手に握っていた物を放り投げてしまい、少し先の目の前に転がった。 「御守りが——」 それは母から貰った御守りだ。 水色の布地に青い糸で俺の名前が刺繍してある、この世でたった一つしかない大切な形見だ。 それが鋭利なもので裂かれたように、真っ二つになっていて中身が覗いている。 嘆くよりも先に、より一層血の気が引いた。俺は砂利ごと御守りを拾い上げて、もうなりふり構わず逃げ出した。 「やばい、やばい……! マジでやばいヤツじゃねーかよ!」 叫んだつもりが、震えていて情けない声になっていた。 背後で奴の怒鳴ったような大声が聞こえた。すぐにまた追いかけてくるだろう。 走りながら破れた御守りを見た。 今まで何度もこれに助けられてきた。こんな風に化け物に追いかけ回されたのも、二度三度なんてものじゃない。それでも本当に危なくなると、この御守りが跳ね除けて助けてくれていた。 それが、失われた。じわりと涙が滲んだ。 ちくしょう、何よりも大切な物なのに。 叫んだところで誰も来やしない。 ここにはもう、助けてくれる友人すらもいない。 ぜえぜえと耳障りな自分の呼吸の音が、内側から響くようで気持ち悪い。 足が震えた。力が入らない。 「ッ……」 絶望的な状況に足を止めそうになった、その時。 ——りりん、りん。 ふと、どこからか鈴の音が聞こえた。俯きかけた顔を上げると、通りの右手にある古い民家が目に入った。 俺は何故だか『呼ばれている』ような気がして、その場で足を止めた。 すると当然の如く、背後から迫る化け物の足音が大きくなった。 「っしまった……!」 慌てて民家の敷地内に入ろうと足を動かしたが、相手の方が早かった。 紐のような物が俺の首に巻き付いて、あっという間に体が宙に浮いた。 「ッ……ッ……⁉︎」 息が、できない。 指で巻き付いた物を引っ掻くが、それが緩む様子は全くない。浮いた足は、もう地面に届かず虚しくバタつくだけに終わる。 「ぐっ……あ……ッ」 苦しい。 本当に、死ぬ、のか。 こわい。『これ』は、いやだ。 離して、やめて、許して。 「っかあ……さん……」 ここに居るはずのない人影が現れる。 白い手が、俺の首を絞めている。違う、幻覚だ。そんなこと、俺の人生で一度も無かった。 ……こわい、はずなのに。 これは罰なのだろうか。やっぱり、こんな風に殺されなきゃいけないような罪だったんだろうか。 ——俺が生きるということは。 徐々に視界が狭くなる。体の力が抜けて、意識を保っていられない。 ここで終わるんだ、そう思うと、急速に意識が遠のいていった。 ——パチンッ。 光の消えかけた世界に、硬質な音が響いた。 「——ウチの前で、何やってんの?」 途端、首を締め付けていたモノが弾け飛んだ。 「ゲホッ、ゲホッ!」 吊り紐を失った人形のように地面に落ち、俺は肺が破れるかと思うほどの勢いで空気を貪った。 涙で霞む視界の先に、誰かが立っている。 「珍しい鈴の鳴り方をしたから出て来てみれば……なーに人ん家の前で暴れてるわけ?」 朱色。 視界に入ったのは、目に刺さるほど鮮やかな朱色の羽織。 どこか浮世離れした、涼やかな男の声だ。対して、化け物が何か喚いたが酷くしゃがれていて聞き取れなかった。 「うるせーな、近所迷惑だ」 誰かが俺の前に立っている。 俺はそこで、ようやく余裕を持って振り向いた。そして、俺を追いかけていたモノを、目の当たりにした。 「うっ……!」 ひと目見て思うのは、巨大な獣。二足歩行をしているようだが、獣だと思った。 赤みを帯びた黒い肌はところどころ捲れ上がるように変形しており、鋭い爪は小型ナイフのような長さをしている。あんなのに切り裂かれたらたまったものではない。 そして、何よりおぞましく長い髪の毛が、うねうねと風に靡いている。気色悪い。 あんなものが俺の首に巻き付いていたと知って、思わず首の皮膚を掻く。 「そら、さっさと消えろ。営業妨害だ」 しっしっ、と犬でも追い払うかのような仕草をするその手には、白く短い棒が握られている。 それが扇子だと気付いたのは、パッと口元を隠すように開かれたからだ。 化け物はギョロリと暗い目を俺に向けたが、やがて恨めしそうな表情を残して走ってどこかへ消えて行った。 助かった……のか……? 「さて、と」 男が扇子で口元を隠したまま、俺の方を振り向いた。 「……!」 薄紅色の瞳だった。 品定めをするような視線が、いまだに地面に尻餅をついたままの俺を見下ろす。 現代の雰囲気にそぐわない、和服姿の男だ。長い髪を簪でまとめ上げているその風貌は、声を聞かなければ女性と見間違ってもおかしくない。 どこにいても目立つ朱色の羽織の裾に、金色の鳥のような模様が風に揺れている。 彼は扇子をパチンと閉じた。いやにその乾いた音が響いて、思わず肩が跳ねる。 そして、彼は無表情のまま俺にこう告げた。 「お前、このままじゃ死ぬよ」 「……え?」 「首、吊りたくないだろ?」 「く、くび、って……?」 ——なんで、それを。 息が詰まった。何か言い返そうとして、喉から押し潰れた空気が漏れた。 男はそんな俺を見下ろしたまま、にんまりと口角を上げた。 「助けてあげよっか? その代わり、ウチで働きなよ」 「は……?」 「ようこそ、『奇縁堂』へ」 差し出された手は、幸か不幸か。 『奇縁』——この状況を表すのなら、確かにその言葉は適当だろう。 俺にとっての『普通』は、決して高望みするような特別なものじゃないはずだ。 学校に行って、可もなく不可もない成績を収めながらバイトして生活費を稼ぐこと。 毎週木曜日になるとスーパーの卵のセールがあって、今日はその日だ。今何時だ。多分もう間に合わない。 首に残る息苦しさの痕が、酷く熱い。 だから、これが気の迷いだとしても、誰も俺を責める道理などない。 わからないことだらけだが、ただ一つだけ確かな事がある。 ——さらば、俺の『普通』な毎日よ。「ごちそうさまでした」 明日は何を作ろう。まさか日中に臨時休校になっている校舎へは行かないだろうから、昼間は凛寧にだし汁の作り置きでも教えようか。 時計を見ると、夜八時を指していた。 隣の凛寧も食べ終わり手を合わせたのを見て、俺は空いた食器をお盆に乗せて台所へと向かった。働かざるもの食うべからず。皿洗いはやらせてもらおう。 歩く度に、カチャカチャと食器が音を立てる。基本的に高そうな陶器の食器を使っているようだが、伊織のものだけプラスチック製なのは、あの怪力で割ってしまうからだろうか。 台所の電気を点けると、黒い小動物みたいな影が、飛び上がってシンクや冷蔵庫の下に姿を隠した。普通に町中でも見かけるそれが何なのかは知らないが、それにこちらが気付いているフリをしなければ、向こうから何かしてくることもない。「っし、始めるか」 シンクに水を少し溜めて、そこに使い終わった食器を投入していった。さっと水で濯いだあとは、あのヘチマのスポンジの出番だ。「これ、店主に言えばくれんのかな」 洗剤がなくても大体の汚れが落ちるというのは有り難いもので、慣れてしまえば百均そこらのスポンジよりずっと優秀だ。 俺は皿洗いが嫌いじゃない。汚れたものが綺麗になるのは、何だか嬉しくて気分が良い。 先に食べ終わった俺や凛寧の分を洗い終わり、シンクを掃除しながら追加が来るのを待っていると、姿を現したのはなんと隠神だった。 数人分の食器をお盆に乗せて、台所に降り立った隠神は、流れるように俺の隣に並んで立った。 ……今日の皿洗い担当、アンタかよ。「何、俺じゃ不服?」「いや別に……」 隠神はつんとした顔で俺の方を見ずに聞く。 人に不服か、と尋ねるのなら少なくとも多少の不機嫌さは隠すべきだろ。何でこいつはこんなに俺に突っかかるんだ。また泣くぞ、クソが。いや泣かないけど。「俺は人間が嫌いなんだ」 俺の心を読んだ故なのか、唐突に、謎のカミングアウトをかましてきた。……てことは、俺自身がどうこうってわけじゃないのか。「……何で人間が嫌いなんだ?」「人間は卑怯だからね。本能で存在するアヤカシとは違って、しっかり熟慮した上で残虐非道なことをすることができる。気色悪いったらありゃしない」 ああ、なるほど。そういう意味か。途端に脳内に溢れる様々な記憶に、俺自身が呆れてしまうくらいだ。
臨時下校が行われてから、およそ六時間後、俺は桐ヶ谷神社の鳥居の前に居た。 理由は至極単純で、奇縁堂に行こうとトークアプリで晴己から誘いがあったからだ。ついでに伊織に返す服を持って、俺はひと足先に神社の前で待っていた。「悪い、待たせた」 鳥居の奥の長い階段を、安定した足音が一段飛ばしで駆け降りてくる。ガサガサと紙袋が揺れる音が目立って、そんなに揺らして大丈夫なのかと訝しむ。 半袖Tシャツに学校の長ジャージという出立ちで現れた晴己は、雨が降る日暮れ後の寒暖差など物ともしないらしい。 短い袖から伸びる筋肉質な腕が別に羨ましいとは思わないが、俺ももう少し筋トレをした方が良いだろうか。自分の日に焼けていない細い腕を揉んでいるのを見られて、お前じゃ無理だよと断言してきたのが無性に腹が立つ。隣に立った晴己の横腹を少し強めに殴ったが、なんかもう板みたいだった。「奇縁堂って行ったことないんだよな。どこ?」「知らねー。いつの間にか着いてる」「はあ、何だそれ? あー、でも爺ちゃんが似たようなこと言ってたような……。ま、いいか」 何か勝手に納得している。ならまあ、いいか。「親に学校からメールが来てたらしい。けど詳しいことはよく分からないって」「俺にも来たぞ。明日、保護者説明会だって」 俺は保護者が居ないから、こういう案内は直接俺に来る。ただ一応施設の職員にも送ったようで、ここへ来る直前に竜にいから心配する電話が来ていた。『成海、ええから何かあったらすぐに顔見せにきいや。皆も会いたがっとるし、ツツジも綺麗に咲いとるし、な?』 心配の色を隠しもしない、優しい声音。それが有難いと思う一方で、俺はまだまだ誰かに迷惑をかける未熟な存在だと思い知らされる。「飛び降りたのは三年C組の畑本愛理って女子らしい。直前の授業でも、特におかしな様子はなかったってクラスメイトの証言有りだ」「三年生か……学年が違うと調べにくいな……」「その辺は生徒会で探ってみる。会長のクラスメイトらしいから」 生徒会長といえば、黒く長い髪が特徴的な、いかにも優等生ですと言わんばかりの姿が思い浮かぶ。受験の準備やら何やらで大変だろうに、こんな事件に巻き込まれて御愁傷様だ。「……お前、あれが事故だと思うか?」 晴己に尋ねる。「思わない。あれは絶対『アイツ』の仕業だ」 思ったよりはっきりと否
昼休憩に突入するなり、晴己は「弁当」とだけ呟くと、俺を連れてものすごい勢いで屋上へと移動した。 四限目なんかもう、ずっと前の席から腹の虫が鳴り止まなくて、こっちは笑いを抑えるのに苦労させられた。「うっま……」 そして今、目の前で噛み締めるように卵焼きを味わっている。恍惚と言っても差し支えのない顔かもしれない。かなりだらしがない。「そうかよ。雪子さんに謝れ」「母さんの飯は家で食うから良いんだよ。てか、話したら母さんも羨ましがってた」「何でだよ……」 雪子さん、とは晴己の言う通り、こいつの母親だ。いつも優しい笑みの絶えない、少しのんびりとした雰囲気の人で、俺も何度も世話になっているから頭が上がらない。「そっちの弁当はどうするんだよ」 俺が指差したのは、雪子さん作の大きい弁当だ。「これは部活前に食う。いつも購買のパンだからな。それが弁当にアップグレード、最高」 どんだけ食うんだよ、この食欲大魔神め。それだけ食って全く太らないあたり、本当に全て消費されているんだろうけど。「母さんも成海に会いたがってた。またうちに来いよ。あんな変な連中ばっかつるんでないで」「そのうちな。バイトで忙しいんだよ」 実際、今日だって放課後はバイトだ。ちなみにバイト先は商店街のスーパーの裏方と、夕刊配達を週五で掛け持ちしている。大変と言えば大変だが、夕刊配達は給料が良いし、スーパーの裏方はたまに廃棄食材が貰えるから助かっている。「弁当作ってやるのは、まあ良いんだけどさ。食費とか色々払えよ、お前」「でもそれ、俺のバイト代だし。店主に貰えよ」「……確かに」 言われてみればそうだ。何で俺がこいつの食費まで負担しなきゃならねーんだ。伊織に服を返さなきゃならないし、今度会ったらまとめて請求しよう。じゃないと厳しい、マジで。「ごちそーさまでした! サンキュー、ホントに美味かった」「お粗末さん。そりゃ何よりだよ」 米粒ひとつ、食べかすひとつ残っていない弁当箱を見て、俺も悪態を吐く毒気を抜かれた。 奇縁堂の人々といい、こいつといい、気持ちよく食べる奴らが多すぎる。だから嫌いになれないし、突き放せない。そう思う俺も、大概甘い。まあ目下の悩みはいつだって生活費と、どうやったら普通の暮らしが送れるかどうか、それだけの話だ。「そろそろ戻ろうぜ。雨降りそうだし」「だな。五限
炊飯器が無機質な電子音を鳴らした。蓋を開けると、ふわっと米の良い匂いと共に舞い上がった水蒸気が、顔にほのかな水滴を残した。 何を言うでもなく、濡らしたしゃもじで軽くかき混ぜて、フライパンに意識を戻すべく再び蓋を閉じた。 炊飯器の良いところは途中で炊き具合を確認しなくて良いことだ。でも、便利である一方で楽しみがない。 土鍋を使うまではわからなかった感覚に、俺は成長を実感すると同時に物足りなさを感じた。「………」 朝六時三〇分、ただいま絶賛、弁当を作成中だ。 本日の弁当メニューは、卵焼きとアスパラガスのベーコン炒め。そこに昨日の夕飯の残りのもやし炒めと豚の生姜焼きを追加。そして仕上げにプチトマトを添える。 おにぎりを四つ作ったところで、何で俺が米まで準備しないといけないんだと気付いた。明日から、それくらいは自分で用意してもらおう。 その片手間で自分の朝ごはんを作る。何となく、おにぎりを作った。「……いただきます」 静かな朝飯だった。テレビを点けると、いつものニュース番組が始まっていた。合間に挟まる天気予報によると、午後から夕方にかけて雨が降るそうだ。バイトの時間には止んでいたら嬉しいが、望み薄だろうなと思った。 食べ終えたら食器を洗って、歯を磨く。制服に着替えて準備を終えたら、学校へ行く。 今日も一日、何でもない日が始まる。「行ってらっしゃい、小鳥遊君」「……っす。行ってきます」 一昨日の店主を連れていた件で、顔を合わせるのが微妙に気まずい。そう思っているのは俺だけなのか、片寄さんはいつもの穏やかな笑みを浮かべて手を振っている。 もし奇縁堂に引っ越しをしてこのアパートを出るとしたら、この道はきっと通ることはなくなる。そうなると、片寄さんに会う機会はどのくらい減るのだろう。 それは少し、寂しい気がした。 商店街に続く通りを曲がらずに真っ直ぐに進むと、小さな郵便局のある交差点に出る。信号のないそこには、電柱の陰から右手のない男の子が覗いている。 そこを渡って少し歩くと、川沿いの道へと続く。川の中には、流れを無視してうつ伏せに浮かんでいる人の姿が視える。遊歩道には入らず、そのまま堤防沿いの細い道路を歩くと、住宅街へ。いつも俺を後ろから追い抜かすように足早に歩くサラリーマンは、一定の距離を歩くと急に引き返して戻って行く。 小さな駄菓子
「行ってきまーす」 からり、玄関がひとりでに開いた。あれから店主と凛寧が身支度するのを待って、俺は奇縁堂を後にした。「行ってきます」 昨日みたいに目の前で戸が閉められたら困る。だから俺はいっそ堂々とその決まり文句を口にして、玄関を通ることに成功した。「……んだよ」「べっつに〜?」 店主がなにやらニヤニヤとこちらを見てくるが、目の前でまた閉められる方が恥ずかしい。「店主、そういうの子供みたいだしやめなよ」「……見てるこっちが恥ずかしい」「何だよ、二人とも嬉しくないのかよ〜」「そりゃ嬉しいけど」 伊織の言葉に凛寧も頷いている。……何だこれ、共感性羞恥? いや違うか、公開処刑だ。 俺と店主は、俺の自宅のアパートへ。凛寧と伊織は、近所の商店街へ買い物へ。隠神も何やら依頼があるとか言って午後から出掛けるようだし、ムコは姿が見当たらなかった。「じゃあ、僕らはこっちだから。成海、またね」「……欲しがってた調味料、買っておく」「ああ、また」 去って行く二人に手を振って見送る。面倒ごとに巻き込まれるのはお断りだが、凛寧と伊織は別だ。この妙な関係を抜きにしても、自然とまた会いたいと思う。「よーし、じゃあ俺らも行くぞー」 ……こっちの謎の男は、まだそうは思えない。というか今すぐその和服を現代服に着替えてきてほしい。 伊織と凛寧はパッと見、髪や目の色に目を瞑れば普通の若者に見える。だが店主は明らかにコスプレだ。いや、実際似合ってはいるし、これ以上ないほど着こなしてはいるのだが。 その背には商品が入っているのだろう、大きな縦長の木箱を背負っている。かの有名な二宮金次郎の銅像みたいだ。だが俺の懸念に反して、意外と人目は集めていない。すれ違う人たちも特にこちらに関心を寄せる人はいないようだった。「何か怪しい術でも使ってんの?」「いんや、単純に見えてないだけだと思うぜ」「は? じゃあ俺ひとりで話してるだけじゃねーか。話しかけんなよ」「理不尽!」 危ない危ない。俺が変質者になるところだった。というか、やっぱりこいつは人間じゃないのか、と納得できてよかった。 見知った道まで出てくれば、あとは迷うことなく戻れる。この二日間があまりにも濃すぎて、何だかこの道も久しぶりに通るような気持ちだ。 しばらく歩くと、住んでいるアパートが見えてきた。アパートの入
翌朝、頬を小突くような感触に目を覚ました。押されているような感覚に近く、痛みは全くない。「ムーン、ムニムニ」「んん、ムコ……?」 心地良い布団の温もりから這い出て、欠伸をしながら、ぐっと身体を伸ばす。すっきりとした目覚めに、しっかりと休めたことがわかる。「今何時だ?」「ムムン!」「ふはっ、わかんねぇし」 ムコが自信満々に答えてくれたみたいだが、あいにく俺にはそれが聞き取れない。そばに置いていた携帯を引き寄せて画面をつけると、六時過ぎを示していた。 寝る寸前に頼んだモーニングコールはバッチリだったようだ。携帯のバッテリーは、残り九パーセントを知らせていた。「ありがとな、ムコ」 柔らかい頭を撫でると、ムコは嬉しそうに赤ちゃんみたいな声を出した。 俺は着崩れた浴衣を脱ごうとして、着替えが無いことに気が付いた。制服しかないが、流石に二日も洗っていないYシャツは着れない。 仕方なく俺は、浴衣を着直してそれで動くことにした。後で伊織が起きてきたら何か借りよう。 五月ともなれば、朝の冷え込みはほとんどない。白むような柔らかな光が廊下を包んでいて、俺が歩く度に、ほとんど音のない清涼な空間に床が軋む小さな音が響く。 その静けさにまだ誰も起きていないようだったから、俺は慎重に足音をなるべく立てないように階段を降りた。 その足で向かうのは台所だ。その理由はもちろん、朝飯を作るために。「……さて、まずは米を炊くか」 やり方は凛寧と復習して、もうバッチリだ。 まずは鍋に水を入れて、沸騰させるべくコンロに設置。それを待っている間に、ボウルに米と水を入れて研ぎ始めた。研ぎ終わったら、昨日と同じように湯で浸水させる。 沸かしていた鍋がシュワシュワと音を立て始め、俺は一度その火を止めた。鍋に蓋をして湯が冷めないようにしてから、勝手口から外へ出た。 外に出てすぐのところに、簡素な家庭菜園が広がっていた。これが凛寧の畑か。植えてあるのはきゅうりと小松菜、それ以外にも若葉がいくつか。 俺も施設にいた頃、育てたことがある。建物の裏に小さな畑があって、そこで毎日当番制で水遣りをするのだ。 俺は少し考えた後に、小松菜を数束だけ拝借した。凛寧も本当はもう少し大きくなるまで待ってから収穫したかっただろうが、そこは申し訳ない。また植える時は誠心誠意手伝おうと誓った。