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弐、情けは人の為ならず

作者: Mirai
last update publish date: 2026-07-29 17:22:36

 信じがたい現実が目の前にある時、一般的に、人はどんな振る舞いをするのだろうか。

 俺はというと、使い古されたちゃぶ台に置かれた渋い色の湯呑みを眺めている真っ最中だ。

「文福茶釜直伝の茶だぜ。美味いからゆっくり味わえよ〜」

 和服の男は俺と向かい合うように自分用の湯呑みもちゃぶ台に置いて、少しよれた紫色の座布団の上にどかりと座った。文福茶釜って、何だっけ。

 あの後どうなったかというと、俺は誘われるがままにこの民家へ上げられ、こうして茶を振る舞われている。

 いや、俺だってすぐに帰ろうとした。こんな怪しいヤツに関わると碌なことはないって、誰かに指摘されなくたって分かることだ。

『でもまだ徘徊してるかもよ、さっきの』

 ところがそう言われてしまえば、逃げ出そうとしていた俺の足はぴたりと止まった。

「どした、ジュースが良かった?」

「……いただきます」

 別に飲み物に悩んでいたわけじゃないが、世話になった以上、このまま黙っていても失礼だろう。

 俺は慎重に湯気の立つ湯呑みを手に取って、少し息を吹きかけ冷ました後に口をつけた。

 ふわり、香ばしい茶葉の香りが鼻をくすぐり、滑らかな舌触りがほんのりと苦みを伴って舌の上を流れて落ちる。かと思えばお茶本来の甘味が、舌に残る苦味を和らげるように広がった。

「美味い……」

「だろ〜?」

 男は満足げに笑うと、湯呑みを口元に運ぶなりごくりと一口飲み込んだ。

 熱くないんだろうかと思った矢先、「あちぃっ!」と悲鳴が上がった。もしかして馬鹿なんだろうか。

「本当は茶菓子の一つでも出してやりたかったんだけど、生憎切らしてるんだ。今買いに行ってると思うから、食べたきゃもう少し待ってくれ」

「いや、別にいらないですけど……」

「遠慮するなって!」

「遠慮しているわけじゃなくて……。ていうか、そろそろ名前を教えてもらっても良いですか? ウチで働けってさっき言ってましたけど、どういう意味ですか? 俺を襲ってきたあの化け物は一体なんだったんですか? それともう帰って良いですか?」

「待て待て待て」

 矢継ぎ早に質問すると、男は慌てて手を振りながら湯呑みを置いた。茶は確かに美味いが、こんな怪しいヤツをそう易々と信じるもんか。

 男は湯呑を置いて、胡坐を組み直した。

「まず自己紹介からしよう。俺はこの『奇縁堂』の店主だ。ちなみに名乗れるような名前はない。だから気軽に店主って呼んでくれ」

 ——怪しい。名乗れる名前がないなんて、どう考えても怪しい。

「そんな目をするなよー。本当なんだから仕方ないだろー」

 俺の隠しもしない怪訝な顔に、自称『店主』は口を尖らせる。薄紅色の眼からして怪しい。

 店主は俺のそんな懸念など気にも留めないかのように、白色の扇子をひらひらと仰ぎながら一人で会話を続けている。

「ここは俺の店でさ、骨董品とか色々コレクションしたやつを売ってるんだ。だから道具屋。従業員はあと三人いるから、お前の先輩だな。仕事については教えてもらってくれ」

「いや、働くなんてOKしてませんし」

「心配しなくても伊織はお前と歳が近いし、気のいいヤツだからすぐ仲良くなれるよ」

「聞いてねぇチクショウ」

 どうしよう、帰りたい。変なヤツに捕まっちまった感が凄い。

 そもそも、俺には一つの懸念がある。それは目の前にいる『店主』を名乗るこの男が、まず人間かどうかという謎だ。

 大前提として、俺は幽霊が視える。道行く人に挨拶をされて返したら人間じゃなかった、ということもたまにあるくらいには、区別がつかないほど視える。

 だから、なのかは分からない。

 見た目は派手な羽織を着た風変わりな様が拍車を掛けているのか、どうにもきな臭い。確かに助けてもらったのは事実だ。けれど、その悠々とした佇まいには、派手な羽織以上に『得体の知れなさ』があった。

 こうなれば意地でも名乗るまいと意思を固くしたところで、離れたところからりん、りんとあの鈴の音が聴こえた。

「ただいま戻りましたー」

「……ただいま」

 若い男と、女の子の声だ。

 店主は「お帰りィ」と張った声を玄関まで届けている。

「伊織ィ、凛寧ェ! 居間に来てくれ!」

 俺は慌てて背筋を正した。働くなんて了承は一つもしていないが、お邪魔をしている家の住人には敬意を払うべきだ。少なくともこんな人の話を聞かない怪しいヤツよりは。

「どうしたの、店主。また変な骨董品でも……」

 呆れたような口調で居間の戸が開かれ、姿を現した人物を見て、俺は思わず目を見開いた。

 まず目に飛び込んだのは、真っ白の髪。

 それから真っ赤な目。

 どう見たって、明らかに『普通』ではない。だが、その目は冷たささえ感じるはずの瞳を驚きに丸くさせ、パチパチと瞬いた。

「あれ、お客様が来てたんだ。こんにちは。ハイこれ、頼まれてたお茶菓子だよ」

「サンキュー。でも客じゃねーんだ。ウチで新しく雇うことになった従業員だよ。伊織、お前の後輩ってワケ」

「えっ、本当⁉︎」

 伊織と呼ばれた白髪赤目の男が、俺の方を勢い良く向いて駆け寄る。

「うわあ、僕の後輩なんだ! 僕は八坂伊織と言います。よろしくね、えーっと……」

「た、小鳥遊——」

 名乗られたのなら、名乗り返さねばならない。勢いに気圧されながらも、俺が名乗ろうと口を開いた、その直後。

「小鳥遊成海、だろ」

「……は?」

 俺の名前を、俺より先に口にしたのは、店主だ。

 いや、待て、何で知ってる。

「……テメェ、本当に何モンだよ。教えてないのに、何で俺の名前を知ってるんだ」

 いよいよ警戒心もマックスになった。敬語なんてクソ喰らえだ、この不審者め。

 しかし店主は俺の睨みなど意にも介さないような、それでいて何故か穏やかな顔で笑っている。

「知ってるよ、ずう〜っと昔から。お前の名前は小鳥遊成海。だからお前はウチで雇うんだ」

「はあ〜?」

「まあまあ、そう怒んないでよ。少なくとも俺達は、お前の敵じゃないからさ」

「……意味がわからねぇ」

 ……腹が立つ、のに、何だかこれ以上怒れない。

 どうしてそんな優しい顔で笑うのか、その理由が分からない。

 言い返す気力を無くした俺と、ニコニコ笑う店主、その間に挟まれた伊織は、俺と店主を交互に見て首を傾げた。

「さて、そろそろ夕餉の支度の頃合いだ。成海もどうせなら食って行けよ。……あれ、ところで凛寧は?」

「凛ちゃんならもう台所に行ってる。俺も手伝ってくるよ。成海くん、ゆっくりしていってね」

 伊織は爽やかに手を振って居間から去った。

 残された俺はと言うと、どう帰るかの言い訳を冷静に考え始めていた。一度冷静さを取り戻すと、一気に現実問題が押し寄せてきて、余計に頭が痛くなりそうだった。

 まず、学生鞄がない問題。今になって気づいたが、今ここに、学校を出た時には持っていたはずの学生鞄がない。

 逃げ回っている最中にどこかに放り投げてしまったのか。中にしまっていた携帯電話や教材、洗っていない弁当箱までも。これがまず最初の大問題。

 そして次に、学校やバイト先に何と事情説明するか問題だ。

 俺はきちんと許可を得てバイトをしている。いつ、どこで、どんなバイトをしているか、その全てを申告した上で行なっている以上、万が一ここで働くとしてもその説明をしないといけない。こんな怪しい店主の元で、何の仕事かわからないような内容を、一体全体どう説明したらいいものか。

「見て見て成海。これな、最近見つけたヤツ」

 そう言って馴れ馴れしく店主が見せてきたのは、シンプルかつ少し汚れた天秤だ。

 小学生の時に理科の授業で使ったような物より一回り小さいように見える。しかし造りはしっかりしているようだ。

「何だよ、それ」

 店主はそれをちゃぶ台の上に置くと、片方の皿に閉じた扇子を置いた。当然、下に傾く。すると今度は飲み干して空になった湯呑みをもう片方に置いた。当然、湯呑みを置いた皿が下に傾く。

 ……そう思っていた。

「あれ……?」

 傾いたのは、扇子の方だった。

「な、面白いだろ。ちなみに扇子は普通に木製だし、軽くて使いやすいヤツだよ」

 持ってみろ、と言われて恐る恐る扇子を手に取る。お香のような柔らかい香りがするそれは、確かに軽い。羽織の眩しさとは正反対のかなり古びた扇子。

 長い間使い込まれたかのように黒ずんだ竹の骨に、何度も手で触れられてきたせいだろう、端が擦り切れて柔らかな象牙色に変色した和紙が貼られている。良く言えば使い込まれている。悪く言えばボロい、そんな代物だ。

 しかしもう一度それを皿に置くと、天秤は湯呑みよりも重たいと示すのだ。俺は自分の中の常識も傾いたことを自覚した。

「これ、何を測ってるんだ?」

「え、知らない」

「知らねーのかよ!」

「多分、どれだけ使われてきたかっていう年月じゃないかなーとは思ってるんだけどな。この湯呑みは二年くらいで、扇子はそれよりずっと長い」

 成程、と納得はした。

 したが、だから何だと言いたい気持ちをグッと堪える。勝ち負けなんてないが、何となくこの男のペースに乗せられているのが悔しい。

「成海、なんか二年以上使っていて、湯呑みよりも軽そうな物って持ってる? ……というか鞄は?」

 今頃気付きやがった。制服姿で鞄を持ってないことに最初から気付けよ。

「多分、どこかに落としたんだ。探しに行きたいんだけど」

「後でウチの従業員に探させよう。そういうの得意なヤツがいるんだ」

「いや、流石に申し訳ないし……そろそろ帰りたいし……」

「気にするなって! あと今夜は泊まっていけ。外にはあのこわ〜い化け物がいるしな。お前、もう目ェ付けられてるから。家に帰っても上がり込まれたらお終いだぞ」

「……マジで?」

 何かめちゃくちゃ聞き捨てならない怖いことを言われた。俺もうもしかして、もうこの家から出られない?

 家で寝ている時にあいつがやって来て、他に誰もいない状況で襲われる——想像して、思わず身震いした。

 あの首に巻き付いた髪の毛を思い出して、ガリッと首を掻いた。

「……。心配するな、万事何とかなるもんだ。とりあえず飯食って親睦を深めようぜ!」

「不安しかない……」

 項垂れる俺を見て、店主はからからと笑いながら天秤を棚へしまった。

 ふと、美味しそうな良い匂いが漂ってきて、俺はすん、と鼻を吸った。醤油の香ばしさに砂糖を加えたような甘い匂いに、じゃがいもや玉ねぎを煮込んだ時の香りが混ざっている。

「……肉じゃが、か?」

「お、正解。夕飯は伊織のリクエストで肉じゃがにするって言ってたぜ」

 それを聞くと居ても立っても居られなくなるのが、俺の悪い癖だ。だが今は客人の身。我慢だ、我慢……。

 そう、何を隠そう俺は料理が好きだ。弁当だって自分で作るほどで、これは自慢だが家庭科の先生すら手作り料理で唸らせたことがある。

「もしかして成海、料理いける口?」

「まあな、人並みにだけど」

「おお、それなら凛寧に教えてやってくれよ。頑張って作ってくれるんだけど、料理を教えられるヤツがここには居ないんだ。油料理とか危なっかしくてさ」

「……そういうことなら、いいけど。でも働くのはまだ決定じゃないからな」

「何で?」

「何でも!」

 働く云々は、今はどうやったって決められない。

 解決しがたい現実問題が山積みだが、それを人間かどうかも怪しいこの男に言っても無駄だろう。まだ、伊織という青年の方が話は通じそうだ。

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最新章節

  • 徒然奇縁堂日和   弍-②

    それからしばらくして、出来上がった料理が居間に運ばれて来た。 「お待たせ〜。今夜は肉じゃがだよ」 伊織が四人分の皿に盛り付けた肉じゃがをちゃぶ台に置くと、途端に牛肉の良い香りが俺の鼻を伝って胃袋を刺激した。美味そうだ。 ふと、肉じゃがに釘付けになっていると、背後から視線を感じた。振り向くと、伊織の後ろにいたもう一人の姿が目に入る。 「……こんばんは」 「こ、こんばんは……」 その視線の主は、小さな女の子だった。ミルクティーのような色のショートカットの髪の毛に、こちらをジッと見つめる黄緑色の眼。 その表情にははっきりとした警戒心が宿っているのが分かって、俺は慌てて背筋を正した。 「凛寧、新しい従業員の成海。仲良くするんだぞ」 「だからまだ働くって決めたわけじゃ……小鳥遊成海です」 頭を下げると、向こうも少しだけ下げてくれた。 彼女が、凛寧……さん? ちゃん? 呼び名はともかく、この家の台所担当をこんな小さな女の子がしているなんて思いもしなかった。見たところ、小学生高学年から中学生くらいだろう。 「……凛寧でいい」 「ど、どうも」 口にしたわけではなかったが、呼び名で悩んでいるのがバレていたようだ。凛寧は店主と伊織の間に座った。 「じゃ、食べようぜ。いただきまーす!」 店主の元気の良い挨拶と共に、各々も口にしてから食べ始めた。 「いただきます」 俺も食材と作ってくれた人への感謝を込めて、しっかりと手を合わせた。 まずは茶碗に盛られた白米を一口。少し芯が残っていて硬いが、風味が良い。明らかに炊飯器では出せない香ばしさ。土鍋で炊いたのだろうか。いつも家だと炊飯器だから、いつか土鍋にもチャレンジしたいところだと思っていた。 味噌汁も一口飲む。具はわかめだけとシンプルな味噌汁だが、その分余計なものに惑わされずしっかりと味を感じることができる。 そして、ついにメインの肉じゃがに手を伸ばす。香りを嗅ぐと、若干の生臭さと青臭さを感じた。おそらく糸こんにゃくとじゃがいもの下処理が甘かったのだろう。だが、このくらい全く問題にはならない。大きく口を開けて、じゃがいもを頬張った。 「……うん、美味い」 形がしっかりとしているが、火は満遍なく通っていて美味しい。おつゆの甘みが個人的にはもう少しあって

  • 徒然奇縁堂日和   弐、情けは人の為ならず

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  • 徒然奇縁堂日和   壱、袖振り合うも他生の縁

     仄かに花の香りがした。 それが、店先に咲いた桜の香りだと気付いた時、胸の奥で寂しさにも似た静寂を感じて、深く息を吸った。「さ、店開きしようか」 背後で暖簾をかける音がした。何度も耳にしたその音が、不思議と真新しく聴こえる。 振り返ったその景色は、ほとんど変わりはしないのに。「買い物に行かなきゃ」「俺も行くよ。買わなきゃいけない物ってあったっけ」 見慣れた後ろ姿たちが、暖簾をくぐっていく。もう一度背後を振り返るが、探した姿はもう見えない。 春の温もりを纏った風が頬を撫でた。俺はそっと目を閉じて、店に入ろうと踵を返した。 その時、玄関の前で大人しく座っていた白い犬が鳴いた。 「わん!」 後ろ姿を見送った方角の反対側に体を向けて、ふさふさな尾を千切れんばかりに振っている。 「あ、あのう。ごめんください」 白い着物を着た女性だ。細長い指を胸の前でもじもじと絡ませて、俯きがちにこちらを見ている。 きちっと整えられた着物の裾から覗く青白い足は、地面に触れる寸前で淡く霞み、その輪郭は曖昧だった。 女性は恥ずかしさを滲ませた小さな声で、懸命に言葉を紡いだ。 「ええっと……困り事があったらここへ行きなさいって教えてもらって……」「ああ、なるほど」 脳裏に、聞き慣れた声が蘇る。 日は移ろい、同じ時は二度と存在しない。その刹那の出会い、それすなわち奇縁——あの人の口癖が、いつの日か自分の口癖になっていくのだろうか。 合縁、奇縁、袖振り合うも他生の縁。 果たして、この縁がいったい何を結ぶのか。「いらっしゃいませ。まずは一服、それから話を伺いましょう。ようこそ、奇縁堂へ」 りん、りん、と鈴が鳴る。軽やかなその音は、まるで来客を歓迎しているかのようだ。 この音を聴く度に思い出す。 二年前の春。桜も散った終わり頃の、今も色褪せない記憶を。とんだ不運と気の迷いから始まったと思っていた、運命という言葉にするにはドラマチックすぎる摩訶不思議な縁を。 あの日も、鈴が鳴っていた。———— 走りながら、考えた。いわゆる『普通』とは一体何なのかを。 階段を駆け降りながら、考えた。こんなにも走らなければならない理由を。「誰か……っ!」 小鳥遊成海は、荒れた呼吸の合間に喘ぐように叫んだ。「助けてくれー!」 道端にいた鴉が三羽、驚いた様子

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