「高瀬さん、高瀬結花ちゃん」
娘の名前が呼ばれ、柚が診察室に足を踏み入れた瞬間、世界が冷たい風に打たれたかのように凍りついた──7年前、自分を裏切ったあの男が、そこに座っている。白衣を身にまとい、医師として冷静に。 心臓が激しく跳ね、柚は立ちすくんで目を疑った。あの見覚えのあるようで見覚えのない顔──かつて全てを捧げても惜しくなかった相手が、今、目の前に冷静な医師として現れている。 胸を重いハンマーで打たれたかのような痛み。目の前の光景に体が震え、思考は瞬く間に混乱した――怒り、憎しみ、胸の痛みがほぼ同時に押し寄せてくる。 *** この日、6歳になったばかりの娘、結花の検診の日だった。結花には生まれつき心臓に疾患があり、定期的な検診が欠かせない。 「高瀬さん、すみません。本日から担当医がこちらの藤原先生に変更となりました」 急な担当医変更の説明を看護婦から受けるが、柚の耳には入ってこない。 新しくなった担当医を一目見た瞬間、奏だと気が付いた。 まさか、こんな場で再開するとは思っていなかった柚は、茫然としながら緊張と焦りでその場に立ち竦む事しか出来ない。 高校の時より大人びて色気が増しているが、生まれ持った雰囲気や整った目鼻立ちはそう変われるものじゃない。 「小児科医の藤原です。これから一緒に頑張っていきましょう」 一方の奏の方は、目の前いるのが自分の娘である事も、遥乃(柚)だという事にも気付かない。 それもそのはず、今の柚は名前も変わっている上、かつての太った少女ではない。 今の彼女は背が高くほっそりとして、肌は透けるほど白く、低い位置で束ねたポニーテールが肩に垂れている。マスクで顔の大半を覆いながら、垂れた涼やかな目で奏を淡く避けている。 「結花ちゃんですが、あまり数値がよくありません」 重々しい口調でカルテに目を向け、半年以内に手術を受ける必要があると告げた。 「そんな……」 このままでは命に関わると言われたが、手術だって簡単なものじゃない。手術中に容態が変わるとも言いきれないし、仮に上手くいったとしても副作用や合併症だって無いとは言いきれない。 柚が不安に思い、言葉を失っていると「大丈夫ですよ」優しい声が聞こえた。 「医療は日々進歩しています。執刀医も一人じゃありませんし、何より不安なのはお母さん一人じゃありません。一番不安なのは、結花ちゃん自身です。だからこそ、お母さんが勇気づけ、支えてあげてください」 ハッとした。 奏の言う通りだ。一番不安なのは結花自身であって、母親である私が弱気では駄目だ。 「我々も全力を尽くします。その為にはお母さんも力を貸してください」 力強い言葉に勇気を貰った。 「宜しく、お願いします」 深く頭を下げると、奏は微笑みながら頷いた。ふと、その手元に視線をやると、黒い万年筆が目に飛び込んできた。 それは7年前、柚が卒業の際に心を込めて贈る予定だったプレゼント。 あの時、彼女はこの万年筆を握りしめ、パーティー会場の扉前で彼が友人に言うのを聞いた。 「遥乃?遊んでいただけだよ」 万年筆は扉の前に落ち、彼女は振り返らず走り去った。 (その万年筆がなんで……?) 問いたい気持ちはあるが、今の紬はただ黙って目を伏せながら、ドキドキと高鳴る鼓動を抑えていた。 奏は柚の様子に気付くこともなく、淡々とした態度で診察を終えた。 診察が終わると、彼女はまるで逃げるように、子どもを連れて病院を後にした。 *** トゥルルル…… 結花の診察を終え一息ついていると、奏の元に旧友から着信があった。 「はい」 「おっ、出た出た」 出てみると、軽快な声が聞こえてきた。 「なんだ?今仕事中なんだけど」 「悪い悪い。あのさ、週末に同窓会やるんだけど、お前も来いよ」 「同窓会?」 今まで何回か同窓会の誘いは来ていたが、週末とは随分と急な事。 ここでは「仕事や実習のため」とだけ書くのではなく、彼女が去ったことによる彼への影響も強調すると良いでしょう。 彼女が何も告げずに去って以来、彼もあの街を離れた。この何年もの間、同窓会の誘いはすべて仕事を理由に断ってきたが、本当に参加できなかった理由は、恐らく彼自身にしか分からない。 意外なことに、本来なら地方の最良の病院でより良いキャリアを築くこともできたのに、昨年、彼は故郷のこの街に戻る道を選んだ。自分でも気づかぬうちに、心の奥底ではかすかで執着めいた待ち続ける気持ちがあった。──かつて自分の世界を去ったあの人が、いつか再び現れるのではないかと。 これまでは医者になる為の修学や習得に忙しく断っていた。医者になってからも、仕事が忙しく足を運べたことがない。 今はようやく基盤が出来、時間にも余裕が出来てきた。おあつらえ向きに週末は休みだ。 たまには行ってもいいかもな。そう思った奏の脳裏に浮かんだのは一人の女性の姿。 「──……朝倉は……遥乃は来るのか?」 奏が訊ねると、電話の向こうは急に静まり返ってしまった。2秒の沈黙の後「お前知らないのか?」落ち着いた声が聞こえた。 「彼女、卒業した年に死んだんだ」 淡々とした口調に、奏は耳を疑った。柚は高校時代に撮った奏との写真を捨てられずに持っている。その写真を結花に見られてしまったことがあった。 子供ながらに写真に写っているのが父だと直感したのだろう。何度も「パパは何処にいるの?」と聞かれた。その度に「パパはね、結花の生まれる前に亡くなってしまったの」と伝えてきた。 それが、今回奏と出会ってしまったことで、写真の人物と同一人物だと気付かれてしまった。 柚は焦る素振りを見せず、極めて冷静に結花と向き合った。 「あのね、結花のパパはもうこの世にはいないのよ。残念だけど、あの先生は結花のパパじゃない」 しっかりと目を見つめながら言い聞かせるように伝えると、結花は黙って頷いた。 悲しい顔で俯く娘の姿を見る度に心が痛む。素直に聞き入れてくれるから尚更だ…… だが、今はそんな事を言っている場合では無い。これから急ぎの会議があるので、会社へと急がなければならない。結花を送って行く時間もなく、このまま会社へ連れて行くしかなかった。 「あっ!」 会社のロビーで結花が声を上げたかと思えば、顔を輝かせて走り出した。その視線の先には、柚の上司である神谷煌がいた。 煌は飛びつく結花を受け止めると、嬉しそうに抱き上げた。 「お転婆娘!重くなったな!」 「もう6歳だもん!」 傍から見れば仲の良い親子のような光景に、周りの目も暖かい。 上司である煌は柚の命の恩人でもある。 7年前、煌は仕事の都合で訪れていた国で、道端に倒れている柚を見つけ病院へと運んだ。すぐに処置をされ大事には至らなかったが、身寄りのない
奏は呆然としたまま、スマホが手から滑り落ちた。 (死んだ……?遥乃が……?) 何度も混乱する頭で理解しようとするが、理解も納得も出来ない。 「おい、奏!?大丈夫か!?おい!もしもーし!」 その場には、スピーカーから流れる心配する声だけが響き渡っていた。 *** 同じ頃、柚もまた電話を取っていた。 相手は、柚の親友である新井瑞希。遥乃(柚)と奏、二人の過去を知る唯一の人物。 「藤原が同窓会に出るって聞いたけど、一緒に行かない?」 「行かない」 考えるまでもなく、即答で答えた。 「遥乃…じゃない、今は柚だったわね。いつまでも過去に囚われてちゃ前に進めないわよ?大丈夫よ、絶対に気付かれないから」 そんな事は言われなくても分かってる。 「余計なお世話よ。なんて言われようと私は行かない。今病院だから切るわよ」 「あ、ちょっと待って!もし、気が変わったら連絡してよ!絶対よ!」 電話口で何やら言っていたが、気付かぬフリをして電話を切ってやった。 柚は待合室の椅子に腰掛けながら、ふぅと深く息を吐くと、遠い昔を思い出すように天を仰いだ。 7年前のあの日、奏の為に数ヶ月小遣いを貯めてあの万年筆を買った。 奏の喜ぶ顔を思い浮かべながら、卒業パーティーの会場まで走って行った。息を整え、扉を開けようとした時に聞こえた絶望とも言える言葉。
「高瀬さん、高瀬結花ちゃん」 娘の名前が呼ばれ、柚が診察室に足を踏み入れた瞬間、世界が冷たい風に打たれたかのように凍りついた──7年前、自分を裏切ったあの男が、そこに座っている。白衣を身にまとい、医師として冷静に。 心臓が激しく跳ね、柚は立ちすくんで目を疑った。あの見覚えのあるようで見覚えのない顔──かつて全てを捧げても惜しくなかった相手が、今、目の前に冷静な医師として現れている。 胸を重いハンマーで打たれたかのような痛み。目の前の光景に体が震え、思考は瞬く間に混乱した――怒り、憎しみ、胸の痛みがほぼ同時に押し寄せてくる。 *** この日、6歳になったばかりの娘、結花の検診の日だった。結花には生まれつき心臓に疾患があり、定期的な検診が欠かせない。 「高瀬さん、すみません。本日から担当医がこちらの藤原先生に変更となりました」 急な担当医変更の説明を看護婦から受けるが、柚の耳には入ってこない。 新しくなった担当医を一目見た瞬間、奏だと気が付いた。 まさか、こんな場で再開するとは思っていなかった柚は、茫然としながら緊張と焦りでその場に立ち竦む事しか出来ない。 高校の時より大人びて色気が増しているが、生まれ持った雰囲気や整った目鼻立ちはそう変われるものじゃない。 「小児科医の藤原です。これから一緒に頑張っていきましょう」 一方の奏の方は、目の前いるのが自分の娘である事も、遥乃(柚)だという事にも気付かない。 それもそのはず、今の柚は名前も変わっている上、かつての太った少女ではない。 今の彼女は背が高くほっそりとし
幸せなんてものはこの世にはない。あるのは残酷な現実だけ。それを知ったのは高校の卒業パーティだった──…… *** 朝倉遥乃には、付き合いたての彼がいた。その人の名は、藤原奏。 目鼻立ちの整った顔に豪門の御曹司。更には学力、運動共に学年トップで文武両道。まさに御伽噺の絵本から飛び出した王子様のような人。 それに比べ遥乃は、ふくよかな体系でお世辞にもお似合いというカップルではなかった。遥乃自身もそれは重々承知している。 それでも自分の気持ちに嘘は付けず、ことある事に奏に自分の存在をアピールし、如何に奏のことを想っているかを伝え続けた。 最初の内は冷たくあしらっていた奏も、日が経つにつれ笑顔を浮かべるようになっていた。 その結果── 「いいよ」 何度目かの告白で想いが届き、付き合う事が出来た。 周りからは批判や嫉妬、嫌がらせなどもあったが、交際は順調だった。奏が傍に居て、笑いかけてくれる。そんな毎日が幸せだった。 そして18歳の誕生日、私は奏の家に呼ばれた。 「誕生日おめでとう」 「ありがとう」 手渡されたのは、小さな箱に入ったネックレス。ハートのモチーフに小さなアメジストがはめられている。 「貸して。付けてあげる」 「え」 奏の手が首に触れる度に心臓が飛び跳ねる。心臓の音が耳について煩い。 カチッ 金具の留まった音が聞こえ「出来たよ」そう耳元で囁かれた。