Masuk土蔵で姉に誓いを立てた、あの日から。 二度、桜が咲いて散った。 八つとなった今では、崩し字の海を痛みなく泳げるようになっている。 背丈も、伸びた。 この体はもう嬰児の頼りなさを脱していた。 だが屋敷を包む空気だけは、二年の歳月など何ほどのこともないとばかりに、あいも変わらず湿り淀んでいた。 * 春の盛りの卯月。 私は縁側に腰掛けながら古文書の読み解きに没頭していた。 ふと、背後の暗い廊下から微かな衣擦れが近づく。 「半兵衛。お手習い?」 鈴を転がすような涼やかな声。 振り返ると、盆に二人分の茶を乗せたササメが立っていた。 透き通るような白磁の肌。 濡羽色の長い髪。 しかし、私を慄かせたのはその造作の美しさではない。 すり足のように静かな歩み。 伏し目がちな視線の流し方。 盆を持つ指先の僅かな角度に至るまで。 それは、年端もいかぬ娘が自然に身につけるものでは断じてなかった。 夜の暗がりで身分高き貴人を『もてなす』ために徹底して叩き込まれた。歪んだ所作。 「姉上。また、茶を運んでくださったのか。自室で休んでおられればよいものを」 古文書から顔を上げ、努めて平らな声で言う。 ササメは慎ましく私の隣に座り、静かな手つきで茶器を置いた。 「ううん。私が淹れたかったの。半兵衛はいつも難しいお顔をしているから」 ふわり、と。姉の着物から場違いな匂いがこぼれる。 甘く粘る、都の貴人が好む高価な練香の残り香。 (……あの土蔵で見つけた出納の控え。鄙には不釣り合いな高価な香と、薬の買い入れ。そして月に幾度か、厳蔵が屋敷の裏門を開ける決まった刻の音) これまで集めたばらばらの欠片が、おぞましい『裏の顔』へと結びつく。 神官の家という看板の、その裏。 莫大な金と引き換えに、幕府の重鎮や公家たちを忍んで招き入れ『神聖なる巫女』をあてがう。 ――そういう、家だ。 盆を差し出すササメの手首に、淡い紫の痣が帯のように巻いているのを盗み見る。 以前の打ち身ではない。 紐のようなもので、長く強く縛りつけられた。鬱血の痕。 毎夜、篝火から受けて
静けさを破り、蔵の扉が軋みながら開いていく。 ハッとして、床に描いた図を足で素早く擦り消す。 日差しが細い帯となって差し込み、宙を舞う無数の埃を貫いた。 逆光の中に立っていたのは、私より少しだけ背の高い華奢な影。 「……半兵衛」 聞き慣れた鈴を転がすような声。 「姉、上……」 八つとなった姉は、村の者が一生かかっても買えぬほどの豪奢な絹を着せられていた。 だが、その裾は泥に汚れ、綺麗に結い上げられたはずの黒髪も、あちこちほつれている。 薄暗い蔵の奥、書物の山に埋もれるように座る私を見つけると――ふぅっ、と安堵したように息を吐き小走りに駆け寄る。 「やっと、見つけた。……こんなところに、いたのね」 「……なぜ、このようなところに。母上に見つかれば、また酷く叱られましょう」 「いいの。お母様、今はお客様と会ってらっしゃるから」 ササメは埃まみれの床も気にせず、隣にぺたんと座り込む。 そのとき。着物の袖が、ふわりと捲れ上がった。 ――青あざ。 一度や二度、叩かれた程度ではない。 黄ばんで治りかけた古いものから、まだ赤く腫れ上がったものまでが重なった打ち身の痕。 「姉上……それは」 「あ……」 ササメは慌てて袖を引き、両手を背に隠す。 そして、顔を引きつらせながら下手な笑みを浮かべた。 「へ、平気よ。これ、お稽古で……私が、ちょっと、しくじっちゃっただけだから」 「稽古。……神事の作法を学ぶだけで、どうして、そのような傷がつきますか」 「うん。……白繭様に捧げる、特別な刺繍をね、縫わなきゃいけないの。でも私、不器用だから、何度も針で指を刺しちゃって。……糸の色を間違えたり、縫い目が少しでも曲がったりすると、お母様が、竹尺で……」 その声は、最後には消え入るように震えていた。 選ばれた、子。 あの奥座敷の儀式で、篝火は確かにそう言っていた。 笄年を迎え、当主に就く娘。 本来、笄年は十五で迎えるものだが、この竹中の家では十七とする奇妙な習わしがあった。 「……いいなぁ。半兵衛は」 ササメが膝を抱え、ぽつりと漏らす。 「ここなら、とっても、静かだもんね。お母様の足音に怯えなくていいし。怒られない
おのれを宥めるように目を閉じる。 焦っては、ならぬ。 考えよ。 前提に戻るのだ。 そもそも、怪異とは何だったか。 人の恐れという『鋳型』に、この世の力が注がれ形を成したものだ。 では、その『鋳型』を作っているのは何か。 人の、考え。その、組み立て。 そして、そこから湧き出す根源的な情動そのもの。 目を、開ける。 (……ならば、話は早い) ぽっかりと空いた『穴』の形を描く。 それは器であり鋳型でもあった。 闇を恐れる心。 死を忌む心。 解せぬものを前にした時の畏怖。 人の心の作りが同じであるならば、そこから生じる恐れの『鋳型』もまた、どこへ行こうと同じ形を取るのではないか。 前世では鋳型に『言葉』だけが注がれ、神話や言い伝えとして語り継がれていくのみであった。 だが、この世は違う。 その鋳型が確たる重みを持つ。ただ、それだけの違い。 外枠の出来が違うだけで元となる図は同じ。 同じ、なのだ。 つまり、私の知識は怪異という現象の根源へ直に手を届かせられる。 ゾクリ、と。 背の芯を貫くような震えが走った。 これは、鍵だ。 恐れという鋳型そのものを開け閉めする、おおもとの鍵。 土蔵の天窓から、一筋の日が差し込む。 昂りに震える手をきつく握りしめる。 しかし、まだ引っかかりが残っていた。 言葉で解けるのなら、知識さえあれば私でなくとも可能なのではないか。 即座に首を振る。 この世の者は、生まれながらに『怪異は在る』という当たり前の檻の内にいる。 仮に、村人が私の知識を読み化け物に向かって『お前の正体は、ただの壊れた番傘だ』と叫んだとしよう。 だが、その声は必ず震える。 目の前の化け物を見上げ、心の臓は恐れに早鐘を打つ。 その時点で終わるのだ。 観測する者の魂に巣食う恐れと畏敬が、怪異の存在を確固たるものとし、理の言葉など呆気なく塗り潰す。 果ては無残に喰われる。 言葉によって怪異を在らぬものへと消し去るには、観測する側の心が夾雑物のない曇り無き鏡でなければならぬ。 恐ろしい化け物が眼前で吼えようとも。 おのれの死が迫ろうとも。 恐れを抱かず、己を突き放して見
土蔵。 そこは歴代の当主たちが蒐集し、ときの移ろいとともに忘れ去られた古文書の墓場。 この世の文字は私の知るそれとは僅かに違った。 江戸の崩し字に近い変体仮名。 漢文の文法が独自にねじれて育った奇妙な漢字の用い方。 それらを一つ一つ繙いていくのは、育ちきらぬ目と頭を酷使する暗号解きにも似た苦行であった。 文字を追うだけで頭が痛む。 だが、幼い脳が持つ呑み込みの早さと学者としての執念が。 この二年間で私に言葉を覚えさせていった。 朝、奉公人の目を盗んでは蔵に入り行灯の油が尽きて夜に溶け込むまで読み耽る。 食い物は台所の余りをこっそり掠めるか、時おり私と同い年の下女が冷たい握り飯をそっと差し入れてくれた。 篝火も厳蔵も私には見事なほど無関心であった。 だが、それでいい。 いや、それこそが望ましかった。 孤独は学ぶ者にとって何よりの城である。 この薄暗い文字の海の底にこそ求める『答え』が眠っているのだから。 * 黒漆喰の扉に全身の重みを預け軋ませながら押し開けた。 まず黴の匂い。次いで、紙を食い荒らした末に干からびた紙魚の死骸の匂い。和紙を綴じる糊が放つ酸い匂い。 それらがひとつになって鼻の奥まで入り込み、私は身を折って咳き込んだ。 小さな肺が悲鳴を上げるのはいつものこと。 聞き流して、埃の積もった床に書物を広げた。 竹中の家は数百年をかけてこの蔵に紙を溜め込んできた。 古文書ばかりではない。 絹糸の取引の控え、出納の帳面、諸国の地誌、医術の書――蔵書というより紙の地層と呼ぶべきものが梁の高さまで積み上がっている。 その中から抜き出した三冊。 『本朝怪異考』。 『西国風土記』。 そして『陰陽寮秘録』の写本。 この数月というもの、三冊を突き合わせるのが私の日課であった。 今日もまた、煤けた指先で文字を追っていると、指が不意に止まる。 「……ん」 『西国風土記』の頁。 異国の風景を綴った一節に、ふと、こうある。 『陰陽府の、結界に守られ』。 府。 次に、傍らに広げたままの、この蔵で最も古いであろう和綴じ本、『陰陽
「ササメ、下がりなさい。……半兵衛」 期待は、していない。 見る、値打ちもない。 そんな侮りが、篝火の視線に乗って圧となって突き刺さる。 私は、黙って祭壇の前へと進んだ。 異なる世の記憶を持ち、老いた心を抱えた私が、この御神体に触れた時に何が起こるのか。 恐怖よりも、抗いようのない興が勝っていた。 表面をじっくりと観察しながら、その柔らかそうな塊へ躊躇なく手を伸ばす。 指先が、触れた。 (……冷たい。いや、違う) 表は、爬虫のように冷たい。 だが、薄い皮一枚隔てた内で、どろりと熱を帯びた何かが、指の押す力に反するように蠢いている。 腐った肉の中に無数の蛆を飼い慣らし、無理やり脈打たせているような『間違った生き物』の感触。 やはり、入れ物などではない。 これは――肉だ。 …………。 ……。 …。 何も、起きなかった。 ササメのときのような淡い光もない。 ぺた、ぺたと、角度を変えて幾度か触れてみたが、何の応えもない。 肌を酔わせる、あの甘い気もこない。 私の心が向こうの干渉を拒んでいるのか。 それとも、この私が、この生き物の選ぶ条件に適わぬのか。 「……ふ」 背後で、短く息を吐く音がした。 「やはり、空っぽ」 その言葉が、線香の立ち込める部屋の静けさに、冷たく響く。 「霊力もなければ、白繭様を惹きつける、芳香もない」 (霊力……在るのか、そのようなものが) 「母上。これは、生き物としての――」 「厳蔵」 「は」 奥に控えていた厳蔵が、声だけで応える。 「その抜け殻を連れて行きなさい。……当面は、生かしておきます」 「は。……よろしいので」 「血筋だけは、竹中ですからね。いずれ、血を絶やさぬための器には、なりましょう。早く連れて行きなさい。儀式が、濁ります」 「御意。――若様、奥の間に私は立ち入れませぬ。……こちらへ」 厳蔵に促され、私は、その白い生き物から手を離し、奥の間を後にする。 去り際。祭壇の脇に座るササメと目が合う。 姉は、恍惚の余韻も醒めやらぬ顔のまま、ひどく悲しそうな目でこちらを見ていた。
|夢見月《ゆめみづき》。 幼い姉に守られた夜から刻は経ち、四歳となった晩春のころ。 私は、竹中の家にとって『人』として扱われるか、それともただの『道具』として使い潰されるか。 それを定める選り分けの場へ、立たされようとしていた。 儀式が行われるのは『奥座敷』。 屋敷の中心に座し、重厚な海老錠で閉ざされた間である。 * 冷たい板張りの廊下を、ササメと一緒に篝火の背を追って進む。 母屋の回廊を、中心へ、中心へと、辿る。 光は次第に絶え、四方を壁に囲まれた袋小路に、その座敷はあった。 逃げ場のない、屋敷の心の臓。 扉には、呪符の束がびっしりと、こびりついている。 闇に溶けるように控えていた厳蔵が、ぬっと姿を現し、外扉の海老錠に太い指をかけた。 ガチャリ、と、重い金音が鳴って錠が落ちる。 軋みながら開いた扉の奥は、四畳ほどの狭い座敷。 窓ひとつなく。 調度ひとつなく。 ただ奥の壁に、もう一枚。固く閉ざされた襖があった。 その襖には、外扉のような呪符はない。 代わりに、四方の縁にぐるりと注連縄が回され、いくつもの紙垂が力なく垂れ下がっていた。 錠も、閂もない。 ただ、襖が一枚。 まるで、内にあるものが自ら出ぬように、形ばかりに宥めたような作りが、かえって悍ましさを際立たせていた。 * 篝火が、前室へ足を踏み入れる。 私とササメも、続いた。 厳蔵は外扉の脇に控えたまま、敷居を跨ごうとはしなかった。 前室に満ちていた練香の匂いが、この狭い箱の中で重く漂う。 伽羅と、沈香。 その底に、ひどく甘ったるい。腐れかけた果実のような匂いも混じっていた。 そして、閉ざされた襖の向こうから。 ――どろり。 ――どろり。 聞こえる。 粘り気のあるものが、ゆっくりと巡る音。 拍を打って、規則正しく。 その音に合わせて、襖の紙垂が、ゆらゆらと、揺れている。 風など、どこにもないのに。 思わず、心の臓が、ひくつく。 育ちきらぬ頭ではなく、学者としての理性が、この襖の向こうにあるものは、決して、ただの御神体ではないと告げていた。 「







