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第五十五話

Author: 麻木香豆
last update Last Updated: 2025-08-24 05:29:39

 昼ごはんを食べ終え、片付けも終わったところで藍里と時雨は店を出た。

 店の奥から出てきた清太郎が心なしか暗そうに見えたが、それでも「気をつけてな!」と笑って声をかけてくれる。その顔がほんの少し寂しげに見えたのを、藍里は気になりながらも、口元に笑みを浮かべて大きく頷き返した。胸の奥にじんわりとした小さな罪悪感が同時に広がる。

 時雨と二人きりでここまで遠出をするのはもちろん初めてだ。

 電車に揺られるのも久しぶりで、窓の外を流れていく景色に気持ちが浮き立つ。けれどどこか落ち着かなくて、バッグを抱えた腕に自然と力が入っていた。隣の時雨はスマホで路線図を確認しながら、どこか余裕のある表情をしている。そんな姿に「大人だな」と思いながら、ほんの少しだけ安心した。

 名古屋駅に着いた瞬間、藍里は思わず目を丸くした。

 人、人、人。休日の駅は、まるでお祭りのように賑わっている。背の高い人の群れに埋もれてしまいそうで、思わず足が止まりそうになる。そんな藍里の腕を、時雨が軽くとって「大丈夫?」と覗き込む。人混みに押されただけなのに、心臓が跳ねてしまい、慌てて「だ、大丈夫」と首を振った。

 大学展の会場は想像以上に広大だった。大きな体育館をいくつもつなげたようなホールの中に、所狭しと並ぶ大学のブース。立て看板や横断幕が鮮やかで、パンフレットを配る学生や職員たちの声が響き渡る。空調の効いた会場は少しひんやりしているのに、人の熱気でむっとするほどだった。

「わぁ……すごい……」

 藍里は圧倒されて立ち止まる。どこを見ても知らない世界ばかりで、目が回りそうだった。

 そんな中、ふと横に視線をやると、時雨が別の方向へ歩き出していた。出店コーナーに並ぶ学生たちの姿に興味を惹かれたらしく、屋台のような小さなテーブルを覗き込んでいる。

「ここで弁当売ったらめっちゃ売れそう」

 いかにも商売人らしい言葉に、藍里は思わず笑ってしまった。

「時雨くん、お仕事終わったのにまたそんなこと考えてるんだ」

「ついつい商売柄ね。昔もさぁ、こういうイベントで出店したことあるんだよ。学生時代も専門学校だけど模擬店やったし、楽しかったなぁ」

 どこか懐かしそうに語る時雨。その表情が普段より柔らかく見えて、藍里は胸の奥がふわっと温かくなる。

 しかし、気づけば少し離れてしまっていた。慌てて追いかけようとしたそのとき――
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