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第7話

Author: ごはんまん
結衣が微笑むと、風真の顔から不安の色が消えた。

「結衣、安心して。俺の心の中には君しかいない。

この前は言い過ぎた。どんな願いでも言ってくれ。君が許してくれるなら、俺は何だってする」

身を乗り出した風真は、今にも泣きそうな顔で必死に訴える。

かつての結衣なら、こんな風真を見ればすぐに心が緩んでいた。でも今は、目の前の彼がとても遠い存在に思え、心は凍りついたままだった。

結衣は、じっとそのまなざしを見つめ、口元にかすかな笑みを浮かべる。

「じゃあ、玲奈さんを別の人と結婚させて」

風真の笑顔が一瞬で凍りついた。無理に作ったような引きつった笑みだけが残る。

「結衣、そんな冗談やめて」

手を伸ばして結衣の頬に触れようとしたが、結衣は顔をそらした。

「玲奈は君の妹のような存在でもあるでしょ?そんなことで嫉妬するなんて子どもっぽいよ。他のお願いにしてくれない?君の願いなら何でも叶えてあげるから」

結衣はさらに大きく笑った。

分かっていた。玲奈のことが絡めば、風真のどんな固い約束だって、紙のように簡単に破れてしまうのだ。

「冗談よ」結衣はすっと笑みを消し、淡々と告げた。「何をしようと、もう私にいちいち報告しなくていい」

結衣がもう玲奈のことを責めないと分かると、風真はほっとしたように笑い、彼女の頭をやさしく撫でた。

「やっぱり結衣は一番わかってくれるんだな。じゃあ、仕事に戻るよ。ゆっくり休んで」

彼の足音が廊下の向こうに消え、静寂が病室に戻った。そのとたん、結衣の顔からはすべての表情が消えた。

これが、風真がこの数日間、優しく付き添っていた理由なのか。

罪悪感でも哀れみでもない。ただ、結衣が騒ぎを起こして玲奈のための道筋を邪魔しないか、それだけを恐れていたのだ。

結衣は自嘲気味に口元を歪め、枕の下からスマートフォンを取り出し、理沙に電話をかけた。

「理沙、離婚協議書、できた?」

電話の向こうで長い沈黙が続き、一瞬通信が切れたかと思うほどだった。ようやく聞こえた理沙の声は、苦しげに震えていた。

「結衣……君と風真さん、法律的には夫婦じゃないの。前に送ってくれた婚姻関係の書類、あれ全部偽物だった」

結衣は全身が固まり、耳の奥で激しい音が鳴り響いた。

信じられずにスマートフォンを握りしめ、かすれた声で問いただす。

「……どういう意味?」

「本当なの。知り合いに戸籍を調べてもらったの。結衣は未婚で、風真さんには離婚歴がある。戸籍上、君たちは夫婦じゃなかった。彼の前の妻は桐谷玲奈で、二ヶ月前に離婚したばかり。君が持っていた婚姻関係の書類は全部偽物で、印鑑も安物の偽物だった……」

理沙の声は途中で詰まり、すすり泣き混じりになった。

あの日、結衣の結婚式は町中の噂になり、誰もがうらやむ幸せの絶頂だと思っていた。でも、最初から全部が嘘だったなんて――

理沙が送ってきた調査結果のスクリーンショットを開く。

スマートフォンの青白い光が、結衣の青ざめた顔を照らした。

画面いっぱいに並ぶ冷たい文字が、毒針のように結衣の目に突き刺さる。

何度砕けても、その都度かき集めてきた心は、いままた誰かに強く踏みつけられ、完全に粉々にされてしまった。

知らぬ間に、結衣は他人の家庭を壊した女になっていた。

十年もの間、十七歳から二十七歳まで、人生で一番美しい時間をこの男に捧げてきたのに、正式な妻ですらなかった。

なんて、滑稽なんだろう。

激しい足の痛みと、胸を締めつける絶望がいっぺんに押し寄せてきて、もう平然とはしていられなかった。

その瞬間、病室に結衣の叫び声が響き渡る。絶望のあまりの嗚咽は、隣のベッドの患者まで涙を浮かべるほどだった。

やがて、結衣はベッドを降りて、憎しみに突き動かされるまま杖をついて風真のオフィスへ向かった。

風真は、結衣の姿を見つけると、最初はうれしそうに笑顔を見せたが、彼女の震える足と青ざめた顔に気づくと表情が凍りついた。

「結衣、どうしたんだ。足はもう大丈夫なのか?」

手を伸ばして支えようとしたが、結衣はその手を振り払った。

結衣はスマートフォンを風真の前につきつけ、涙に濡れた目でじっと見つめる。

「風真。私、本当にあなたと出会ったことを後悔してる」

風真は慌ててスマートフォンを手に取り、画面を素早くスクロールし始めた。指先の動きはどんどん速くなり、その顔色も次第に険しくなっていく。やがて、結衣と理沙の【離婚したい】というやり取りのメッセージで指が止まった。

「……離婚したいのか?」

突然顔を上げた風真の瞳には、焦りと敵意が宿っていた。

「君は、俺から離れたいのか?」

結衣は鼻をすすり、涙に濡れたまなざしで風真を睨み返す。

「そうよ。あなたなんか怖い。もう二度と近づきたくない」

叫ぶように言い放ち、すぐにスマートフォンを奪い返して遥斗の番号を押しかけた。

だが、電話がつながる前に風真が力ずくでスマートフォンを奪い取り、床に叩きつける。

「バキッ」という音とともに、画面は粉々に砕けた。

結衣は驚きで顔を上げ、血走った風真の視線とぶつかる。

そこには、かつての優しさや情けのかけらもなく、ただ狂気じみた独占欲だけが宿っていた。

「君を絶対に逃がさない」

結衣は全身を震わせながらも、歯を食いしばって背を向けて歩き出す。

だが、二歩踏み出した瞬間、首筋に鋭い痛みが走り、目の前が真っ暗になって意識が遠のいていった。
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