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第8話

Author: ごはんまん
結衣が再び目を開けたとき、自分が車の中に閉じ込められていることに気づいた。

首にはまだ痛みが残っていた。助手席のグローブボックスに手を伸ばし、非常用ハンマーを握りしめたその瞬間、車のドアが開け放たれた。

外には風真が立っていた。表情は険しく、目には怒りが宿っている。

「どこへ行くつもりだ、結衣」

結衣は答えなかった。身を乗り出そうとしたところで、風真に腕を掴まれ、座席に強く引き戻された。

風真はドアに身を預け、奥歯を噛み締めながら、充血した目で睨みつけてくる。

「言ったはずだ。どこにも行かせない。ずっと俺のそばにいろ」

結衣は仰ぎ見るように彼を睨みつけ、一言も返さなかった。

風真はしばらくじっと見つめていたが、突然、手を伸ばして結衣の服を引き裂いた。

冷たい空気が肌を刺し、結衣は身を震わせる。

「風真、何をするつもり?」

返事はなく、彼は乱暴に結衣の服を脱がせ、そのまま強く唇を奪った。

手は容赦なく結衣の身体を押さえつけ、抗うことを許さなかった。

このとき初めて、結衣は彼が何をしようとしているのかを悟り、必死にもがいた。しかし、どれだけ抵抗しても風真の腕の力には敵わなかった。

「やめて。そんなことをしたら、一生あなたを恨むから」

叫び声も、泣き声も、肩を噛むほどの抵抗も、風真には届かなかった。

ついに結衣は力尽き、泣きながら懇願するしかなかった。

「風真……車の中はやめて。これは私の大事なレーシングカーなんだから……」

その言葉も、痛みと共に途切れた。

風真の動きは一層激しくなり、耳元に熱い息を吹きかけながら、不気味なほど優しい声で囁く。

「結衣、これは君への罰だ。まだ俺から逃げたいと思うのか?」

結衣は唇を強く噛み、血の味が舌に広がった。

涙が黒いレザーシートにぽつぽつと落ち、そこに小さな染みを作っていく。

玲奈が結衣の足を壊し、風真は結衣そのものを壊そうとしている。

その後数日間、風真は正気を失ったかのように、結衣をサーキットへ連れ出し、すべての車の中で同じことを繰り返した。

結衣は最初こそ泣きながら懇願し、次第に罵声を浴びせたが、最後には何も感じなくなった。

ただ虚ろな目で天井を見上げ、どんなに扱われても抵抗もせず、魂の抜けた人形のように、涙すらもう出てこなかった。

すべてが終わったあと、最後の車の中で、風真は結衣を抱きしめて尋ねた。

「まだ俺から離れたいと思うか?結衣」

結衣は機械的に首を振った。

もう逃げたいとも思えなかった。ただ、死にたいと思った。

それで風真はようやく結衣を家に連れ戻した。

家に入ると、リビングのテーブルに未開封のケーキが置いてあった。見るだけで吐き気がした。結衣は無言で自分の部屋に戻り、ドアを閉めようとしたが、風真に阻まれた。

「素直じゃないな」

風真は手錠を取り出し、結衣をベッドのヘッドボードに繋いだ。そして彼女の手から刃物のかけらを取り上げた。

「言うことを聞け。俺を怒らせたら、困るのは君だ」

結衣が睨みつけていると、部屋のドアが開いた。

玲奈が、何かをぶら下げて入ってきた。

「風真さん、結婚式にはどれを付けたら可愛いと思う?」

結衣の瞳孔が一気に縮まった。

それは、結衣が全国優勝した時のメダルと、母の形見のペンダントだった。

「風真!」結衣は声を張り上げ、嗄れた声で叫んだ。「それは私の大切なものなのに!」

風真は、してやったりというような顔で、ベッド脇に膝をつき、ペンダントを指で弾いた。

「大事なものだって分かってる」

彼は冷たく笑いながら結衣を見上げる。

「また自殺しようとしたら、これらをどうするか分からないからな」

結衣は歯を食いしばり、瞳には果てしない憎しみが浮かんだ。

「俺を恨んでいるのか?」風真が眉を上げる。「なら、もう二度と逃げようなんて考えるな。さもないと、もっと辛い目に遭わせるぞ」

最初のうち、結衣はそれがただの脅しだと思っていた。だがあの夜、風真は結衣をベッドから無理やり引きずり起こし、床にひざまずかせて、彼女の顔を乱暴に掴み、寝室の中央に向けて無理やり向かせた。

そこには、乱れた服のまま風真に抱かれている玲奈の姿があった。

「悔しいのか?それとも気持ち悪いか?」風真の声は毒を含んでいた。「ちゃんと見ろ。絶対に目をそらすな」

これもすべて、言うことを聞かなかった結衣への罰だという。

でも結衣は何の反応も示さなかった。瞬きひとつせず、ただただ見つめていた。

心はとっくに死んでしまったのだ。もう、どうでもよかった。

再び死のうとしないように、風真は結衣の食事を制限し、水とパンだけを少しずつ与えるようになった。手首を噛む力さえ残らないほど衰弱していった。

結局、ペンダントは玲奈の首にかけられ、風真は玲奈の頭を撫でながら言った。

「まだ出て行こうとするなら、このペンダントはずっと玲奈のものだ」

結婚式の前日、風真は珍しく結衣に手を出さなかった。

ベッドに横たわる結衣を後ろから抱きしめ、顎を肩に乗せたまま、優しい声で何度も囁いた。

「お願いだ、結衣。俺を憎まないでくれ。俺はただ、君を愛しすぎただけなんだ。

玲奈との式が終わったら、瀬戸家との関係も片付く。そしたら君を役所に連れていく。本物の婚姻届を出そう。な?」

結衣は目をぎゅっと閉じて、何も答えなかった。

結婚式当日の朝、玲奈は純白のドレス姿で結衣の部屋に現れた。わざと首元のペンダントを見せびらかすように、ぐっと顔を近づけてくる。

「本当にかわいそうだね、結衣さん」玲奈は勝ち誇ったように笑った。「前から言ってたでしょ、早く出ていけばよかったのに。このペンダント、ダサすぎるけど、風真さんが絶対に付けて行けってうるさくてさ、仕方なく嫁入り道具にするんだ」

そんなことを言われても、結衣はもう生きる気力を失っていた。

ペンダントどころか、たとえ今ここに母の遺骨を持ってきて脅されたって、もはや一瞬たりとも心は動かない。

だから、風真と玲奈が腕を組んで家を出ていくその瞬間、結衣は体を横に倒し、まだ動く右手で手首を探った。

歯を食いしばって思いきり噛みつく。痛みは感じない。ただ、生温かい血だけがゆっくりと滲み出てきた。

血がシーツを少し染めたとき、「ガシャッ」と大きな音を立てて寝室の窓ガラスが割れた。

中に投げ込まれたのはダミー人形だった。その後ろから、見慣れた顔が現れる。

遥斗がガラスの破片の中に立ち、手を差し伸べて言った。

「行こう。迎えに来たよ、結衣」
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