結婚して五年目。藤崎結衣(ふじさき ゆい)は、夫が買ってきたビタミンCがあまりにも苦いと文句を言いながら、その薬の瓶を持って桜丘総合病院へ向かった。 医師は瓶をしばらく眺めてから言った。「これはビタミンCじゃありませんよ」 「先生、もう一度言っていただけますか?」 「何度言っても同じですよ」医師は瓶を指さした。「これ、中身はミフェプリストンです。これを飲み続けると、不妊になるだけじゃなく、体にも大きな害があります」 喉に何かが詰まったようで、結衣は瓶を握る手に思わず力が入り、指先が白くなっていた。 「そんなはずありません。これ、私の夫が用意してくれたものなんです。私の夫は藤崎風真(ふじさき かざま)です。この病院の医師です」 医師は一瞬、何とも言えない表情を見せてから、苦笑した。 「あなた、一度精神科にかかったほうがいいですよ。藤崎先生の奥さんなら、皆知っています。ついこの前、赤ちゃんが生まれたばかりです。あまり思い詰めないでください、世の中には叶わないこともあるんです」
Lihat lebih banyak佳奈はまさか本当に風真が雪の中で一晩中立ち尽くすとは思っていなかった。夜が更けるにつれて雪はどんどん強くなり、佳奈は何度も窓の外を気にして見た。結衣もつられてそっと窓に目をやる。凍てつく寒さで唇が切れても、風真は窓越しに見える二人の顔に向かって、必死に笑みを作った。「結衣さん、これじゃ死人が出ちゃいますよ?」佳奈が心配そうに言うと、結衣は気にも留めず布団をかぶって目を閉じた。「大丈夫、仮に何かあっても私たちには関係ないから。さ、もう寝ましょう」佳奈は結衣の冷静さに感心したが、その一方で結衣がこれまでに受けた傷を思い出すと、思わず怒りのままカーテンを乱暴に閉めた。その雪の夜、風真の頭にはひたすら過去の思い出が巡っていた。二人で家をリフォームした日々や、未来を語り合った温かな時間。けれどそのすべてが、玲奈の登場で音を立てて壊れてしまった。玲奈を思い出すたび、風真の中にはまた怒りの炎が燃え上がる。最後にはもう、寒さのせいなのか幻覚のせいなのか、自分の体が熱くてたまらず、まるで真夏の日差しの中にいるような気分になった。「耐えればきっと結衣の心も戻ってくる」と何度も自分に言い聞かせる。だが、もう一つの声が「結衣はもう戻らない、もう他の男を愛している」とささやく。結衣が自分をもう愛していないと考えるだけで、風真は胸が裂けそうだった。自分に何かできることはないかと必死に考え続け、ついに思い当たったのは――「レースだ」「雪でコースは危険だし、自分だって凍えて動けないはずだ。本当に運転なんかできるのか?」結衣が一番好きだったもの――それは、レースだ。もし自分が瀬戸と勝負して勝てば、もしかしたら結衣はもう一度だけ自分にチャンスをくれるかもしれない。風真は体中を震わせながらも、まっすぐ結衣を見つめて言った。「瀬戸と勝負する。もし俺が勝ったら、もう一度だけチャンスをくれないか?」結衣は冷たく言い放つ。「無理」風真は自嘲しながらも、「無理でもやるさ。結衣、最後に俺のナビゲーターになってくれ。これが俺への最後のプレゼントだと思って」と頼む。結衣は少し苛立ちを覚えていた。というのも、瀬戸は本来、レースカーの運転などできないはずだった。それなのに、瀬戸は何の迷いもなく「いいよ」と答えた。結衣は呆れたよう
風真は声のする方に顔を向け、驚きに目を見開いた。「瀬戸……どうしてここに?」瀬戸は結衣の肩をさっと抱き寄せ、結衣が拒まないのを確認すると、その腕にさらに力を込めた。「俺は結衣の婚約者だ。ここにいるのは当たり前だろ?」その一言で、風真はまるで雷に打たれたように全身が固まった。「婚約者……?どういうことだ、結衣……瀬戸が君の……?」風真の目には信じられない色が浮かび、唇もわなわなと震えている。結衣は瀬戸の手を握り返し、その指をしっかりと絡め、風真に見せつけるように掲げた。「どうしてダメなの?私は未婚で、子供もいない。婚約者がいて何か問題ある?」風真は唇をかすかに動かし、ただただ信じられないという表情を浮かべる。結衣の言葉は鈍いナイフのように風真の心に突き刺さり、何度も何度も心をえぐった。喉を大きく上下させながら、やっと言葉を絞り出す。「ダメだ、許さない……俺は結衣を愛してる。結衣は、俺だけのものなんだ!」結衣は冷たく嘲笑した。もうこれ以上、他人のふりをするつもりはなかった。「愛?それって、結婚していながら裏切って、子どもまで作って、私に際限なく苦しみを与え続けた、あの『愛』のこと?そんな愛なら、犬の餌にでもすれば?」結衣の目は氷のように冷たく、風真はその視線に思わず怖気を感じた。彼は結衣が自分をもう愛していないなど、一度も想像したことがなかった。近くで見ていた佳奈も、ようやく全てを理解したようだった。「なーんだ、こいつが結衣さんを引退させて海外まで追い込んだクズか。はい、お金返します!」佳奈は昨日受け取った40万円を即座に返金し、怒りに満ちた目で風真をにらみつけた。「どのツラ下げて結衣さんの前に現れたわけ?あんたのせいで大好きなレースを諦めて、今も足が悪い日には痛んでるのに。あなたのせいで結衣さんがどれだけ心に傷を負ったか、今でも癒えていないのよ。本当に彼女を愛してるなら、もう放っておいてあげて。これ以上、結衣さんを苦しめないで!本当にもう、男ってろくなもんじゃないんだから!」風真は何も反論できず、うつむいたまま、ただ結衣を見つめて叫ぶ。「結衣、俺は本当に自分の間違いに気づいたんだ。もう絶対に君を傷つけたりしない。けど、瀬戸の家もかなり複雑だ。もし、あいつが俺よりもひどい男だったら……君
瀬戸はアクセルを踏み込み、車をどんどん加速させていった。後ろでいくら風真が叫んでも、車はまったくスピードを落とさず、やがて遠く小さな点になるまで走り去った。ルームミラーで風真の姿が完全に消えたのを見て、瀬戸はようやくスピードを緩める。結衣は疑わしそうに彼を一瞥した。「今日はなんでそんなに飛ばすの?誰かにでも追われてるの?」瀬戸は話をそらすように、ふいに訊いた。「もし風真が泣きながら謝って、やり直そうって言ってきたら、どうする?」結衣は眉をひそめ、少しも迷わずはっきりと言った。「絶対に嫌。死んでも戻らない」風真にされたことを思い出すたびに、結衣の体は芯から冷え切った。夜は何度も悪夢で目を覚まし、むしろあの火事で本当に死んでいればよかったとすら思うほどだ。瀬戸はそんな結衣の決意に気づき、口元にほんのわずかな笑みを浮かべた。しかしその表情はすぐに結衣に見破られる。「なんでそんなこと聞くの?夢でも見た?」「いや、なんとなく」瀬戸は軽く受け流したが、心の中では静かに決意を固めていた。今度こそ、絶対に結衣にもう二度と辛い思いはさせない。そのころ、風真は車が消えた方向をじっと見つめていた。やがて風真は合宿所に戻り、周囲の誰彼かまわず「チームゼロのコーチの写真が欲しい」と頼み歩いた。しかし誰もが「写真なんてない」と口を濁し、あの佳奈さえ、いつの間にか姿を消していた。風真はぼんやりと道端の石に腰かけ、無名指にはめたままの、すっかり輝きを失った結婚指輪を指先でそっとなぞりながら、独りごとのようにつぶやいた。「結衣……本当に君なのか?もし本当に君なら、俺は寿命を五十年縮めてもいい、だからどうか、もう一度生きてほしい……」その夜も、風真は森国にいる友人に「結衣の行方をもう一度調べてほしい」と頼んだ。けれど、返ってきた答えはやはり「戸籍は抹消され、すでに死亡扱いになっている」というものだった。かすかに灯った希望も消え、風真はひたすら練習に打ち込むことで心の穴を埋めようとした。しかし神様は、そんな彼の祈りを聞いていた。二十周目のトレーニングを終え、ヘルメットを脱いだ瞬間、風真は凍りついた。――遠くで、見覚えのあるシルエットとすれ違った。ゆっくりと首を向け、目が潤むほどにその姿を見つめ続ける。「結衣……?」その名
風真は自分がまだトレーニング施設に到着する前から、すでに周囲の噂の的になっていることなど知らなかった。彼の胸の中には、ただひとつの思いしかなかった。結衣の遺志を継ぎ、彼女が走れなかったすべてのコースを自分が走り切り、すべてのタイトルを獲得すること。そうすれば、死んだ後に結衣に会ったとき、少しでも罪悪感が和らぐのかもしれない。来る前から聞いていた。ここ数年、海外では「伝説の女性コーチ」がいて、彼女の指導する女性ドライバーたちは大きな大会で次々と優勝しているという。そのコーチは女性しか受け入れないが、どうしても一度会ってみたかった。トレーニングルームに入ると、風真はすぐにスタッフをつかまえて尋ねた。「すみません、チームゼロのコーチはどこにいますか?」「ああ、トゥデイコーチのこと?さっきまであそこにいたけど、今はもう下山しちゃったよ。あの辺に彼女の教え子がいるから、聞いてみれば?」風真は礼を言い、足早に佳奈のもとへ向かった。「すみません、コーチはどこへ行ったかご存知ですか?どうしても会いたいんです」佳奈は風真を一瞥してから、「結衣さんならさっき下山したばかりですよ」と山道を指さした。「結衣」という名が風真の胸に雷鳴のように響いた。だが、すぐに首を振る――世の中に同じ名前の人間くらいいくらでもいる。それでも風真は、思わず柔らかな表情で小さく呟いた。「俺の妻も、結衣という名前です。とても特別な女性です」佳奈は一瞬手を止めて、興味深そうに眉を上げた。「うちのコーチも女性ですよ。それも、かつては凄腕のドライバーで、今は美人の名物コーチです。ちなみに、男の教え子は一切取らないんですけど、何かご用ですか?」風真の胸はざわついた。「女性レーサー」、「引退後はコーチ」――その言葉が胸に棘のように刺さり、どうしても結衣を思い出さずにはいられなかった。世の中にそんな都合のいい偶然があるはずがない――そう思いながらも、結衣が「いなくなって」以来、風真は知らず知らずのうちに神仏にすがるようになっていた。それでも心の奥底から、抑えきれない期待が湧き上がる。風真は、長年すり減ったまま胸元にしまっていたお守りをぎゅっと握りしめ、血が一気に沸き立つような感覚に襲われた。そして思わず佳奈の手を強くつかみ「彼女はどこにいるんですか?お願いです、
瀬戸はずっと、結衣は自分に特別な感情を持っているのだと思い込んでいた。結衣は他の誰に対しても冷静でしっかりした学級委員長だったが、瀬戸の前ではときどき怒ったり、顔を赤くしたり――そんな生き生きとした姿を見るたび、「きっと俺のことが好きなんだ」と信じて疑わなかった。だから、高校の卒業の日、瀬戸は思い切って結衣に告白した。けれど、結衣はただ瀬戸を見つめ、瞳にはただ戸惑いの色が浮かんでいた。「どうして?俺のこと、好きじゃないの?」瀬戸は思わず問い返した。声が震えている。十七歳の結衣は眉をひそめ、まるで奇妙な生き物でも見るように瀬戸を見上げた。「好きじゃない。あなたも、この花も、あなたがいつも一緒にいる友だちも、誰も好きじゃない」瀬戸は人生で初めて告白して振られた。けれど、どうしても納得がいかず、食い下がる。「俺のどこが嫌なんだ?模型を取り上げたことか?それとも俺の顔が好みじゃない?」結衣はくるりと背を向けて歩き出そうとしたが、瀬戸の目に浮かんだ涙の光に気づいて立ち止まった。結衣はじっと瀬戸の目を見つめ、ひとことひとこと丁寧に言った。「どちらでもないよ。私は優しい人が好き。でも、遥斗はいつも偉そうで、誰のことも目に入っていないみたいに見えるんだ。こんなことで落ち込まないで。私たち、まだ子どもだし、大人になれば何でもないことだって思うようになるよ」その言葉はきっと慰めのつもりだったのだろうが、瀬戸は初めて本気で振られ、思わず目が赤くなった。鼻をすする声が震えながらも、瀬戸はまっすぐに伝えた。「俺は遊びで言ってるんじゃない。本気なんだ。でも結衣が嫌なら、無理には求めない。じゃあ、賭けをしよう」瀬戸はまっすぐ結衣を見つめて言った。「結衣が俺よりいい男に出会えたら、それでいい。でももし出会えなかったら、この番号に電話してくれ。俺は絶対に番号を変えないし、どんな時も、結衣を笑ったりしない」結衣はその勢いに押され、思わず「うん」とうなずいてしまった。瀬戸は、せいぜい二ヶ月もすれば、結衣も大学でいろんな男たちを見て、自分のもとに戻ってくるだろうと高をくくっていた。けれど、いくら待っても結衣からの連絡はなく、やがて彼女が完全に音信不通になったという知らせだけが届いた。次に耳にしたのは、結婚式の招待状が届いた
三年後、イタリア。ラリー選手の合同トレーニング基地の休憩スペースで、何人かの欧州のドライバーたちがコースを眺めながら談笑していた。「聞いたか?今年、森国からダークホースが来たらしい。ラリー歴たった三年で国内タイトル総なめ、初の海外レースなのに、ブックメーカーまで彼に賭けてるってさ。でも俺は大したことないと思うな」「森国人?それでも油断は禁物だろ」背の高いドライバーが舌打ちした。「あの森国人女性コーチを忘れたのか?三年でF1女子チャンピオンを五人も育てた。ここ数年、俺たち男ドライバーは肩身が狭いぜ」早瀬佳奈(はやせ かな)はその会話を少し聞いて、苦笑いしながら自分のチームの休憩スペースに戻った。彼女は冷蔵庫から取り出したばかりのミネラルウォーターを、「ぴたっ」と目を閉じて休んでいたコーチの顔に押し当てた。「結衣さん、またあの負け犬たちがあなたの噂してましたよ。あなたは彼らにとって疫病神らしいです」結衣は冷たいボトルにびくっとして、顔から本をどけて起き上がり、ボトルのキャップを開けて水を一口飲むと、眉をひそめて言った。「何を言われようと、自分の走りを磨くのが先。今回のタイムも安定感も落ちてる。このままじゃ交代だよ。乗りたい人は山ほどいるんだから」佳奈は三年も結衣のもとで走ってきて、彼女が口はきつくても根は優しいことをよく知っている。えへへと笑って、「分かってますよ。ただ、まだこっちの気候に慣れてなくて。イタリアは本当に湿っぽいですから。それより、あの森国のダークホースのこと知ってます?」結衣はうなずきながら、膝を軽く叩いた。この足はあの時、辛うじて元の形をとどめていたが、後遺症が残り、湿気の多い日にはじんわりと鈍い痛みが走る。「知ってるよ。資料も試合データも調べた。でも、あなたにとっては脅威じゃないよ」その森国人選手は謎めいていて、レース中も決して顔を見せず、ニュースでも正面写真が出たことがない。それなのに結衣には、なぜか妙な既視感があった。ふと、心の奥に眠っていた誰かを思い出しそうになる。でもすぐに頭を振って、その考えを振り払った――そんなはずない。あの人は昔からレースに興味なんてなかったし、一生の夢は「立派な医者になること」だった。それに、あんなに玲奈と「仲睦まじい夫婦」を演じていたのに、自
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