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囁きの門 ―名前の手前―

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-22 09:28:01

霧がほそく伸びて、枝の先でほどけた。

焚き火は灰の下で、赤く、呼吸だけ残している。

ルシフェルは膝をつき、指で灰を撫でた。

輪をひとつ。羽を一本。

思い出していない顔で、手だけが憶えているみたいに。

「ここ、座って。……火、強くしないで。ゆっくり」

私が布を敷くと、姉弟と祖父が肩を寄せた。

姉は指をぎゅっと握り、目を落とす。

「母が、夜になると……そこだけ寒くて」

「寒いところ、ここにもある。だから……少し、あたためて」

赤い実を掌でころがす。薄い光が指の間で脈を打つ。

灰の上で、羽の線がかすかに震えた。

私はその指先を見て、笑ってみせる。

「覚えてるの? ……指だけ」

彼は目を上げる。否定でも肯定でもなく、短い瞬き。

祖父が咳をひとつ、柔らかく残す。

私は実の灯をすこし分けて、姉の掌へそっと置いた。

「声、出さないで。息だけ合わせて。……それで、少し」

鳥の鳴き声が遠ざかり、苔の匂いが深くなる。

姉の肩がゆっくり下がって、弟の指先から力がほどけた。

祖父が帽子のつばを摘んで頭を下げる。言葉は置いていくように、小さく。

彼らが木立に溶けるころ、ルシフェルはもう一度、灰の輪に触れた。

輪の端が風で崩れ、羽だけが残る。

「……うん。行こうか」

私は灰を軽く撫で、輪と羽をいったん消した。

石の冷えが、聖堂の床から立ち上がっている。

奥の間。司祭セレノは横顔だけで笑い、正面の黒を見た。

黒衣の女が立つ。鈴のない錫杖を、音を立てずに置く。

沈黙審問官――ミレイユ。睫毛の影まで、音がない。

「声なき神は、都合がいい。……だから危うい」

セレノの言葉に、ミレイユは首を少し傾けるだけ。

唇は開かないまま、気配が答える。

「声を返すのは簡単。消すのは、もっと」

机に押された公文が赤く乾く。

『神の代弁者 エリカ・クローディア 拘束令』

欄外に、小さく“封声の輪”の搬出印。

牢の空気は薄く、鉄の匂いが喉に残った。

隙間から、細い包みが滑り込む。

鎖の音をごまかすみたいに、私は包みを開いた。――いや、私はいない。

開いたのはリオンだ。指に馴染む早さで。

赤い実がころり。

光は弱く、冷たさだけ残して、内側だけが温い。

看守が視線だけで合図を落とす。

「……行け。いま、なら」

リオンは喉を鳴らし、うなずきかけてやめる。

「恩に……いや、また」

果実の温度が錠の内側に移る。

金属がた
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