悪役令嬢に転生したけど、追放された先で精霊王に溺愛されました

悪役令嬢に転生したけど、追放された先で精霊王に溺愛されました

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By:  吟色Updated just now
Language: Japanese
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王太子との婚約破棄を宣告されたその日、エリカは悟る。――ここは前世で読んだ乙女ゲームの世界、そして自分は“悪役令嬢”だと。罪をでっち上げられ、家からも切り捨てられた彼女は、微笑み一つで裁きを受け入れる。「殿下の物語を汚さぬよう、私が退場いたします」――そう告げて追放された彼女を待っていたのは、誰も近づけぬ“精霊王の森”。そこで彼女だけが選ばれ、世界の理を覆す力と、真実の愛に出会う。脚本を壊す悪役令嬢の逆転譚、ここに開幕。

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Chapter 1

婚約破棄の法廷 ―脚本を壊す悪役令嬢―

――本日、王太子殿下は婚約の破棄を宣言される。

高らかな宣告が、王城の大広間に反響した。磨かれた大理石は冷え、天窓からの光は聖堂じみて白かった。けれど、その光は鎖のように重く、私の足首に絡みつく。

(知っている。この光景は、前世で読んだ乙女ゲームの断罪イベント――

 そして私は、悪役令嬢の役名でここに立っている)

「エリカ・ヴァレンティーナ公爵令嬢」

玉座前の壇上に立つレオンハルト殿下が、よく通る声で私の名を切り取った。金の髪が揺れ、勝者の微笑みが群衆の期待を照らす。

「王家婚約条章・第十二条に基づき、汝は王家の威信を損ね、国益に疑義を生じさせた。ゆえに、ここに婚約を破棄する」

ざわ、という群衆の息が、床を這う。聖職者が並ぶ右手側で、枢機卿ヴァルターが細い目をさらに細くし、薄く笑った。左手側では貴婦人たちが扇を揺らし、囁きが矢のように飛ぶ。

「殿下、どうかお慈悲を……!」

白い聖衣に金の縁取り。偽りの可憐さをまとった“聖女”アリシアが、舞台の台本通りに涙を零す。頬に一筋、完璧な角度の滴。

「わたくし、耐えておりました。ですが、エリカ様は……わたくしの祈りを嘲り、侍女たちに命じて――」

「聖女を泣かせる者は、神を泣かせる者に等しい」

ヴァルターはため息交じりに、しかしよく響く声で言う。「異端は芽のうちに摘むべきですな」

「悪役令嬢だって」「やっぱり噂通り」「怖い」――

傍聴席のさざめきは、台本通り。前世の私は、こういう場面をページの外から眺めて、登場人物に憤り、そして閉じた本を忘れた。

けど今は違う。これはもう、誰かの脚本じゃない。

私は一歩、前に出た。裾が光を弾き、足音が静かに広間に落ちる。

「王太子殿下。証拠はありますか?」

空気が、きゅっと締まる。アリシアは涙の角度を保ったまま私を見る。ヴァルターの扇笑が、わずかに止まった。

「……何だと?」

レオンハルトの青い瞳が揺れる。

「条章第十二条は、“国益に疑義”の認定に、教会証言と貴族院承認を必要とします。証拠は、どちらに?」

群衆のざわめきが、一瞬だけ吸い込まれる。

(怯えない。もう、怯える役は終わった)

「証拠なら、ここに“聖女の涙”がある!」

アリシアを庇うように、誰かが叫ぶ。やさしく、しかしあまりに都合のよい台詞。

「それは、あなたの物語の小道具でしょう」

私は微笑んだ。「法律ではありません」

静寂。玉座の前で、レオンハルトの顔から勝者の余裕が一滴だけ落ちる。彼はすぐに取り繕い、言葉を重ねた。

「エリカ、君の気位は立派だ。しかし、民心は聖女を求めている。君のように冷酷な令嬢は――」

「冷酷?」

言葉が私の舌で転がり、すぐに止まる。

(冷酷、ね。なら、私はどう見えている?)

私は視線を右手へ滑らせた。そこには父――ディラン公爵がいる。灰色の瞳は泳ぎ、手には家の印章。

父は口を開かない。開けない。

机上の羊皮紙に、彼の印章がゆっくりと傾き、そして――押された。

乾いた音。私の胸のどこかが、音もなく沈む。

(わかってる。父は家を守らなきゃいけない。私一人を切れば、たくさんが助かると、信じたいのね)

(だから――私は、あなたを責めない。責めない代わりに、二度と頼らない)

私は薬指の指輪を外した。

ゆっくりと。広間の光を受けて、銀が一度だけ白く瞬く。

スローモーションのなかで、群衆の息が揃うのがわかる。

「理解しました」

自分の声は、驚くほど澄んでいた。

私は殿下へと向き直り、うやうやしく一礼する。

「殿下の“物語”を汚さぬよう、私が退場いたします」

ざわっ、と大広間が燃え上がる。罵りも嘲笑も混じる、あの雑音。

不思議と、怖くなかった。

(もう誰の脚本にも縛られない。――私は、私の物語を生きる)

「待て、まだ話は――」

レオンハルトが声を荒げかけた瞬間、ヴァルターが袖を引く。彼らの目は、私ではなく群衆と“体面”を見ていた。

私は振り返らずに歩く。

裾が白い羽のように舞い、靴音が大理石に点を刻む。

背後で、アリシアの嗚咽は舞台じみて遠い。

「連行しろ」

命じる声。

茶の髪の騎士――ルークが、私の腕を粗く掴む。「行くぞ、悪役令嬢さま」

その隣で、短剣を弄ぶマーカスがにやつく。「泣かないのか? つまらねぇ女だ」

「泣く相手は、選ぶものよ」

私は二人を見ずに答えた。

扉が開く。外気が流れ込む。王城の香油と花の匂いではない、現実の街の匂い。石畳の向こう、遠くに雲がゆっくりと流れている。

広間の最後尾、父が動いた気配がした。けれど振り向かない。

振り向かない代わりに、心の中でだけ短く告げる。

(さよなら。お父さま)

***

車輪が石を噛み、馬車がぎし、と軋む。

窓は閉ざされ、薄暗い内部に私の呼吸だけがある。

膝の上で、指輪の跡が白い。そこに重さが、もうない。

(前世の私は、こんな理不尽を画面越しに見て、憤って、やがて忘れた。

 でも今の私は、忘れないために生きる)

「神も運命も、関係ないわ」

誰もいない箱の中で、私は小さく呟く。

「私を裁けるのは、私だけ」

馬車が王都の門をくぐる。冷たい風が、針のように頬を刺した。

門兵の視線が、汚れのように滑り落ちていく。

門の外は、雲の色に似た世界。遠くに、薄い霧の帯が見えていた。

(霧――?)

風が、窓の隙間から忍び込む。ひとひらの冷たさが首筋を撫で、耳元で、誰かが囁いた。

――こちらへ。

女でも男でもない、名前のない声。

優しく、けれど抗いがたい呼び声。

私は瞼を閉じ、一つ息を吐いた。

怖さは、不思議とない。むしろ、胸の奥で微かな熱が灯る。

(行く。もう、終わらせない)

馬車は石畳を離れ、土の道に入る。軋みが深くなり、車体が揺れるたび、過去が少しずつ剥がれていく気がした。

こうして私は、乙女ゲームの悪役令嬢として追放された。

――けれどこの物語、まだ終わらせない。

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婚約破棄の法廷 ―脚本を壊す悪役令嬢―
――本日、王太子殿下は婚約の破棄を宣言される。高らかな宣告が、王城の大広間に反響した。磨かれた大理石は冷え、天窓からの光は聖堂じみて白かった。けれど、その光は鎖のように重く、私の足首に絡みつく。(知っている。この光景は、前世で読んだ乙女ゲームの断罪イベント―― そして私は、悪役令嬢の役名でここに立っている)「エリカ・ヴァレンティーナ公爵令嬢」玉座前の壇上に立つレオンハルト殿下が、よく通る声で私の名を切り取った。金の髪が揺れ、勝者の微笑みが群衆の期待を照らす。「王家婚約条章・第十二条に基づき、汝は王家の威信を損ね、国益に疑義を生じさせた。ゆえに、ここに婚約を破棄する」ざわ、という群衆の息が、床を這う。聖職者が並ぶ右手側で、枢機卿ヴァルターが細い目をさらに細くし、薄く笑った。左手側では貴婦人たちが扇を揺らし、囁きが矢のように飛ぶ。「殿下、どうかお慈悲を……!」白い聖衣に金の縁取り。偽りの可憐さをまとった“聖女”アリシアが、舞台の台本通りに涙を零す。頬に一筋、完璧な角度の滴。「わたくし、耐えておりました。ですが、エリカ様は……わたくしの祈りを嘲り、侍女たちに命じて――」「聖女を泣かせる者は、神を泣かせる者に等しい」ヴァルターはため息交じりに、しかしよく響く声で言う。「異端は芽のうちに摘むべきですな」「悪役令嬢だって」「やっぱり噂通り」「怖い」――傍聴席のさざめきは、台本通り。前世の私は、こういう場面をページの外から眺めて、登場人物に憤り、そして閉じた本を忘れた。けど今は違う。これはもう、誰かの脚本じゃない。私は一歩、前に出た。裾が光を弾き、足音が静かに広間に落ちる。「王太子殿下。証拠はありますか?」空気が、きゅっと締まる。アリシアは涙の角度を保ったまま私を見る。ヴァルターの扇笑が、わずかに止まった。「……何だと?」レオンハルトの青い瞳が揺れる。「条章第十二条は、“国益に疑義”の認定に、教会証言と貴族院承認を必要とします。証拠は、どちらに?」群衆のざわめきが、一瞬だけ吸い込まれる。(怯えない。もう、怯える役は終わった)「証拠なら、ここに“聖女の涙”がある!」アリシアを庇うように、誰かが叫ぶ。やさしく、しかしあまりに都合のよい台詞。「それは、あなたの物語の小道具でしょう」私は微笑んだ。「法律ではありません」静寂。玉座の
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