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試練の森 ―揺らぐ庇護―

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-11 07:28:29

夜が明けた。

霧はほどけ、昨夜まで神の息遣いで満たされていた湖は跡形もない。ただ、湿った草と黒土の匂いだけが残り、森は深い静けさを取り戻していた。

手の甲の“白い羽”が、鼓動と同じ拍で淡く瞬く。

脈に合わせて、皮膚の下で小さく光が震え、私という輪郭の内側を確かめるみたいに広がっては収まる。

「その紋が燃える時、お前の心が嘘をついた証だ」

すぐそばで、低い声。

振り向けば、光の気配を羽織った男――精霊王ルシフェルが、朝の冷気を歪ませるように立っていた。白い髪は光を持ち、瞳の蒼は澄みすぎて、見る者の曇りを逃がさない。

私は紋に視線を落とし、そっと笑う。

「なら、燃やさないように生きるわ」

ルシフェルの口角が微かに上がる。

彼は何も言わず、歩き出した。私はその半歩後ろに並ぶ。並んだだけで、森の空気が変わる。枝が当たらない。棘が引っ込む。風が、進むべき道を撫でつける。

「この森、あなたの気分に合わせて道ができるのね」

「森は俺に従うが、好き勝手はしない。お前が選ぶ向きに、ただ障りを退けるだけだ」

「それを世間では“好き勝手”って言うのよ」

やりとりのあいだにも、羽の紋は淡く脈を刻む。

生きている。歩幅に合わせて、私の“生”が確かに加速していく。

しばらく進むと、空気の味が変わった。

湿りが重くなり、わずかに鉄の匂いが混じる。葉の裏に張り付いた冷気が、肌の表面を指でなぞるように滑っていく。

「……黒霧」

森の奥、地平の低いところで、白い霧の中に“黒”が混ざった。煙の腕が地表を舐め、木々の根元を縫い、こちらの足跡を嗅ぐ獣のように形を探している。

ルシフェルが片手を持ち上げた。光が手のひらにわだかまり、ひと息で森ごと祓い清められそうな、冷たい“絶対”が生まれる。

私は、その腕の前に一歩出た。

「大丈夫。もう、守られるだけの私じゃない」

瞳が合う。蒼が一拍だけ深くなり――やがて、彼は手を下ろした。

許可でも、賛同でもない。“見届ける”という選択。

黒霧が凝り、輪郭を得る。四肢が生え、背が盛り上がり、筆で塗り潰したような黒い獣が姿を取った。目はないのに、こちらを正確に見ている。毛皮は風を吸わず、足音も落ちない。闇の精霊の残滓――この森の忌みが固まったもの。

喉の奥で、羽の紋が熱を帯びた。

鼓動が速くなる。脈動に合わせて、熱が指先へ流れていく。

(――火)

呼びかける言葉より先に、熱が応えた。

掌の白が、一瞬だけ赤に染まる。ひと雫の焔が、皮膚の上で息をした。

黒い獣が、地を蹴った。

空気が裂け、私の目の前へ黒が迫る。

「来なさい」

私は足を踏み込む。地面が低く鳴り、掌の上の焔が伸びた。

最初は細い線。次に、花弁。最後に、風を伴った舌。

黒に、赤が触れた瞬間――獣の輪郭が大きく波打った。

焼ける匂いはしない。焦げない。黒は黒のまま、ただ“形を保てない”という苦悶で後ずさる。闇は光に焼かれない。ただ、整わない。

(足りない。焔の“意味”が足りない)

掌がさらに熱を吸う。

羽の紋の奥、胸骨の内側で別の脈が応える。違う火。燃やすためじゃない、温めるための火。

すう、と風が流れ、聞いたことのない声が耳骨を揺らした。

――名を、呼べ。

視界の端に、赤い尾を引く粒子が集まり、炎の輪郭のあちこちに小さな目が生まれる。踊る、という言葉がぴったりの、軽やかな熱の群れ。

私は口を開いた。名は知らない。けれど、呼びかけ方だけは理解していた。前ではなく中へ。

「……火のひと。あなたの熱を、貸して」

黒い獣が吠える。音ではない衝撃が鼓膜を叩き、足裏の土が動く。

その刹那――

森の奥、古い大樹の幹に、紅の紋が一つ灯った。

樹皮が割れて花弁のように開き、その隙間から“焔”が一人の姿を結ぶ。

たてがみのように燃える髪。瞳は橙。少年とも老成ともつかない、火そのものが歩いてくる。

――ヒトの娘。名は覚えた。だが、お前の焔はまだ幼い。

火の大精霊が、ふっと笑った。笑いは暖で、同時に刃だ。

彼は私の掌の上に視線を落とし、指先で“何もない空気”をひと撫でした。そこに、熱の筋道が生まれる。

――温めるために燃やせ。奪うためではなく、守るために。

「わかってる」

私は黒い獣へ掌を向け直す。

炎は先ほどと違い、跳ねない。揺れるのに、逸れない。水を沸かす湯気のように、やわらかい熱が黒の輪郭へ重なる。

黒は、逃げ場を失った。

焼けない。だが、形を保てない。

崩れ、ほどけ、空気に混ざり、霧に戻る。

最後の一握りが私へ飛びかかる。反射的に、私は掌を前へ。熱が跳ね上がる。

皮膚が、焼けた。

じゅ、と音はしない。けれど、痛みが鮮やかに走り、目の前が一瞬白く染まる。

「エリカ!」

背後で、ルシフェルの声が低く切れた。

その音の鋭さに、胸が熱とは別の意味で跳ねる。

私は唇を噛み、息を吐き――笑った。

「痛い。でも、これが“生きる”でしょ?」

黒の最後の欠片が、私の笑いに怯んだみたいにほどけ、空中で微かな音を立てて散った。

静寂。

風が戻り、葉擦れが音を思い出す。

火の大精霊が、私の手元へ視線を落とした。

焼けた皮膚は赤く、痕が残りそうだ。彼は一歩近づき、私の掌に顔を寄せ――ふう、と息を吹きかける。焔の息は熱くない。少し冷たい。唇よりも柔らかい感触が、火傷の上を撫でた。

焼けた場所に、小さな赤い花が咲いた。

火でもなく、血でもなく、標。花弁は四枚。中央に細い金の糸が一本走っている。

――分け前だ。まだ“全て”ではない。望むなら、深いところまで来い。試練はそこで与える。

火の大精霊は私の瞳を覗き、満足げに頷いた。

そして、炎のたてがみを散らす風にほどけて、熱の粒となり、森の奥へ帰っていく。

「……止めようとしたのに」

ルシフェルの声。

振り返れば、彼は私と獣の間に割って入る寸前の位置で、わずかに拳を握りしめていた。白い指に力がこもり、関節が薄く光る。

「あなたの力で護られたら、私は誰も護れない」

答えると、彼の目が一瞬だけ細くなった。

蒼が揺れ、唇が何かを言いかけて、飲み込む。

代わりに彼は歩み寄り、私の手を取った。そっと。けれど、有無を言わせぬ確かさで。

「ヒトの身で炎を扱うか。――命を削ってまで、何を得ようとする?」

彼の指が、私の掌の赤い花の縁をなぞる。

熱は引いたはずなのに、そこだけ鼓動がある。花弁が彼の体温を受けて、ゆっくり開閉する。

「あなたが信じる“生”の形を、私の手で掴みたい」

言って、私自身が驚く。迷いがない。

ルシフェルはほんの一瞬、目を伏せ、そしてこちらを見た。

その眼差しは、森の静けさより深く――人の温度を帯びていた。

「……愚かだ」

低く、短く。だが、その次の言葉は、もっと低く、もっとやわらかかった。

「なら、俺はその愚かさを愛そう」

“愛”――

初めて耳にするその音が、私の内側で遠くまで反響した。

羽の紋が一度だけ明るく脈打ち、森の空気がそれに合わせて小さく震えた気がする。

彼は私の手を離さないまま、私の額に触れた。

指先が熱でも冷でもなく、安心の温度を持つ。

そこに、彼の声が届く。

「庇護は、支配ではない。――共に生きることだ」

私は頷く。

赤い花が、うん、と答えるみたいに震えた。

見渡せば、黒霧は完全に消えている。

折れていないはずの草が、踏まれた場所だけ少し寝て、そこに朝の光が水平に差していた。

森のどこかで小鳥が泣く。遅れて、遠くの枝が揺れる。

「行きましょう」

私が言うと、ルシフェルは指を絡め直した。

彼の歩幅に私の歩幅が合い、踏むたび、林床の苔が柔らかな音を立てる。

「どこへだ?」

「あなたが言った場所。私が奪い返すもののある場所へ。

 ……まずは、この森の深いところ。火のひとが待っている」

ルシフェルが微かに笑う。

その笑みは昨夜よりも、少しだけ人間に近い。

「よかろう。お前が選んだ道だ。俺は退ける障りを退け、必要な時だけ、世界を傾ける」

「必要な時だけ、ね」

「今は、まだ」

彼の言葉に、羽の紋が薄く灯る。

赤い花も、同じ拍で揺れた。

私たちは並んで歩き出す。枝が遠ざかり、道が細くなり、光が濃くなっていく。

森は私たちの歩みに合わせて、呼吸を整えた。

――その瞬間、庇護は“契約”を越え、“絆”へと変わった。

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