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精霊王 ―白き契約―

Penulis: 吟色
last update Terakhir Diperbarui: 2025-10-10 17:12:46

霧が薄くほどけ、森の奥に静止した水面が現れた。

湖――と呼ぶには、風がなさすぎる。鏡のような平らさは、空と地の境目を消し、私の立っている場所が上下どちらなのかさえ曖昧にする。空気は澄みすぎて、吸い込むたびに胸の奥がきゅっと痛い。

(金の羽根……)

前話のあの羽根と同じ光が、霧の中からはらはらと降る。触れれば溶ける雪のように消え、代わりに温度だけが肌へ残る。

湖の中央に、淡い光柱が立ち上がった。そこだけ世界が息を潜めている。鳥の声も、葉擦れも、私の鼓動でさえ小さくなる。

私は湖畔へ進む。足元の草は踏まれても折れず、靴の裏から静かな温かさがじんわり昇ってくる。

水際で立ち止まると、鏡の下にもう一つの私が立っていた。微かに遅れて動くその影に、思わず指を伸ばしかけ――

光柱が、脈打った。

水が鳴る。波紋は外へではなく、内へ、ひとつ、ふたつ、と吸い込まれていく。不意に、そこに「輪郭」が生まれた。

最初は人の形を真似た光の塊。やがて白が髪になり、白が衣になり、白が肌の境目を描く。金でも銀でもない、“光”そのものを束ねて形にしたような色。瞳は透明に近い蒼――覗かれれば、自分の嘘が全部、静かに浮かぶ気がした。

私は息を呑んだ。膝がわずかに震える。

この存在の前では、呼吸することさえ罪のよう。

彼は、こちらを一度も見ずに、世界のどこか別の場所を確かめるように視線を巡らせ、それから私に焦点を合わせた。光柱が細り、静寂が濃くなる。

そして、声が落ちた。低く、美しく、森そのものが言葉を選んだみたいな声で。

「名を……呼んでみろ。お前の声で、世界が揺れるか、確かめたい」

名。

理解より先に、喉が鳴る。自分でも驚くほど自然に、音が形を得た。

「……ルシフェル」

波紋が走った。けれどそれは水面で広がらず、逆に私の足元から浮き上がる。重力が一瞬だけ方向を忘れ、水が小さな雫になって宙に持ち上がる。その雫一粒ずつに、金の羽根の反射が宿る。

彼はほんの少し、目を細めた。微笑みにも見えた。

「ヒトの娘よ。お前は“生きたい”と言った」

声は私の背骨を伝って胸に落ちる。「だが、生きるとは奪うことでもある。空気も、水も、誰かの時間も、居場所も。――それでも、俺に名を呼ばせるか?」

(奪う、か)

雨の石畳と、城の大広間と、蛍光灯の白。

私の中に積もっている“奪われたもの”が、一瞬で数え切れないほどの形に分かれる。

私は長く息を吐き、目を逸らさずに言った。

「なら、奪い返します。誰かに奪われたものを」

沈黙。

彼の視線が、湖面よりさらに静かに揺れた。やがて、微かな笑みが確定になる。

「面白い。――お前は、俺に似ている」

似ている。

褒め言葉なのか、警告なのか。多分、そのどちらでもある。

彼は光を少し解いて、ゆっくりと手を差し出した。指先に触れる前から、掌が熱い。

「来い」

一歩。

水は私の足を拒まず、重みが沈むより先に、光が受け止めた。

差し出された手の上に、自分の手を置く。――触れた、瞬間。

白が流れ込んだ。

痛みではない。けれど、甘すぎる熱。

掌から前腕、肩、鎖骨、胸の奥――心臓の殻が、静かに割れて開く。

視界の隅で湖が金色にほどけ、花弁のような薄い板になって風に舞い上がる。音はない。世界が拍を忘れて、ただ光だけが鳴っている。

「これは庇護ではない」

彼の囁きが、耳ではなく皮膚に触れる。

「お前が望めば、俺はお前を滅ぼすこともできる。――それでも、俺を選ぶか?」

脅しではない。約束の条件。

私は自分の掌に目を落とした。そこに、白い紋が浮かんでいる。

羽根。細い線が幾重にも重なって、飛ぶための形を描く。熱は次第に落ち着き、代わりに“重さ”が残った。逃げない類の重さ。責任と呼ぶには、あまりにも個人的で甘い。

「ええ」

私は顔を上げる。彼の蒼が、私だけを正確に映しているのがわかる。

「――あなたの声が、私を生かしたから」

光が爆ぜた。

裂けるのではなく、咲くように。湖面から立ち上がった花弁の群れが、金から白へ、白から蒼へと色を変えながら空へ散る。

髪が風に舞い、裾が羽のように浮く。目を閉じなくても眩しくない。眩しさそのものが、涙みたいに柔らかい。

やがて、光は落ち着いた。

湖はまた鏡に戻る。けれど先ほどまでと違うのは、鏡の中の私が、私と同じ速さで瞬きをしたこと。遅れがない。

私は掌の羽根をそっと撫でた。皮膚の上に確かに触れ、指先に小さな震えが返る。

「契約は済んだ」

ルシフェルが言う。その声には、少しだけ“人の温度”が混ざっていた。

「ヒトの名で呼べ。これからは、それに応じよう」

「ルシフェル」

呼ぶたび、世界がほんの僅か揺れる。確かめるように、もう一度小さく呼んでみる。

彼は目を細め、喉の奥で笑う気配を見せた。威厳も神性も崩れないのに、なぜか“やさしい”とわかる。

「覚えておけ、エリカ」

彼は私の名を、ゆっくり確かめながら発音する。

「選ぶという行為は、同時に捨てることだ。奪い返すと決めたお前は、その道で必ず血を見る。……それでも、手を離すな」

「離しません」

迷いがない自分の声に、私がいちばん驚く。

彼は満足げに頷くと、指先で私の髪の端を摘み、風に返すように放した。

その仕草ひとつで、さっきまでの“神域”が、不思議と“現実”に馴染む。

「行こう」

「どこへ?」

「お前が奪い返す場所へ。まずは――この森が、お前をどう試すかを見せる」

ルシフェルは顎で湖の対岸を示す。霧が低くなり、木々の間に細い道が現れていた。

「そして、俺の王国へ」

王国。

森全体が微かにざわめいた気がした。歓迎とも警告ともつかない波紋が、足元へ寄せては返す。

私は頷く。掌の羽根が鼓動に合わせて一度だけ明滅した。

「――行きましょう、ルシフェル」

二人で歩み出す。

水は濡れなかった。光が靴底を持ち上げ、湖面を柔らかく渡らせる。

金の羽根はもう降らず、代わりに白い光が、遠くの樹冠で星のように瞬いていた。

その日、世界は彼女を“精霊王の契約者”として記録した。

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