Share

追放路 ―物語の外へ―

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-08 17:31:47

夜が明けきらない空の下、王都の外れに馬車だけが置き去りにされていた。

御者台には誰もいない。戸板は開いたまま、冷たい風が布張りの座席を撫でていく。石の街道に靴底を下ろすと、薄霧が足首のあたりでほどけた。

(ゲームでは、ここで“死亡エンド”だった。

 けれど私は、終わらせない)

門の方を振り返らない。振り返れば、きっと弱くなる。

街道は北へ延び、畑はまだ眠っている。鳥の声はなく、遠くで誰かが薪を割る音が一度だけした。私はフードをかぶり、歩き出す。靴音だけが、世界の音になった。

やがて、雨が落ちてきた。最初の一滴は不意打ちだったが、すぐに粒が増え、薄墨色の朝を細かく刺す。私は並木の一本、太い根の陰に身を寄せる。濡れた樹皮の匂い。指先がかじかむ。胸の内のどこかが、遅れてきしんだ。

(泣く相手は選ぶものよ――そう言ったくせに、私は、誰のために泣いたの?)

父の横顔が脳裏に差し込む。灰色の瞳は泳ぎ、沈黙は石のように重かった。

印章を押す手――あのとき、確かに震えていた。

家を守るために娘を切る、その理屈が正しいと信じたい父の手が。

それでも、紙は濡れず、判は俯く私の最後を押し固めた。

(責めない。責めない代わりに、二度と頼らない)

雨脚が強くなる。裾が冷え、その冷えが骨に入る。

視界が少し滲んだ。涙か、雨か、自分でも判然としない。

私は膝を抱えて座り込み、額を腕に預けた。

前世の断片が、雨粒の間に割って入る。

――長机の上には、案件のファイルが積み上がっていた。

「今回はエリカさんの落ち度ということで。みんなのために、ね」

笑っている上司。

私は笑って頷いた。皆が助かるなら、と。

夜の社内で、蛍光灯の音だけが響いていた。

帰り道、コンビニのガラスに映った顔は、知らない人みたいに白かった。

(あの頃と同じ。逃げたくても逃げられない“役割”。

 ――なら、私が役を選ぶ)

私はゆっくり立ち上がった。濡れたドレスが重い。けれど足は、もう前を向いている。

呼吸を整えて、ひとつ吐く。

「逃げない。もう、逃げる物語なんて要らない」

雨は少し弱まった。枝葉から雫が落ちる音が規則正しく続く。

その規則に、ふい、と異物が混ざった。

からん。

鈴のような、金属でも氷でもない、澄んだ音が、遠くで一度だけ鳴った。

顔を上げる。霧が濃い。並木の向こう、見慣れた田畑の輪郭が薄紙の向こう側みたいにぼやける。

(今の、なに?)

耳を澄ます。雨音、呼吸、心拍――そして。

からん、からん。

今度は二度。一定の間を置いて、霧の奥から、こちらをたしかめるように。

私は並木を抜け、畔道に足を踏み入れた。泥が靴底に粘り、冷たさが踵に上がってくる。

それでも歩く。

道の先の霧が、内側から微かに明るい。

光の粒が浮いている。蝶の形を真似たような、けれど羽ばたかず、呼吸するみたいに膨らんでは縮む光。

一ひらがこちらへ漂い、私の足元すぐで、淡く弾けた。

足跡のわきに、小さな光の水溜まり。そこだけ雨が優しかった。

「……誰?」

声が霧に吸い込まれ、返事は来ない。代わりに、耳の近くで風が揺れる。

風は寒くない。頬に当たった瞬間、緊張がほどける種類の温度。

囁きがそこに乗った。

――こちらへ。

女でも男でもない声。

命令でも救済でもなく、招く響き。

私は片手でフードを押さえ、もう一度周囲を見回した。

畑の奥、立て札が朽ちている。古い黒塗りの文字が、雨に滲みながら読めた。

《禁域 北の境 立入るなかれ》

(禁域の森。ゲームのルートでは、ここに足を踏み入れた者は戻らない。

 戻らないほうが、王都にとって都合が良いから)

足の泥が重く、心は不思議と軽い。

私は右足を一歩、掲げる。雨粒が睫毛から滑ちる。

(誰もいないなら、私が歩く。

 誰も許さないなら、私が守る)

口に出すと、言葉は思っていたよりも暖かかった。

喉の奥の冷たい塊が、少し溶ける。

「誰もいないなら、私が歩く。誰も許さないなら、私が守る」

光の粒が増えた。足元から道が描かれていく。

草についた露が線になる。霧が左右へ分かれ、木々の影が奥へ奥へと繋がる。

薄暗いのに、怖くない。

呼ばれているのだと、無根拠にわかる。

歩み出すと、靴裏の泥がはがれ、土が柔らかく沈んだ。

背中の雨が薄くなっていく。枝葉の上で最後の雫が震え、落ちる前に光に変わった。

空気が変わる。湿った石の匂いから、白い樹液の甘さへ。

遠くで、また鈴が鳴る。今度は三度。合図みたいに。

私は一度だけ立ち止まり、王都の方角を振り返る。霧が景色を隠し、何も見えない。

だから目を前に戻す。

(ここからだ。私の物語は、ここから始まる)

指先はまだ震えている。泥は落ちきらず、裾は重い。

それでも、笑えた。

――そして私は、物語の外へ歩き出した。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 悪役令嬢に転生したけど、追放された先で精霊王に溺愛されました   名を渡す ―祈りの再定義―

    聖具庫は静かだった。金具は冷たく、紐は乾いている。割れた鈴は、鳴らないまま、低く脈を打つ。「高さ、このまま」リオンが紐を指の腹で支える。結び目は動かさない。棚の瓶の水面が、半拍遅れて落ち着く。ルシフェルは鈴片の接ぎ目を目だけで追った。胸に手は置かない。呼吸は一定だ。扉の内側で、二人の息がそろう。木目の温度が、指の腹に移る。「……保て」ルシフェルが短く言う。声を強くしない。喉の力を上げずに、場を支える。外の空気は薄い。輪の唸りは遠くに下がって、草の先で止まる。「聞こえる?」私は扉に額を寄せず、口形と息だけで落とす。舌先を湿らせて、音を乗せない。脈が、わずかに返事をした。耳ではなく、指先でわかるくらいの強さ。「……エリカ」内から私の名が落ちる。ためらいはない。息がぶつからない。「うん。ここにいるよ」私は小さく答える。声は立てない。それでも、届く。棚の瓶の皺が一つ消えた。逆鐘は鳴らずに、脈だけを刻む。「名で行こう」リオンが紐を持ち替え、顎で合図する。紐は引かない。支えるだけ。私は喉を使わず、唇の形だけで置く。「ルシフェル」扉の木目が、指先で温かい。間を半拍だけ置いて、内側の声が返る。「……ここに」壁の灯が一つ、白く点いた。小さく、一定。すぐ揺れをやめる。同時に、輪の縁の圧がひと目盛りだけ下がった。私は息を吸い直す。深くは吸わない。肩で止める。「もう一度」間を短くして促す。「エリカ」今度はまっすぐに来る。怖さは混じらない。輪の縁が薄くしぼみ、靴裏のぐらつきが消えた。前のめりの重心が、自然に後ろへ戻る。外の列で、肩が連鎖的に落ちる。柄から指が外れ、戻らない。「隊長、どうします」兵の声は上がらない。距離を崩さず、息だけ問う。「上げない。耳、休めて」ミレイユの声は柔らかい。顔は見せない。剣に手は行かない。「命令は進攻で」「だから、休めるうちに。倒れる前に下がるの」短く、そこで止める。列の重心が、わずかに後ろへ下がった。扉は静かに立っている。私は掌を木目から外さず、熱を確かめる。「前、見て。半拍、落として」内側からリオンの合図。紐はそのまま。圧は上げない。私は名をもう一度、口形で置く。「ルシフェル」「ここに」内側の呼気は乱れな

  • 悪役令嬢に転生したけど、追放された先で精霊王に溺愛されました   沈黙を渡る言葉 ―名を呼ぶために―

    聖具庫の前はひんやりしていた。金具は指の腹で冷たい。紐は乾いていて、少しざらつく。割れた鈴は、口を閉じたまま黙っている。「ここで合わせよう」リオンが棚の奥から薄い紙を抜いた。角が擦れて、文字はところどころ薄い。“逆”の字だけが、はっきり残っていた。「鳴らすんじゃない」ルシフェルは目を細める。扉の向こうの息が整うのを待って、短く続けた。「黙ってるほうを……揺らす」「うん。じゃあ、俺が紐。君は欠片を」リオンが結び目を一度ほどき、指で撫でて柔らかさを戻す。紐のきしみが小さく逃げる。私は鈴の欠片をそっと持ち上げた。重さはあるのに、冷えは薄い。「待て」ルシフェルの指が私の手首に触れる。脈は乱れていない、という合図。私は顎だけで返す。回廊の灯は二つのまま。聖具庫の奥には古い布と瓶。赤い果実の匂いが、どこかにまだ残っている。「向き、合う?」リオンが言う。私は欠片の縁を、元の鈴の割れ目に並べる。ぴたり、とまではいかない。それでも、口が閉じた形に近づく。「今」ルシフェルの声は短い。三人の呼気が、同じ高さに落ちる。リオンが紐をわずかに引く。私は欠片を、重ねるだけで押さえない。鳴らない。ただ、耳の奥の圧が少しほどけた。棚の瓶の中で水が静かに落ち着く。金具の冷えが、痛くない。「来てる」リオンが低く言う。私はうなずかない。目で受け取る。ルシフェルは鈴から視線を外さず、呼気を浅く切り替えた。「もう一度、合わせる」リオンが合図する。私は欠片の角をほんの少しだけずらす。紐は引かない。維持する。保ったまま、次の呼気まで耐える。空気が一枚、軽くなった。輪の縁に目に見えない段差ができ、息がそこをまたいで流れた。誰も声を出さない。それでも、聖堂全体が小さく息を返した気配だけがある。「道、できた」ルシフェルの目が細くなる。痛みは来ない。彼の肩が、半分だけ落ちる。扉のほうで、木目が静かに温かい。叩かない扉は、そのまま立っている。リオンは掌を一度だけ開閉して、指先の血の通いを確かめた。外は輪の唸り。押し出す音はないのに、言葉は剥がされていく。それでも、今はわずかに通り道がある。「ねえ」私は扉へ近づかず、呼気だけ揃える。「大きな声はいらないよ。ここで、息を合わせよう」外にいる私は、唇を

  • 悪役令嬢に転生したけど、追放された先で精霊王に溺愛されました   沈黙の取引 ―囮と扉―

    扉は叩かない。木目は静かに温かい。金具は指先で冷たい。「無事……で、よかった」リオンが低く言う。息は短く区切られている。「そっちこそ。鎧、重くない?」私は笑いに寄せる。声を上げすぎない。ルシフェルは扉の縁に目を置いたまま、私の手首へ指を乗せる。脈は落ち着いている。彼は視線だけで合図した。「離れるな」「離れない。……今は」一瞬だけ、肩が触れた。抱きしめるほどではない。それでも体温は渡る。外気がわずかに揺れて、草の先が伏せた。封声の輪は門の前で薄く唸り、音を剥いでいく。息の音さえ、すぐに浅くなる。「輪を、半歩だけ下げて」リオンが顎で示す。兵の肩が一段下がる。輪は土の上で小さく軋み、位置を譲った。場が整う。誰も座らないのに、席ができた。扉は真ん中に、息の通り道のように立っている。「ねえ……誰も傷つけないで」私は扉の木目を見たまま言う。言い切らずに止める。「私が出るから。……静かに来て」輪の縁から、柔らかい声が届く。姿は見えない。距離は守られている。「声は止めるだけ。痛くしない」女の声だ。落ち着いていて、急がない。「それが一番、痛い時もある」リオンが低く返す。目は前だけを見ている。ルシフェルの指が脈を一度押す。軽い強さだ。止めというより、合図。「待て」私はうなずかない。目で答える。胸の奥で息を折りたたむ。輪の内側で、兵の誰かが柄へ指をかけた。金具がかすかに鳴る。前へ出る筋肉の動きが、空気に混じった。リオンが顎をわずかに落とし、視線だけで前を切る。半拍、落ちる。指が柄から離れる。肩の力が流れた。足音は生まれない。土は柔らかく受ける準備だけをしている。「叩かなくていいよ」私は扉に額を寄せないまま言う。「ここで、呼吸を合わせよう」「壊す前に、読む」輪の向こうで女が小さく言った。紙片を揃えるような、平らな音が一つだけ続く。剣に手は行かない。赤い果実の匂いが、扉の陰でまだ薄く残っている。昨日の灯が、空気の奥で冷めないまま座っている感じ。私は舌の奥で甘さを探さない。「私が行く。……すぐ戻る」「約束」ルシフェルが目を逸らさず言う。手首の脈に触れた指は離れない。「うん。嘘じゃない」扉の木目は温かいまま。輪は半歩後ろで薄く唸り、息を剥いでいる。空

  • 悪役令嬢に転生したけど、追放された先で精霊王に溺愛されました   静けさを破る灯 ―届かないけど届く―

    井戸の縁まで戻った。冷えは薄い。手のひらの温度で、石が静かに落ち着く。「言葉、置いていくね。……願いだけ」私が囁くと、ルシフェルは頷き、脈に触れた。指先が軽い。落ち着いてる、という合図だけが伝わる。小さな机から赤い果実を一つとる。爪で浅く入れて、半分に割る。においは甘いのに、喉は乾かない。「半分だけ、落とす」「待て。戻れない感触が来たら、すぐ手を」「うん」片割れを、井戸の面にそっと触れさせる。落ちる音はしない。吸われる。面が、息をひとつだけしたみたいに薄く動いた。赤が灯に変わる。井戸の底から、細い帯が立ち上がる。天の穴へ向かって伸びる。音はないのに、胸の奥が少しあたたかい。「……行った、と思う」「脈、問題ない。ここで止める」彼は果実のもう半分を私の手の中に戻させ、井戸から半歩離した。帯は途切れない。薄く、上へだけ進む。床のひびが静かに呼吸している。私は深く吸わない。肩の高さで止める。「ことば、いらなかったね」「今は、そのほうがいい」天窓の向こうで、細い光が一度だけ瞬(まばた)きをした。街の夕方は、ちょうど灯が入るころだった。露店の上の角灯が揃って、ごく短く明滅する。誰も理由を言わない。けれど、顔が上がる。「今、光……」子どもの声に、親の手が止まる。「風かも。……でも、きれい」笑い声が小さくこぼれて、すぐ戻る。通りはいつもどおりなのに、目の奥だけが明るい。森の縁では、封声の輪の下で列が息を合わせていた。輪は音を剥がし続けている。それでも、空のほうから細い帯が降りてきて、重なりの間に狭い道を作る。「前を見て。半拍、落として」リオンは顎で合図し、目で数える。先頭の兵の足が石に噛んで、膝がわずかに揺れた。握っていた柄が、すべり落ちる。肩の力が抜ける。「今なら……」看視役の騎士が、誰にも聞こえないくらいの声で言う。リオンは目だけで返す。「借りる。戻す時は静かに」輪の内側で、光の細い帯が道になる。音のない道。誰も喋らないのに、進む場所だけがはっきりする。廃聖堂の井戸は、まだ薄く灯っていた。赤い帯は、呼吸に合わせてわずかにゆれるだけで、荒れない。「もう一度は、しない」「うん。半分で十分」果実の片割れは机に戻した。皿が小さく鳴る。私は手のひらを見た。果汁はすでに乾き始めていて、匂いだけが

  • 悪役令嬢に転生したけど、追放された先で精霊王に溺愛されました   残響の回廊 ―忘れた名前たち―

    回廊は冷えていた。壁は浅く磨り減って、指でなぞると粉の匂いがした。床に落ちる息が、静かに戻ってくる。「少し、歩こ。……触るだけで、何か起きる気がする」私が言うと、ルシフェルは短くうなずいた。視線だけを先にやって、足はゆっくり。壁の刻印は、羽と蔓と、雨の滴みたいな小さな線。私は羽に指を置く。ほんのわずかに、空気が揺れる。泡が、ひとつだけ、遠くで割れる音がした気がした。「呼んでみるね。……短く」「待て。脈、速い」手首を取られて、息をひとつ整える。私は目で合図した。「だいじょうぶ。今は」「半歩、離れて」言われたとおりに下がる。壁の冷たさが、指先から少し抜けた。「……じゃあ、呼ぶよ」「来い、じゃない。名を」「うん」私は正面を見て、息の端だけを残す。「ルシフェル」彼は目だけでこちらを見た。喉が動く。声は小さいのに、よく届いた。「ここに」回廊の灯が一つ、やわらかく立った。胸の圧が、指一本ぶんだけほどける。「今の、いいね」「増やさない。二語まで」彼は視線で釘を打つみたいに合図した。私は肩を落として、笑うだけにした。回廊の角に、小さな机があった。赤い果実が一つ、皿の上に静かに置かれている。触らない。見ているだけで、落ち着いた。「まだ、呼ぶ?」「……一度だけ。返事までで止めよ」私はうなずく。手首の脈を、彼の指が軽く押さえた。速くない。たぶん、大丈夫。「ルシフェル」「いる」二つ目の灯がついた。明るいわけじゃない。でも、足の力が、少し戻る。「……この感じ、覚えとく」「忘れないうちに、止める」彼は聖具庫のほうへ目線を送った。割れた鈴が、棚の上にそのままある。触れない。今はそれでいい。回廊の奥に、風が一度だけ通った。私たちは同時に息を吸って、そして離した。灯は二つのまま、揺れない。外の空気は、樹の匂いが濃い。森の縁を、封声の輪を掲げた隊列がゆっくり進む。金具は鳴らないのに、足音だけが地面に吸い込まれていく。「見る。前だけ。……半拍、落として」リオンが列の先に目をやり、顎で小さく合図した。先頭の兵の足が石に噛んで、膝がわずかに揺れた。若い兵が一度だけ息を詰め、柄から指を離す。歩調が、ほんの半拍だけ遅れる。列の端で握られた柄が離れ、肩の力がほどけた。「はい」輪が空気を

  • 悪役令嬢に転生したけど、追放された先で精霊王に溺愛されました   廃聖堂 ―声の井戸―

    門の向こうは、思ったより暗くなかった。石の匂い。苔の湿り。床のひびから、淡い明かりがにじむ。「ここ、静かすぎて……息の音が大きいね」私が言うと、ルシフェルは壁に手を当てた。爪でひっかいたみたいな痕に、指をそっと重ねる。「……ここ、前にも」「思い出せそう?」「まだ」彼は首を振らず、ただ瞬きを一度。指先だけが、覚えているみたいに止まった。「無理は、しないで。ね」歩くたび、靴の裏がやわらかく鳴る。聖堂の中央に、浅い窪み。井戸みたいに丸い縁。私は縁に膝をつき、そっと覗いた。暗くない。音でもない。――小さな泡がぽつぽつ上がって、消える。「音じゃなくて……泡、みたい」ルシフェルも覗く。息が、わずかに浅くなる。縁に刻まれた古い“羽”の印へ、彼の指が吸い寄せられる。ぴたり、と重なる。「……眠れない、子……」「え?」「夜、寒い。胸、速い。——怖い。って」「昨夜の人たちと、同じ……」「これ、聞きすぎると、こっちが沈むね」「……だから、“待て”」井戸の面に、薄い赤が立った。赤い実の光と似ている。熱はないのに、胸があたたかくなる。「ねえ、これ、“祈り”じゃない。もっと、息に近い」「……吐いて、落ちる。誰かの中から」「うん。命令の言葉じゃない。お願いの……できそこない、みたいな」彼は小さく息を吐き、羽の刻印から指を離した。指の先だけ、まだ何かを掴んでいるみたいに震えている。「休む?」「大丈夫。——じゃ、ないか。……平気に“する”」「それ、逆。ちょっと座ろ」私は自分の外套を折って縁に敷いた。彼は素直に腰を下ろし、肩を壁へ預ける。呼吸がゆっくり整っていく。*その頃、森の外。封声の輪を掲げた小隊が、列を組んで進んでいた。金属は鳴らないのに、空気だけが硬い。「刃は抜かないで。今、抜くと……誰も話せない」リオンが列の脇に立ち、低く投げかける。若い修道騎士が眉を寄せる。「命令は……」「命令、守るなら。まず息。揃えよう」修道兵(柄に触れかけ)「……」リオン「手、離して。吸って——吐いて」兵の指が柄から滑り、歩調が半拍遅れる。彼は列を見渡し、顎で合図。二拍、間を作ってみせる。兵たちの肩が、少しずつ落ちる。歩みが半拍だけ遅くなる。修道騎士は視線だけで頷いた。輪は鳴らないまま、周りの音を一枚ずつ剥いでいく。*

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status