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第14話

作者: 人間よわみ
拳が肉に食い込む鈍い衝撃音が、リビングに響き渡った。

陽菜乃の悲鳴は、次第に掠れ、途切れ、ついには音にならなくなる。まるで水揚げされた魚のように痙攣しながら、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしてわめいた。

「ご、ごめんなさい、おじさん……私、親のいないクズで……ただ家族が欲しかったんです……だから、嘘を……」

突如として、彼女は誠一のズボンの裾にすがりつき、額を床に叩きつけて、紫色の痣を浮かび上がらせた。

「許して……もう二度と嘘はつきません……お願いです……お願い、命だけは……!」

誠一の目は血走り、彼女を見下ろす瞳には、怒りと迷いが渦巻いていた。

だが、その手から返ってきたのは、さらに激しさを増した拳の嵐だった。

そして——すべての暴力が止んだとき、陽菜乃はまるで路傍に捨てられた死骸のように、ぐったりと床に横たわっていた。意識は薄れ、息はかすかだった。

「……父さん」

凜士の声は、氷底から絞り出されたように冷え切っていた。

「……あの日の事故で……俺に輸血したのは、誰だったんだ?」

誠一の身体が、びくんと震えた。

そして、次の瞬間——

「パチン!パチン!」

激しい音とともに、自らの頬を力任せに叩き始めた。

「……澄月だ……お前の姉さん、澄月が……!」

髪を掴み、喉が裂けそうな声で叫んだ。

「俺が……全部俺が悪かった……!陽菜乃へのお前の敵意を少しでも和らげたくて……俺が、あんな嘘を吹き込んだんだ……!病院には、澄月が採血した記録がちゃんと残ってる……!」

父の口から真実が語られた瞬間、凜士の瞳孔がぎゅっと縮まり、ソファの革張りに立てた爪が、深く白い五本の傷痕を残した。

彼は頭を仰け反らせると、胸の奥から裂けるような叫び声をあげたが、悲鳴は頂点で断ち切れ、彼の身体は崩れるように仰向けに倒れ、そのまま気を失った。

誠一は慌てて息子を抱きとめ、胸が張り裂けるような思いでその顔を見つめた。

すべては、自分の過剰な偏愛が引き起こした——その事実が、心臓をえぐった。

彼は、沈黙する慶悟に縋るような目を向け、喉を震わせながら問いかける。

「……澄月の手がかり、見つかったのか?

俺も一緒に探す……土下座してでも、謝ってでも、澄月を連れ戻して、償わせたいんだ!」

だが、慶悟の瞳には、もはや何の感情も浮かんでいなかった。

拳をきつく握
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