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第6話

Author: 静かなる水の舟
その問いに、智也は迷いなく答えた。

「もちろんだよ!

俺の大好きな千歳が産んでくれる子なんだから、誰よりも楽しみにしてるに決まってるだろ?

それでね……今、新しい広い別荘を探してるんだ。ベビールームもちゃんと用意できるやつ。

そうすれば、赤ちゃんが生まれる頃には、空気もキレイになってて、オモチャも全部揃ってて――完璧だろ?」

目を輝かせて夢を語る智也は、まるで少年のようだった。

そのあと、千歳の肩に顔を寄せ、鼻先で彼女の頬をくすぐるように擦り寄る。

「千歳……ありがとうな。

辛い思いさせてごめん。でも、これからは完璧な夫になるから。何でも君のためにするよ」

千歳は何も答えなかった。

会社のレクリエーションから戻って以来、智也は以前にも増して優しくなった。

会議をキャンセルしてでも、千歳のそばにいようとする。

あまりに露骨で、もう外の人間には隠せないほどだった。

周囲も、「ああ、また始まったか」というように納得していた。

ネットでは、智也が「妻バカ」と「子どもバカ」の二冠王に認定されていた。

でも――

それが「真実」じゃないことを、千歳だけが知っていた。

朝、智也と一緒に散歩をしたあと、

「残業がある」と言って別れた彼の背中を見送った三十分後。

千歳のスマホには、一通のメッセージが届く。

真理奈からだった。

添付された写真には――

智也と真理奈が、手を重ね合わせている姿が写っていた。

【ねえ、智也が本当にあんただけを愛してると思ってるの?

あんたの知らないところで、ずっと私のそばにもいてくれてるのよ】

昼、智也が作ってくれた手作りのランチを食べたあと、またしても三十分後。

再び届いたメッセージ。

【正妻だからって、何?私だって、同じ味の料理を、彼の手から食べてるの。何も変わらない】

夜――

智也は「一緒に寝よう」と千歳に言った。

けれど、帰宅前には必ず真理奈のもとへ立ち寄る。

千歳のスマホには、何度も真理奈からの写真が届いた。

ベッドの中で、上半身裸の智也が、同じく裸の女を抱いて眠っている姿。

その首元には――

明らかな、ふたつの歯型が残っていた。

添えられていたメッセージには、こうあった。

【あんたの男は、私だけのものよ】

千歳は、その写真をただ黙って保存するだけだった。

――そして、十五日の前日が訪れる。

その朝、千歳は智也に言った。

「大学に行ってみたいの。ちょっとだけ……昔を思い出したくなって」

ふたりが出会ったのは、大学院を卒業した年だった。

専門は違ったけれど、同じ指導教員の紹介で知り合い、恋に落ちた。

結婚式では、その恩師が祝辞まで贈ってくれた。

だから――

終わりにするのなら、その場所をきちんと見届けたかった。

千歳の言葉に、智也の手がぴたりと止まる。

けれど、すぐに笑顔を作って答えた。

「もちろんいいよ、千歳」

そして彼は、自ら運転して車を走らせた。

学校の正門に着いたとたん、突然スマホが鳴る。

智也は一瞥するなり、すぐに車を降りて電話に出た。

数分後、戻ってきた彼は、申し訳なさそうな顔で千歳に言った。

「千歳……ごめん、急に仕事でトラブルが入って。先に戻っていいかな?

ここで少し待ってて。すぐ戻るから」

その瞬間、千歳のスマホが鳴いた。

真理奈からだった。

【何であんたが智也を独り占めするの!?今この時間、あの人は私のそばにいるべきなのに!】

……そのとき、千歳の胸の中に浮かんだ感情は、もうよく分からなかった。

落胆?

――そんなもの、とうに通り過ぎている。

千歳は静かに頷き、車を降りた。

智也は、去っていく千歳の背中を、車の中からじっと見送った。

不思議なことに――

こういうことは、智也にとっては何度も繰り返してきたことのはずだった。

けれど、今回はなぜか、胸の奥にざわつくような不安が残っていた。

その理由は、自分でも分からない。

ただ、スマホから響く着信音が急かすように鳴り続け、智也はそのまま慌ただしく車を走らせた。

――その頃。

千歳は、ひとりで大学のキャンパスへ向かっていた。

校門のそばにある掲示板。

そこには、いまもなお――智也が「伝説の卒業生」として紹介されていた。

若き日の智也の、大きな写真がそのまま掲げられていた。

少し幼さの残る顔立ちに、凛々しく整った目鼻立ち。

写真の中の彼は、まさにあの頃、千歳を一途に愛していた青年そのものだった。

千歳はその写真を見つめ、ぽつりとつぶやいた。

「……智也。私たちの縁は、これで終わりね」

そう言い終えると、すっと踵を返して立ち去った。

向かった先は、病院。

ちょうど午後二時。

千歳は冷たい手術台の上に横たわり、最後の時間を、まだお腹の中にいる小さな命に捧げた。

「……ごめんね、赤ちゃん。

ママは、あなたが生まれてくるのをすごく楽しみにしてた。でも……パパの裏切りを知ってからは、あなたを迎えるのが正しいのか分からなくなったの。

あなたに辛い思いをさせたくない。だから――これが、ママなりの『責任』なんだ。

バイバイ、赤ちゃん」

静かに、涙が頬を伝った。

……

一時間後。

千歳は顔色の悪いまま目を覚ました。

身体はまだひどく弱っていた。

――たった今、彼女の中から、血のつながった存在が奪われたばかりだった。

でも、心だけは静かに澄んでいた。

スマホを手に取ると、またしても真理奈からメッセージが届いていた。

内容からして、智也はまだ真理奈の元を離れられていないらしい。

それを見て、千歳はようやく安心したようにベッドを降りる。

自宅に戻ると、あらかじめ用意していた身分証や書類を取り出し、離婚届の封筒を開ける。

その中に、今しがた病院で受け取った中絶同意書をそっと差し込んだ。

家をひととおり見渡してから、最後に一度だけ――

この「家」を見つめた。

そこは、かつて幸せだと信じていた場所だった。

そして千歳は、その扉を開けて外へ出た。

もう二度と、この家には戻らない。
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