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いつも他人に向かう夫なんて、もう要らない

いつも他人に向かう夫なんて、もう要らない

作家:  ばくちくばくばく完了
言語: Japanese
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概要

切ない恋

ひいき/自己中

愛人

クズ男

後悔

妻を取り戻す修羅場

出張から3日ぶりに家へ戻ると、娘・山崎奈々(やまざき なな)が勢いよく私・山崎美咲(やまざき みさき)の胸に飛び込んできた。 「ママ、お帰り。会いたかった! ねえ、ママ、奈々ちゃんは、この3日間ずっといい子にしてたんだよ。 ほら、おうち、きれいでしょ?」 確かに部屋はきれいだった。 だが、ゴミ箱の中にはカップラーメンの容器と食パンの袋ばかりが詰まっていた。 胸騒ぎを覚えた私はリビングに設置してある防犯カメラの映像を確認した。 1日目の夜。 奈々は一人でソファに座り、テレビを見ていた。 そのまま眠ってしまい、ソファからずるりと滑り落ちて床へ転がる。 助けてくれる人は誰もいない。 奈々は自分で起き上がると、枕を抱え、そのまま床で眠り続けた。 2日目の朝。 奈々は小さな椅子を踏み台にして、棚の上にあるカップラーメンを取った。 電気ケトルでお湯を注ごうとしたが、重すぎて手元が狂い、お湯をテーブルいっぱいにこぼしてしまった。 熱さに思わず手を引っ込めたものの、泣きもせず、一人で洗面所へ駆け込み、冷たい水で手を冷やしていた。 3日目。 熱が出たらしく、奈々は体温計を握りしめ、カメラに向かって小さく笑った。 「ママ、これ見えてるかな。 奈々ちゃんは、ちょっと熱があるけど、大丈夫。 心配しないでね」 そう言うと、自分で解熱剤を探し出して飲み込んだ。 丸3日間、夫・山崎宗介(やまざき そうすけ)は、一度も家へ帰ってこなかった。 彼のインスタを開いて見ると、三日前の位置情報は、あるリゾートホテルだった。 滝川真紀(たきがわ まき)の投稿も、嫌でも目に入った。 【山崎さん、ありがとうございます♡ 花梨(かりん)ちゃんは海を見るのが初めてです。とっても楽しそうでした】 私は防犯カメラの映像をすべてUSBメモリに保存した。 それから奈々の前にしゃがみ込み、ぎゅっと彼女を抱きしめる。 「奈々ちゃん、もう一人で頑張らなくていい。 これからは、ママがどこに行っても、必ず奈々ちゃんを連れていくから。 お父さんなんて、もういらない」

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第1話

第1話

奈々を抱きしめたまま、私は全身の力が抜けた。

防犯カメラの映像が脳裏に焼きつき、何度振り払おうとしても消えてくれない。

まだ5歳の子供が、3日3晩、たった一人で過ごしていたなんて……

私は奈々をそっと離し、その顔を両手で包み込み、覗き込んだ。

左の頬骨には大きな青あざがある。

ソファから落ちたときにぶつけたのだろう。

あごには小さな擦り傷ができ、黒ずんだかさぶたになっていた。

そっと手を取って見ると、袖の下には、真っ赤に腫れ上がった火傷の跡が広がり、いくつもの水ぶくれができていた。

破れた水ぶくれからは、薄黄色い浸出液がにじんでいる。

その瞬間、涙があふれた。

「痛かったでしょう?」

奈々は慌てて手を引っ込め、小さく首を振る。

「ううん。醬油塗ったの。ひんやりして、もう痛くないよ」

まだ5歳の子どもが熱湯で火傷をした時、思いつく応急処置が醬油を塗ることくらいだろう。

20分以上流水で冷やさなければならない。水ぶくれが破れれば感染するおそれがあるから、すぐ病院に行かなければならない。

そんなことは、彼女が知るはずもない。

その間、父親である宗介は何をしていたのか。

ほかの女性の子供を海へ連れて行き、ワインを飲み、写真を撮ってSNSに投稿していた……

私は宗介とのチャット画面を開いた。最後のやり取りは、3日前で止まっている。

出張へ向かう前、私は次のメッセージを送った。

【家政婦の山田さんは今週、家の都合でお休みなの。

だからこの3日間は、必ず時間どおりに帰って奈々ちゃんの面倒を見てね】

返事は、【了解】という2文字だけだった。

それから3日間、メッセージは一通も届かず、電話も一本もなかった。

私は宗介に電話をかけた。

何度かコールが鳴った後、ようやく繋がった。

向こうは騒がしく、ショッピングモールのような雑踏の音が聞こえる。

子どもたちの楽しそうな笑い声まで混じっている。

「帰ってきたのか?」

今日の天気でも聞くような、気楽な口調だった。

「宗介、この3日間、一度も家に帰ってないじゃない」

「ああ、急に仕事が入ってさ。でも、山田さんに頼んで……」

「山田さんは休みだって、出発する前にちゃんと伝えたでしょう?」

受話器の向こうが、ぴたりと静まり返る。

「……奈々ちゃんは?無事か?」

無事って?

私は奈々へ目を向けた。頬の青あざ、あごの傷、そして目を覆いたくなるほど痛々しい手の甲の火傷。

「よくそんなこと言えるわね。奈々ちゃんは、高熱を出したのよ。自分で解熱剤を飲んだけど。

それから、ソファから落ちて顔をぶつけた。

熱湯で手を火傷して、水ぶくれまで破れてる。

それでも無事だって言うの?」

私の声はずっと震えていて、ほとんど叫ぶようにして絞り出していた。

しばらく沈黙が続き、そして返ってきたのは、面倒くさそうな声だった。

「もういいだろ。

子どもなんて、ぶつけたり転んだりするもんだ。

大げさに騒ぐな。今夜帰って様子を見ればいいんだろ」

ツー、ツー……

無機質な電子音が、針のように耳の奥へ突き刺さる。

スマホを握る指先は力が入りすぎて、白くなっていた。

その時、奈々がそっと私の服の裾をつまみ、不安そうに私を見上げてきた。

「ママ……怒らないで。

奈々ちゃんのせいよ。パパは悪くない。

パパは、大事な仕事があるから、いい子で待ってて、仕事が終わったら、おいしいもの食べに連れて行ってくれるって言ってたもん」

その瞳は、きらきらと輝いていた。

いつまでも果たされることのないその約束を本気で信じているのだ。

私は真実を伝えられなかった。

奈々が三日間も待ち続けた「大事な仕事」の正体は、真紀の娘・花梨と一緒に砂浜で砂のお城を作って遊ぶことだったなんて。

私はしゃがみ込み、奈々の目をまっすぐ見つめた。

「ねえ、奈々ちゃん、ママの質問に正直に答えてくれる?

パパ、おうちに帰ってこないこと、よくあるの?」

奈々は下唇を噛み、俯いて服の裾をぎゅっと握りしめたまま、しばらく黙っていた。

やがて、小さな声でつぶやく。

「たまに。

でもね、パパは、大人はみんな忙しいから、一人で遊びなさいって。

花梨ちゃんにはパパがいないから、奈々ちゃんよりかわいそう、だから奈々ちゃんは我慢しなさいって……」

胸が、ぎゅっと締め付けられた。

宗介は、まだ5歳の子どもに「我慢しなさい」と言い聞かせていた。

熱を出しても泣かず、火傷をしても助けを呼ばず、転んで顔をぶつけても一人で立ち上がる。

3日3晩、「ほかの子のほうがかわいそうだから」という理由だけで、奈々はたった一人で耐え抜いた。

では、傷だらけになって、冷たい床の上で小さく身体を丸め、震えていた自分の娘はかわいそうじゃなかったというのだろうか。

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第1話
奈々を抱きしめたまま、私は全身の力が抜けた。防犯カメラの映像が脳裏に焼きつき、何度振り払おうとしても消えてくれない。まだ5歳の子供が、3日3晩、たった一人で過ごしていたなんて……私は奈々をそっと離し、その顔を両手で包み込み、覗き込んだ。左の頬骨には大きな青あざがある。ソファから落ちたときにぶつけたのだろう。あごには小さな擦り傷ができ、黒ずんだかさぶたになっていた。そっと手を取って見ると、袖の下には、真っ赤に腫れ上がった火傷の跡が広がり、いくつもの水ぶくれができていた。破れた水ぶくれからは、薄黄色い浸出液がにじんでいる。その瞬間、涙があふれた。「痛かったでしょう?」奈々は慌てて手を引っ込め、小さく首を振る。「ううん。醬油塗ったの。ひんやりして、もう痛くないよ」まだ5歳の子どもが熱湯で火傷をした時、思いつく応急処置が醬油を塗ることくらいだろう。20分以上流水で冷やさなければならない。水ぶくれが破れれば感染するおそれがあるから、すぐ病院に行かなければならない。そんなことは、彼女が知るはずもない。その間、父親である宗介は何をしていたのか。ほかの女性の子供を海へ連れて行き、ワインを飲み、写真を撮ってSNSに投稿していた……私は宗介とのチャット画面を開いた。最後のやり取りは、3日前で止まっている。出張へ向かう前、私は次のメッセージを送った。【家政婦の山田さんは今週、家の都合でお休みなの。だからこの3日間は、必ず時間どおりに帰って奈々ちゃんの面倒を見てね】返事は、【了解】という2文字だけだった。それから3日間、メッセージは一通も届かず、電話も一本もなかった。私は宗介に電話をかけた。何度かコールが鳴った後、ようやく繋がった。向こうは騒がしく、ショッピングモールのような雑踏の音が聞こえる。子どもたちの楽しそうな笑い声まで混じっている。「帰ってきたのか?」今日の天気でも聞くような、気楽な口調だった。「宗介、この3日間、一度も家に帰ってないじゃない」「ああ、急に仕事が入ってさ。でも、山田さんに頼んで……」「山田さんは休みだって、出発する前にちゃんと伝えたでしょう?」受話器の向こうが、ぴたりと静まり返る。「……奈々ちゃんは?無事か?」無事って?私は奈
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第2話
夜8時、宗介はようやく帰ってきた。玄関に入るなり、奈々の様子を見に行くのではなく、まず手にしていたピンク色の紙袋を下駄箱の上へ置く。しかも、わざわざ向きを整えた。ちらりと目をやると、中に入っていたのは、きれいに包装されたバービー人形のギフトセットだった。貼られたままのレシートには、1万円を超える金額が印字されていた。奈々はバービーなんて好きじゃない。恐竜やレゴが大好きだと、これまで何度も何度も言ってきた。「これ、誰に買ったの?」宗介は靴を脱ぎながら、顔も上げずに答えた。「来週は花梨ちゃんの誕生日だから、帰ってきたついでに買った」ついでに?他人の子どもの誕生日や好きなものも、サイズなどちゃんと覚えている。そのくせ、自分の娘が3日間も放っておかれ、傷だらけになっていたことは、あっさり忘れてしまう。私は何も言わなかった。ただUSBメモリをテレビに差し込み、再生ボタンを押す。65インチの大画面に、映像が映し出された。1日目の夜、奈々はソファの隅に小さく座り、一人でアニメを見ていた。眠気に勝てず、身体が少しずつ横へ傾いていく。そして、そのままソファから床へ転げ落ちた。小さな頭がテーブルの脚にぶつかる。痛みに身体を丸め、口を大きく開ける。それでも泣かなかった。自分で起き上がり、擦り剥いたあごをそっと撫でると、枕を抱えて冷たい床に丸くなり、そのまま眠りについた。2日目の朝、奈々は椅子を踏み台にし、棚の上のカップラーメンを取ろうとした。電気ケトルが重すぎて、熱湯が勢いよくテーブルにこぼれる。右手に熱湯がかかり、奈々は思わず手を引っ込めた。驚いた拍子に、そのまま尻もちをつく。手の甲は見る見るうちに真っ赤に腫れ上がっていく。唇をぎゅっと噛み締め、目には涙が浮かんでいた。それでも、一度も泣かなかった。一人で洗面所へ走り、水道の流水に手を当てる。黙ったまま、ただ必死に冷やし続けていた。3日目、熱で頬を真っ赤にした奈々は、体温計を手にしたままソファに座り、防犯カメラへ向かって弱々しく笑った。「ママ、見えてるかな。ちょっとだけ熱があるけど、大丈夫だよ。心配しないでね」そう言うと、自分で救急箱を取り出し、火傷した手を震わせながら解熱剤を半分に割り、口に入れた
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第3話
翌朝、私は会社を休み、奈々を連れて病院へ向かった。皮膚科の医師は、奈々の手の甲の火傷を見ると、表情を曇らせた。「お母さん、危ないですね。もう感染してますよ。水ぶくれが破れて、少なくとも2日は経っています。このまま放っていたら、手全体がただれていてもおかしくありませんよ。ちなみに、お子さんはおいくつですか。えっ、5歳?この範囲の2度熱傷でしたら、当日はどうして救急を受診しなかったんですか」私は口を開いたまま、何も答えられなかった。まさか、その時、父親はリゾートホテルで別の女性と海を眺めていたなんて、言えるはずもない。医師は傷口を丁寧に洗浄し、消毒を始めた。ヨード液が傷に触れた瞬間、奈々は痛みに顔をくしゃりと歪める。涙は何度も目にあふれた。それでも、一粒もこぼさなかった。まだ5歳だが、注射をされても泣かない子だった。決して痛くないのではなく、痛みに耐えることに慣れていて、いつの間にか我慢する癖がついてしまっていたのだ。病院を出たところに、幼稚園の佐藤先生から電話がかかってきた。「山崎さん、今日は奈々ちゃんがお休みでしたけど、体調でも悪いんですか」「はい。少し熱があるので、今日は家で休ませています」佐藤先生は言葉を慎重に選んでいるように、少し言い淀んだ。「あの、実は、ずっとお伝えしたいことがあって……先週の金曜日、お迎えの時間にものすごい雨が降ったんです。ほかのお子さんはみんな保護者の方が迎えに来られたんですが、奈々ちゃんだけ、5時半になっても誰も迎えに来られませんでした。それでご主人にお電話したら、『すぐ着きますから、ドアの前で待たせてください』とおっしゃって。でも40分待って来たのは、配車アプリで呼んだ車だったんです。運転手さんは依頼されてお迎えに来られた、とのことです。お子さんを知らない方の車に一人で乗せるわけにはいきませんから、私が同乗して、ご自宅までお送りしたんです。でも、お宅に着いても誰もいらっしゃらなくて……奈々ちゃんは寒さで、ずっと震えていました。私が着替えさせてから帰ったんです」それを聞くと、スマホを握る手が震え、気がつけば爪が掌へ食い込んだ。「その日、どうして宗介は迎えに行かなかったんですか」「さあ、分かりませんね。でも、その日、
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第4話
担当の弁護士藤川さんは、防犯カメラの映像、診断書、そしてチャットの履歴をひと通り確認すると、眼鏡を外し、深刻な顔で語った。「山崎さん、これだけで証拠が十分そろっています。ご主人は明らかに監護義務に違反しています。事実上の育児放棄と言ってもいいでしょう。もし離婚と親権を求めるなら、勝ち目はかなりありますよ」私は躊躇いなく返した。「親権は絶対に求めます。主人は、父親としては失格ですから」藤川さんはうなずき、その場で離婚協議書を作成してくれた。署名欄に名前を書いたその瞬間、不思議なくらい心が軽くなった。家へ戻ると、宗介はいなかった。私は彼のインスタを開いた。最新の投稿は30分前だった。位置情報によると、ある高級レストランだった。ワイングラスを合わせる二人の写真の中に添えられていた言葉は【忙しい毎日の、小さな幸せ】だった。最初のコメントは真紀からだった。【山崎さん、ごちそうさまでした♡今日のステーキ、本当においしかったです。花梨も「また来たい!」って大喜びでした】最後には赤いハートの絵文字が添えられた。「むかつく」と、私はスマホを机にうつ伏せにした。奈々をお風呂に入れる時、包帯が濡れないよう細心の注意を払いながら身体を洗ってあげる。寝かしつけたあと、私は荷造りを始めた。彼女の服や靴、おもちゃ、各種のIDカードなどの書類を一つずつ丁寧にスーツケースへ詰めていく。その途中、一枚のくしゃくしゃになった絵が出てきた。奈々が描いた三人が手をつないで立っている家族の絵だった。真ん中に立っているのは奈々。横には幼い文字で、【パパ、ママとわたし】と書いてある。ただ、パパの顔だけが、黒いクレヨンで何度も塗りつぶされていた。私はその黒い塊を、長いこと見つめていた。胸の奥が、締めつけられる。そっと絵を折りたたみ、スーツケースの一番下へしまった。……夜11時、玄関のドアが開く音がした。宗介が帰ってきたのだ。酒の匂いに混じって、甘ったるい女性用の香水の香りが鼻をつく。リビングに広げられたスーツケースを見て、彼は一瞬固まった。「何?また出張か?」「離婚よ」宗介はしばらく言葉の意味が理解できなかったようだった。「……は?」「離婚協議書は机の上に置いた
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第5話
空港へ向かう高速道路の入口に差しかかったところで、私はスマホの電源を入れ直した。着信履歴は27件。中には、宗介からは19件、真紀からは6件。そして、知らない番号からは2件だった。そのまま電源を切ろうとした瞬間、藤川さんから電話がかかってきた。「山崎さん、ご主人が警察に通報しましたけど、『妻が子どもを勝手に連れ去った』とのことです」私は思わず鼻で笑った。「実の母親が自分の娘を連れているのも、拉致になるんですか」「もちろん、なりません。ただ、ご主人が空港まで追いかけて止めるかもしれません。ひとまず搭乗は見合わせて、お子さんを安全な場所へ預けてください。それと、先ほど幼稚園の佐藤先生から連絡がありました。ご主人が幼稚園に圧力をかけて、証言を変えさせようとしているそうです」私は思わず鼻で笑った。相手はもう我慢できず、動き始めたのね。奈々の傷を心配するからのではなく、証拠を消したいのだ。「運転手さん、前の交差点でUターンしてください」私は親友・望月加代(もちづき かよ)の住所を告げた。奈々は恐竜のレゴを抱えたまま、頭を傾げた。「ママ、飛行機乗らないの?」「あとで乗るわ。ママはね、まず悪い怪獣をやっつけに行ってくるの」奈々は小さな拳をぎゅっと握った。「奈々ちゃんも行く!」「奈々ちゃんは、恐竜さんを守る係」「うん!必ず守るから!」加代の家に着くと、彼女は玄関を開けるなり奈々を抱きしめた。奈々の顔の青あざを見るなり、目を真っ赤にする。「宗介のクズ!」奈々が小さな声で言った。「おばちゃん、悪い言葉はダメだよ」加代は深く息を吸い込む。「そうだね。こんな男を畜生だと言うのは、畜生にも失礼だよね」私は危うく吹き出しそうになった。奈々を加代のところに預けた後、私はすぐ幼稚園へ向かう。職員室の前に着くと、宗介の声が聞こえた。「佐藤先生、あの日、『奈々は無事に家に帰った』、そう言っていただければありがたいですが。余計なことを話す必要はありません」佐藤先生の表情は険しかった。「山崎さん、私は自分で奈々ちゃんをご自宅まで送りましたよ。彼女は体を冷やしてしまったし、お家には誰もいませんでした。それが事実です」「事実だけど、伝え方はいくらでも
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第6話
警察署で事情聴取が始まると、宗介は終始「ただの不注意だった」と言い張った。「仕事が立て込んでいて、家政婦が急に休んだことも知らなかったんです」私はスマホを取り出し、チャットの履歴を警察官に見せた。「出張へ行く前日、私はちゃんと伝えていますよ」警察官がチャット画面に目を落とすと、宗介はすぐに言い直す。「……いや、忘れていたんです」「3日間も?」私は静かに問い返した。「家からリゾートホテルまでは車で40分。あなたのインスタは一日に何度も更新していたのに、それは忘れなかったのね」「美咲、もういい加減にしろ」「まだありますよ」私は病院の診断書を取り出した。「担当医は言いました。あと一日遅れていたら、皮膚移植が必要になっていたかもしれないと」宗介は少し唇を動かした。だが今回は、「大げさだ」というような言葉が出てこなかった。警察官は一通り調書をまとめると、また連絡すると宗介に告げた。事情聴取を終えて警察署を出ると、真紀が慌てて駆け寄ってきた。彼女は私には目もくれず、真っ先に宗介の腕をつかむ。「山崎さん、大丈夫ですか。花梨ちゃんは、警察に連れて行かれたって聞いて……ご飯も食べないくらい泣いてるんです」宗介の表情が心配そうに眉を寄せる。「花梨ちゃんが?どうして知ってるんだ?」真紀の目が泳いだ。「あ、その、私が、うっかり話しちゃって……」側にいる私は急にむなしくなった。奈々が39度を超える熱を出したとき、宗介が口にしたのは、「無事だったか?」の一言だけだった。なのに、花梨が食事を喉に通さなかったと聞いただけで、こんなにも顔色を変える。「美咲さん」真紀は目を潤ませながら私へ向き直った。「私のことを嫌っているのは分かっています。でも子どもに罪はありません。花梨ちゃんは小さい頃から父親がいなくて……ご主人のことを、本当に親代わりのように慕っているだけなんです」「親代わり?」私はスマホを取り出し、一枚の写真を拡大して見せた。ホテルから送ってきた、宿泊記録。夫婦の共有財産に関する確認を理由に、宿泊情報を開示してもらったものだ。そのオーシャンビュースイートの利用者は、宗介と真紀だった。三泊だった。私は静かに顔を上げる。「親代わりなのに
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第7話
頭の中が真っ白になった。「いなくなったって……どういうこと?」「さっき、管理会社の者だっていう人が来て、『ガス設備の点検です』って。私がキッチンでメーターを確認している間に、戻ったら玄関が開いてて……奈々ちゃんがいなくなってたの」「外の防犯カメラは?」「担当係の人に依頼をしたけど、今調べてるところって。美咲、本当にごめん……泣かないで。すぐ警察に通報して」私は電話を切ると、そのまま駆け出した。宗介が慌てて追いかけてくる。「奈々ちゃんに何があった?」私は勢いよく彼を突き飛ばした。「触らないで」「まさか、奈々がいなくなったのか?」「あなたには関係ない」「奈々ちゃんは俺の娘だ!」「今さら思い出したの?」宗介の顔が真っ白になった。その後ろから、真紀も駆け寄ってくる。「美咲さん、私も何かお手伝いしましょうか」私は目を彼女に向けた。バッグを握るその手が、白くなるほど強く震えている。そうだ。さっき、加代が管理会社を名乗る男が来たと言っていた。私が今加代の家に住んでいることを知っている人は、そんなに多くない。宗介と藤川さんとタクシーの運転手のほかに、もう一人いるはずだ。午前2時に、私が離婚することを知っていた真紀。私はじっと彼女を見つめた。「スマホ、見せて」真紀は反射的に一歩後ずさる。「どうして?」「やましいことでもあるの?」「美咲さん、いいかげんにして」その瞬間、真紀のスマホが鳴る。画面に表示された名前は【山口】だった。彼女は慌てて着信を切った。少し後、通知が画面に表示される。私はちらっとその文字の一部を見た。【子どもは車の中にいる……残金は……】真紀は顔色を変え、踵を返して走り出した。だが、宗介のほうが速く彼女の腕をつかみ、力任せに引き寄せる。「奈々をどこへやった!」「違う!放して!」激しくもみ合った拍子に、スマホが地面へ落ちた。私はすぐに拾い上げる。画面はまだ点いたままだった。そこには、最後まで表示されたメッセージ。【子どもは車の中にいる。ずっと泣いてる。残金はいつ振り込む?】体が急に凍りついた。宗介は我を失ったように真紀の肩をつかむ。「答えろ!」「痛い。放して!」「奈々はど
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第8話
真紀はそのまま警察に連行されていった。管理会社の職員を装って奈々を連れ去った男も、あっさりと犯行を認めた。真紀から50万円を受け取り、奈々を隣町の民宿へ連れて行き、2日ほど隠しておくよう指示されていたという。その後、宗介に子供の居場所を知らせ、助けに行かせる、との計画だった。真紀はその後の芝居をすべて作り上げた。その時、宗介は「娘を救った父親」として称賛される。一方、私は「子どもの面倒をきちんと見ていなかった母親」として責められる。さらに真紀は、ネットニュースやゴシップ系メディアを利用し、私の「離婚の腹いせに子どもを利用した狂った母親」という印象を世間に広めるつもりだった。あと少しで、この計画は成功するところだった。取調室の外で、宗介はうつむいたまま、魂が抜けたように立ち尽くしていた。「知らなかった」彼は同じ言葉を3度も繰り返した。「真紀が、こんなことをするなんて、本当に知らなかった……」私は奈々を抱きしめたまま、冷たく彼を見つめる。「そう。あなたは、何も知らないもん。山田さんが休んでいたことも、奈々ちゃんが火傷したことも、高熱を出していたことも、雨に打たれていたことも、そして、あなたが大事に思っていた真紀が、奈々を拉致するつもりがあることも……宗介、あなたはいったい、この数年間、何を見てきたの?」宗介の喉が大きく上下する。「美咲……もう一度だけ、チャンスをくれ。俺、やり直すから」私は思わず笑った。「そうかな。あなたは自分の間違いに気づいたんじゃないでしょう?真紀に騙されていたことに気づいただけ。それに、奈々ちゃんからも見放された。もし今日、真紀が捕まっていなかったら?今でも彼女を優しくて、かわいそうで、守るべき女性だと思っていたでしょう?そして奈々は、また一番後回し」宗介はゆっくりしゃがみ込み、奈々へ手を伸ばした。「奈々ちゃん、パパが悪かった。これからは毎日そばにいてあげる。だから、もう一度だけパパを信じてくれないか?」奈々は私の首へぎゅっとしがみつき、首をかしげた。「じゃ、花梨ちゃんは?」宗介は固まった。「え?」奈々は真剣な顔で続ける。「花梨ちゃんはパパがいなくて、奈々ちゃんよりかわいそうなんでしょ?だから、花梨ちゃんの
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第9話
親子鑑定を申し出たのは、宗介自身だった。結果が出たその日、彼は鑑定センターの待合室で2時間近く座り続けていた。花梨は、宗介の娘ではなかった。二人の生物学上の親子関係は認められないと担当者ははっきりと伝えた。真紀は、二人の男を同時に騙していたのだ。元夫には、「花梨は宗介の子ども」と言い、同時に、宗介には、「花梨は元夫が残していったかわいそうな子」と話していた。そうして二人の罪悪感と同情心につけ込み、3年間もの間、お金を受け取り続けていた。何より皮肉だったのは、宗介は、一度も真実を確かめようとしなかったことだ。素性も分からない他人の子どもを育てることはしても、自分の実の娘の顔を見に帰る時間すら作らなかった。離婚調停の日に、宗介は離婚協議書を私の前へ差し出した。「アパートと貯金は全部お前に渡す。それから、会社の株式の15パーセントを奈々ちゃんに譲る」私は受け取ろうとしなかった。「夫婦の共有財産は、法律どおり分ければいい。あなたが真紀に渡したお金については、私の持ち分は返還してもらう。株を奈々に譲るかどうかは、あなた自身が決めることよ」宗介はゆっくり顔を上げた。目は赤く充血していた。「親権は放棄する。でも、面会だけは認めてほしい。一か月に一回でもいい。遠くから奈々の顔を見るだけでもいい」側にいる藤川さんが彼に教えた。「面会交流は、お子さんの意思が最優先になります。これまでの監護放棄や、お子さんが現在強い心理的ショックを受けている状況を考えると、当面は面会を控えるのが妥当でしょう」宗介は頭を下げた。「それ、分かっています」署名する時、彼の手は小刻みに震えていた。最後の一画を書き終えた瞬間、ペン先が紙を破る。宗介はその裂け目を見つめたまま、急に尋ねた。「奈々の手は、まだ痛むのか?」「いまさら、もう遅いよ」「分かってる」宗介は両手で顔を覆い、絞り出すように言う。「あの時、ホテルにいる俺は、お前からのメッセージを読んでいた」私は思わず息をのんだ。宗介の声は、手のひらの奥でくぐもっていた。「山田さんが休みなのも知っていた。本当は、その日の夜に帰る新幹線を予約していたんだ。でも真紀が、『花梨は海は初めてだし、今夜は花火もあるし、奈々ちゃんは大人
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第10話
半年後、私は加代と一緒に、子ども向けのクリエイティブスタジオを立ち上げた。私は運営を担当し、加代はレッスンを受け持つ。奈々は、私たちにとって最初のお客さんになった。スタジオの一番大きな壁には、奈々が描いた恐竜の絵がずらりと貼られている。王冠をかぶったティラノサウルス、ランドセルを背負ったトリケラトプス、そして、ふくよかなブラキオサウルスが、小さな女の子を優しく抱きしめている絵もあった。私は奈々に尋ねた。「この恐竜さんは誰?」奈々は真剣な顔で答える。「ママ恐竜」「じゃあ、パパ恐竜は?」奈々は首をかしげ、少し考えた。「ごはんを探しに行ったまま、迷子になっちゃったの」そう言うと、自分で大笑いし始めた。あの日の火傷はすっかり治り、手には薄い傷跡が少し残るだけになっていた。心理カウンセラーからも、「順調に回復していますよ」と言われている。彼女はもう一人でいることを怖がることもないし、玄関のチャイムが鳴るたびに震えることもない。何より、痛いときは「痛い」、嫌なことには「いや」と言えるようになった。そして、泣きたいときには、ちゃんと泣けるようになった。……ある金曜日の午後、スタジオの前に、一人の男性が立っていた。宗介だった。半年ぶりに会った彼は、以前よりずっと痩せて見えた。手には、大きなレゴの恐竜セットを一箱抱えている。もう、バービー人形ではなかった。宗介はガラス越しに奈々をじっと見つめていたが、最後まで中へ入ってくることはなかった。先に彼に気づいたのは奈々だった。彼女の笑顔が一瞬消えた。そして私のところへ駆け寄り、ぎゅっと手を握った。「ママ。あの人に会いたくない」「分かった」私はその理由を聞かなかった。「いい子にして」と諭すこともしなかった。外に出て、ドアを閉めた。宗介はレゴの箱を私へ差し出す。「奈々ちゃんは、前にこれが欲しいって言ってただろ?」「前はね」「じゃあ、今は?」私は店の中を振り返った。奈々は友だちと積み木で遊びながら、目を細めて笑っている。「今は、お絵描きのほうが好きなの」宗介はしばらく黙っていた。そして、箱を引っ込める。「……手紙だけ、置いていってもいいかな」「いいけど。読むかどうかは、奈々が決めることだか
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