ログイン出張から3日ぶりに家へ戻ると、娘・山崎奈々(やまざき なな)が勢いよく私・山崎美咲(やまざき みさき)の胸に飛び込んできた。 「ママ、お帰り。会いたかった! ねえ、ママ、奈々ちゃんは、この3日間ずっといい子にしてたんだよ。 ほら、おうち、きれいでしょ?」 確かに部屋はきれいだった。 だが、ゴミ箱の中にはカップラーメンの容器と食パンの袋ばかりが詰まっていた。 胸騒ぎを覚えた私はリビングに設置してある防犯カメラの映像を確認した。 1日目の夜。 奈々は一人でソファに座り、テレビを見ていた。 そのまま眠ってしまい、ソファからずるりと滑り落ちて床へ転がる。 助けてくれる人は誰もいない。 奈々は自分で起き上がると、枕を抱え、そのまま床で眠り続けた。 2日目の朝。 奈々は小さな椅子を踏み台にして、棚の上にあるカップラーメンを取った。 電気ケトルでお湯を注ごうとしたが、重すぎて手元が狂い、お湯をテーブルいっぱいにこぼしてしまった。 熱さに思わず手を引っ込めたものの、泣きもせず、一人で洗面所へ駆け込み、冷たい水で手を冷やしていた。 3日目。 熱が出たらしく、奈々は体温計を握りしめ、カメラに向かって小さく笑った。 「ママ、これ見えてるかな。 奈々ちゃんは、ちょっと熱があるけど、大丈夫。 心配しないでね」 そう言うと、自分で解熱剤を探し出して飲み込んだ。 丸3日間、夫・山崎宗介(やまざき そうすけ)は、一度も家へ帰ってこなかった。 彼のインスタを開いて見ると、三日前の位置情報は、あるリゾートホテルだった。 滝川真紀(たきがわ まき)の投稿も、嫌でも目に入った。 【山崎さん、ありがとうございます♡ 花梨(かりん)ちゃんは海を見るのが初めてです。とっても楽しそうでした】 私は防犯カメラの映像をすべてUSBメモリに保存した。 それから奈々の前にしゃがみ込み、ぎゅっと彼女を抱きしめる。 「奈々ちゃん、もう一人で頑張らなくていい。 これからは、ママがどこに行っても、必ず奈々ちゃんを連れていくから。 お父さんなんて、もういらない」
もっと見る半年後、私は加代と一緒に、子ども向けのクリエイティブスタジオを立ち上げた。私は運営を担当し、加代はレッスンを受け持つ。奈々は、私たちにとって最初のお客さんになった。スタジオの一番大きな壁には、奈々が描いた恐竜の絵がずらりと貼られている。王冠をかぶったティラノサウルス、ランドセルを背負ったトリケラトプス、そして、ふくよかなブラキオサウルスが、小さな女の子を優しく抱きしめている絵もあった。私は奈々に尋ねた。「この恐竜さんは誰?」奈々は真剣な顔で答える。「ママ恐竜」「じゃあ、パパ恐竜は?」奈々は首をかしげ、少し考えた。「ごはんを探しに行ったまま、迷子になっちゃったの」そう言うと、自分で大笑いし始めた。あの日の火傷はすっかり治り、手には薄い傷跡が少し残るだけになっていた。心理カウンセラーからも、「順調に回復していますよ」と言われている。彼女はもう一人でいることを怖がることもないし、玄関のチャイムが鳴るたびに震えることもない。何より、痛いときは「痛い」、嫌なことには「いや」と言えるようになった。そして、泣きたいときには、ちゃんと泣けるようになった。……ある金曜日の午後、スタジオの前に、一人の男性が立っていた。宗介だった。半年ぶりに会った彼は、以前よりずっと痩せて見えた。手には、大きなレゴの恐竜セットを一箱抱えている。もう、バービー人形ではなかった。宗介はガラス越しに奈々をじっと見つめていたが、最後まで中へ入ってくることはなかった。先に彼に気づいたのは奈々だった。彼女の笑顔が一瞬消えた。そして私のところへ駆け寄り、ぎゅっと手を握った。「ママ。あの人に会いたくない」「分かった」私はその理由を聞かなかった。「いい子にして」と諭すこともしなかった。外に出て、ドアを閉めた。宗介はレゴの箱を私へ差し出す。「奈々ちゃんは、前にこれが欲しいって言ってただろ?」「前はね」「じゃあ、今は?」私は店の中を振り返った。奈々は友だちと積み木で遊びながら、目を細めて笑っている。「今は、お絵描きのほうが好きなの」宗介はしばらく黙っていた。そして、箱を引っ込める。「……手紙だけ、置いていってもいいかな」「いいけど。読むかどうかは、奈々が決めることだか
親子鑑定を申し出たのは、宗介自身だった。結果が出たその日、彼は鑑定センターの待合室で2時間近く座り続けていた。花梨は、宗介の娘ではなかった。二人の生物学上の親子関係は認められないと担当者ははっきりと伝えた。真紀は、二人の男を同時に騙していたのだ。元夫には、「花梨は宗介の子ども」と言い、同時に、宗介には、「花梨は元夫が残していったかわいそうな子」と話していた。そうして二人の罪悪感と同情心につけ込み、3年間もの間、お金を受け取り続けていた。何より皮肉だったのは、宗介は、一度も真実を確かめようとしなかったことだ。素性も分からない他人の子どもを育てることはしても、自分の実の娘の顔を見に帰る時間すら作らなかった。離婚調停の日に、宗介は離婚協議書を私の前へ差し出した。「アパートと貯金は全部お前に渡す。それから、会社の株式の15パーセントを奈々ちゃんに譲る」私は受け取ろうとしなかった。「夫婦の共有財産は、法律どおり分ければいい。あなたが真紀に渡したお金については、私の持ち分は返還してもらう。株を奈々に譲るかどうかは、あなた自身が決めることよ」宗介はゆっくり顔を上げた。目は赤く充血していた。「親権は放棄する。でも、面会だけは認めてほしい。一か月に一回でもいい。遠くから奈々の顔を見るだけでもいい」側にいる藤川さんが彼に教えた。「面会交流は、お子さんの意思が最優先になります。これまでの監護放棄や、お子さんが現在強い心理的ショックを受けている状況を考えると、当面は面会を控えるのが妥当でしょう」宗介は頭を下げた。「それ、分かっています」署名する時、彼の手は小刻みに震えていた。最後の一画を書き終えた瞬間、ペン先が紙を破る。宗介はその裂け目を見つめたまま、急に尋ねた。「奈々の手は、まだ痛むのか?」「いまさら、もう遅いよ」「分かってる」宗介は両手で顔を覆い、絞り出すように言う。「あの時、ホテルにいる俺は、お前からのメッセージを読んでいた」私は思わず息をのんだ。宗介の声は、手のひらの奥でくぐもっていた。「山田さんが休みなのも知っていた。本当は、その日の夜に帰る新幹線を予約していたんだ。でも真紀が、『花梨は海は初めてだし、今夜は花火もあるし、奈々ちゃんは大人
真紀はそのまま警察に連行されていった。管理会社の職員を装って奈々を連れ去った男も、あっさりと犯行を認めた。真紀から50万円を受け取り、奈々を隣町の民宿へ連れて行き、2日ほど隠しておくよう指示されていたという。その後、宗介に子供の居場所を知らせ、助けに行かせる、との計画だった。真紀はその後の芝居をすべて作り上げた。その時、宗介は「娘を救った父親」として称賛される。一方、私は「子どもの面倒をきちんと見ていなかった母親」として責められる。さらに真紀は、ネットニュースやゴシップ系メディアを利用し、私の「離婚の腹いせに子どもを利用した狂った母親」という印象を世間に広めるつもりだった。あと少しで、この計画は成功するところだった。取調室の外で、宗介はうつむいたまま、魂が抜けたように立ち尽くしていた。「知らなかった」彼は同じ言葉を3度も繰り返した。「真紀が、こんなことをするなんて、本当に知らなかった……」私は奈々を抱きしめたまま、冷たく彼を見つめる。「そう。あなたは、何も知らないもん。山田さんが休んでいたことも、奈々ちゃんが火傷したことも、高熱を出していたことも、雨に打たれていたことも、そして、あなたが大事に思っていた真紀が、奈々を拉致するつもりがあることも……宗介、あなたはいったい、この数年間、何を見てきたの?」宗介の喉が大きく上下する。「美咲……もう一度だけ、チャンスをくれ。俺、やり直すから」私は思わず笑った。「そうかな。あなたは自分の間違いに気づいたんじゃないでしょう?真紀に騙されていたことに気づいただけ。それに、奈々ちゃんからも見放された。もし今日、真紀が捕まっていなかったら?今でも彼女を優しくて、かわいそうで、守るべき女性だと思っていたでしょう?そして奈々は、また一番後回し」宗介はゆっくりしゃがみ込み、奈々へ手を伸ばした。「奈々ちゃん、パパが悪かった。これからは毎日そばにいてあげる。だから、もう一度だけパパを信じてくれないか?」奈々は私の首へぎゅっとしがみつき、首をかしげた。「じゃ、花梨ちゃんは?」宗介は固まった。「え?」奈々は真剣な顔で続ける。「花梨ちゃんはパパがいなくて、奈々ちゃんよりかわいそうなんでしょ?だから、花梨ちゃんの
頭の中が真っ白になった。「いなくなったって……どういうこと?」「さっき、管理会社の者だっていう人が来て、『ガス設備の点検です』って。私がキッチンでメーターを確認している間に、戻ったら玄関が開いてて……奈々ちゃんがいなくなってたの」「外の防犯カメラは?」「担当係の人に依頼をしたけど、今調べてるところって。美咲、本当にごめん……泣かないで。すぐ警察に通報して」私は電話を切ると、そのまま駆け出した。宗介が慌てて追いかけてくる。「奈々ちゃんに何があった?」私は勢いよく彼を突き飛ばした。「触らないで」「まさか、奈々がいなくなったのか?」「あなたには関係ない」「奈々ちゃんは俺の娘だ!」「今さら思い出したの?」宗介の顔が真っ白になった。その後ろから、真紀も駆け寄ってくる。「美咲さん、私も何かお手伝いしましょうか」私は目を彼女に向けた。バッグを握るその手が、白くなるほど強く震えている。そうだ。さっき、加代が管理会社を名乗る男が来たと言っていた。私が今加代の家に住んでいることを知っている人は、そんなに多くない。宗介と藤川さんとタクシーの運転手のほかに、もう一人いるはずだ。午前2時に、私が離婚することを知っていた真紀。私はじっと彼女を見つめた。「スマホ、見せて」真紀は反射的に一歩後ずさる。「どうして?」「やましいことでもあるの?」「美咲さん、いいかげんにして」その瞬間、真紀のスマホが鳴る。画面に表示された名前は【山口】だった。彼女は慌てて着信を切った。少し後、通知が画面に表示される。私はちらっとその文字の一部を見た。【子どもは車の中にいる……残金は……】真紀は顔色を変え、踵を返して走り出した。だが、宗介のほうが速く彼女の腕をつかみ、力任せに引き寄せる。「奈々をどこへやった!」「違う!放して!」激しくもみ合った拍子に、スマホが地面へ落ちた。私はすぐに拾い上げる。画面はまだ点いたままだった。そこには、最後まで表示されたメッセージ。【子どもは車の中にいる。ずっと泣いてる。残金はいつ振り込む?】体が急に凍りついた。宗介は我を失ったように真紀の肩をつかむ。「答えろ!」「痛い。放して!」「奈々はど