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物語の舞台となる灰戸市は、巨大港湾、歓楽街、再開発地区、古い工業地帯が一つの都市に同居する人口約百八十万人の湾岸都市である。表向きには物流と観光によって急成長を続けている一方、港湾荷役、解体、廃棄物処理、警備、不動産、歓楽街の利権には巨大指定暴力団《冥堂会》が深く食い込んでいる。冥堂会は一枚岩ではなく、十二の有力一家と数十の傘下組織が互いに牽制しながら利益を分配しており、行政、警察、企業の一部にも長年形成された癒着が残されている。
継真が物語序盤で巻き込まれる《錆川組》は冥堂会の三次団体であり、組員数も資金力も衰えた弱小組織である。古い歓楽街の一角を縄張りとしているものの、近年はより若く暴力的な勢力に仕事を奪われ、上納金さえ満足に用意できない。行き場を失った男、前科者、元半グレ、借金を背負った若者などが集まっており、継真にとって最初の居場所であると同時に、裏社会の矛盾を学ぶ場所となる。
物語開始時点の継真は正式な極道ではない。十九歳で高校卒業後、進学せず物流会社の夜勤と集金代行を掛け持ちしており、裏社会の末端業者から危険な仕事を押しつけられても拒めない立場にいる。しかし数字、顔、声、会話の矛盾を記憶する能力が非常に高く、誰が誰を恐れ、誰が誰から金を受け取っているかを一度見ただけで組み立てることができる。戦闘では雛菊に到底及ばない一方、物語が進むほど交渉、資金、人事、情報操作を武器として使うようになり、銃を持つ人間を撃たずに屈服させる男へ変化していく。
雛菊は裏社会で《不死身》と呼ばれているが、超常的に死なない存在ではない。幼少期から徹底的に生存技術を叩き込まれ、危険に対する恐怖反応が極端に薄く、これまで何度も死亡したと噂されるほどの重傷から戻ってきたため、その呼び名が定着した。依頼先の思想や所属には興味がなく、提示された条件だけで動く完全なフリーランスだったが、継真との出会いによって初めて依頼より優先したい人間を持つことになる。
雛菊の愛情には常識的な尺度が存在しない。継真が風邪を引けば真剣に世界中の医者を集めようとし、彼が誰かに殴られれば殴った本人だけでなく命令した人間、その協力者、その資金源まで敵として数え始める。ところが自分自身が撃たれたり斬られたりすることには頓着せず、血を流したまま「継真さんが無傷なので今日は百点です」と笑う。物語を通じて継真は彼女へ普通の倫理を一方的に教え込むのではなく、「自分で誰を生かし、誰を殺さないかを選ぶ」という新しい判断基準を与えていく。
二人の関係では、継真が支配者で雛菊が従属する形にはしない。雛菊は継真の命令だから守るのではなく、自分が好きだから守る。継真も彼女を最強の武器として所有しようとはせず、重大な判断では必ず雛菊自身へ意思を確認する。裏社会では「鵜飼原の命令なら洲脇は何人でも殺す」と恐れられていくが、実際には継真ほど雛菊の暴力へ制限をかける人物はいない。この外部から見た恐怖と、二人の間だけに存在する奇妙に対等な関係が物語の恋愛軸となる。
鵜飼原継真は十九歳、身長百八十一センチ。細身ではあるが物流倉庫で働いてきたため肩と腕には必要最低限の筋肉があり、服を着ていると実際より華奢に見える。髪は墨を溶かしたような黒で、前髪はやや長く、考え事をすると無意識に右側だけ耳へかける癖がある。瞳は黒に近い濃い茶色で、普段は眠そうなほど静かだが、相手の嘘を見抜いた瞬間だけ焦点が鋭くなる。整った顔立ちではあるものの華やかさはなく、派手な極道たちの中へ入れば最初は事務員か学生にしか見えない。安物の黒い腕時計を父親の形見として使い続け、どれほど金を持つようになってからも物語終盤まで買い替えようとしない。
性格は冷静で現実的だが、感情が薄いわけではない。怒りや恐怖をその場で爆発させるより、何が原因で起きたのかを覚えて後から処理するタイプである。自分を傷つけた相手へ無条件の慈悲を向ける善人ではない一方、必要のない死を嫌い、「死体になった人間とは交渉できない」という極めて実利的な理由から殺人を最後の手段に置く。人の表情、視線、席順、服装、支払い方、話題を変えた瞬間などを異常な精度で覚えており、本人さえ意識していない利害関係を組み合わせる能力を持つ。一度見た帳簿の数字も長期間記憶できるため、裏社会へ入ってからは腕力ではなく金と情報によって急速に存在感を増していく。
継真は「守られる主人公」でありながら、自分を無力な人質の位置へ固定することを激しく嫌う。雛菊に戦闘力で勝てないことは早い段階で認めるものの、だからといって危険な判断まで彼女へ丸投げしない。襲撃を受ければ逃走経路や敵の目的を考え、誘拐されれば相手同士の不信を利用し、銃口を向けられても撃った後に相手が失うものを言葉で提示する。物語が進むほど度胸と威圧感が増し、最初は雛菊の陰にいるだけに見えた青年が、やがて雛菊ほど危険な人物たちを一言で座らせる存在へ成長する。
雛菊に対しては最初から恋愛感情を抱くわけではなく、恐怖、困惑、警戒が強い。初対面から「好きです」「愛してます」「結婚できますか」と笑顔で迫られ、自分を狙った人間を平然と倒していく彼女を正常な相手とは考えていない。それでも、誰もが雛菊を兵器、怪物、便利な殺し屋として扱う中、継真だけは彼女の意思を確認し続ける。
洲脇雛菊は十八歳の高校三年生で、身長百六十二センチ。戦闘能力から想像されるような大柄な体格ではなく、細い肩と長い手足を持つ、一見すると少し華奢な少女である。腰近くまで伸びた艶のある黒髪には光の角度によって青紫の色が浮かび、学校では低い位置で一つに結んでいるが、仕事の際には邪魔にならないよう編み込んでまとめる。瞳は明るい琥珀色で、睫毛が長く、笑うと年齢相応どころか実年齢より幼く見える。肌は白く、左脇腹、右肩、太腿など服に隠れる場所には過去の銃創や刃物傷が残っている一方、本人は傷跡を恥じる感覚をほとんど持っていない。
普段の雛菊は驚くほど明るい。コンビニの新作菓子で喜び、可愛い動物の動画を保存し、数学の宿題を忘れて本気で落ち込み、担任に呼び出されれば殺し屋としてではなく普通の高校生として素直に謝る。ところが戦闘が始まると感情の切り替えがほとんど存在せず、さっきまでアイスの味について話していた笑顔のまま相手を制圧する。殺人そのものへ快楽を求めているわけではないが、他人の命を絶対的な価値として扱う教育を受けてこなかったため、「邪魔だから排除する」という判断と「傘を忘れたから買う」という判断の間に、一般人ほど大きな心理的差がない。
雛菊は幼い頃から周囲と異なる反応を示す子どもだった。転んでも泣かず、怪我をしても取り乱さず、大人が怒鳴っても怯えない娘を両親は次第に「気味が悪い」と恐れるようになり、家庭内で隔離するようになる。八歳の冬、両親から本気で命を奪われかけた雛菊は逃げるために反撃し、入浴中だった二人がいる浴槽へドライヤーを落としたことで両親を死亡させた。自宅を出た彼女はその後、警察より先に現場へ姿を見せた殺し屋・静間針蔵と出会い、彼に拾われる。針蔵は雛菊へ銃器、刃物、格闘、追跡、潜伏、生存術を教え込む一方、「十八歳までは学校へ行け」という奇妙な方針だけは頑として譲らず、その結果として彼女は国内最上位の殺し屋でありながら現役高校生という生活を送っている。
雛菊は恐怖を感じないわけではない。自分自身の死亡に対する恐怖が極端に薄いだけで、継真と出会ってから初めて「自分ではない誰かを失う恐怖」を覚える。継真がわずかに傷ついただけでも心拍数が上がり、息が浅くなり、胸の奥を押し潰されるような感覚に襲われるが、恋愛経験が皆無なので最初はそれを身体の異常だと考える。そして数秒考えた末に、「胸が苦しくて息ができない。まるで踏まれているみたいです。これが恋!? 恋なんですね!?」と嬉しそうに結論づける。
恋愛に関しては一切の駆け引きができず、好意を隠すという発想そのものがない。銃撃戦の最中でも継真を見つければ「継真さん、大好きです!」と叫び、敵に囲まれても「愛してますので安心してください!」と意味の分からない理由で安心させようとする。継真が別の女性と話していても一般的な嫉妬を理解できず、その女性が継真へ危害を加える可能性だけを真剣に計算する。自分を危険人物だと理解していないわけではないが、それを恥じてもいない。継真を愛するようになって初めて、自分の行動によって彼が悲しむことだけを恐れるようになる。
錆川組組長を務める六十七歳の男で、冥堂会内部では時代遅れの古参として扱われている。背は百七十センチほどしかなく、年齢と古傷の影響で右脚を引きずるが、人を正面から見据える鋭さだけは衰えていない。派手な暴力を好まず、一度交わした約束と借りを何十年でも覚えている古い型の極道である。継真の記憶力と度胸を早い段階で評価するが、可愛がるから甘やかすという考えはなく、裏社会へ残るなら必ず代価を払わせる。雛菊については「人間の顔をしている災害」と評しながらも、彼女を道具扱いしない数少ない年長者となる。
三十三歳の錆川組若頭で、身長百八十七センチの長身と短く刈った黒髪、左眉を横切る古い傷が特徴である。十代から裏社会だけで生きてきたため、突然現れた十九歳の継真が頭脳だけで評価されることを当初は快く思わない。実戦経験と組織統率では非常に優秀で、感情的に見えて実際には構成員の損失を誰より嫌う。継真とは何度も衝突しながら、互いに自分にはないものを持つ相手として関係を築いていく。雛菊には最初から真正面で勝とうとせず、「あれと戦うくらいなら会長に土下座する」と本気で語る現実主義者である。
二十三歳。錆川組が管理する雑居ビルの一室で暮らす元システムエンジニアで、裏帳簿の整理、監視映像の解析、企業情報の調査などを担当している。猫背で細身、癖の強い茶髪と大きな丸眼鏡が特徴で、人と目を合わせるのを極端に嫌う。金に強い執着があるように振る舞う一方、実際には自分が巻き込んだ人間への責任を捨て切れない性格である。継真とは数字を介して急速に意気投合し、後に組織の資金面を支える存在となる。雛菊からはなぜか初対面から「逸記くんは殺さなくてよさそうです」と高評価を受ける。
三十一歳の女性医師で、正規の病院を辞めた後、灰戸市の歓楽街で表に出せない傷を治療する非公式診療所を営んでいる。肩までの赤茶色の髪と、いつでも疲れ切ったような灰色の目を持ち、患者が暴力団員でも警察官でも殺し屋でも治療中だけは同じ扱いをする。雛菊とは長い付き合いがあり、何度重傷で運び込まれても翌日には帰ろうとする彼女へ毎回激怒している。継真と出会ってからは、雛菊が自分の身体より誰かの擦り傷を心配するようになった変化を誰より早く察する。
四十二歳の灰戸県警組織犯罪対策課所属の刑事で、無精髭と皺の入ったスーツが似合う疲れた風貌をしている。暴力団を嫌っているが、正義という言葉を簡単には口にしない。冥堂会と警察内部の癒着を長年追っており、継真が持つ黒い手帳の存在へ独自に接近する。継真を犯罪者として逮捕する立場と、冥堂会を崩すため利用したい立場の間で動き続けるため、味方にも敵にも固定されない。雛菊とは初対面から相性が最悪で、彼女からは「逮捕する人なのに悪い人ではないという難しい人」と評される。
五十六歳。雛菊を八歳から育てた殺し屋で、裏社会では名前を聞いただけで依頼人さえ声を落とすほどの古参である。白髪交じりの長髪を後ろで束ね、右目は過去の負傷でほとんど見えていない。雛菊へ殺しの技術を教えた本人でありながら、学校だけは卒業させる、食事は三食取らせる、誕生日には必ず何か買うという妙な養育方針を持つ。親子という言葉を互いに使ったことはないが、雛菊が唯一「師匠」と呼ぶ人間である。継真については、雛菊が生まれて初めて作った致命的な弱点なのか、それとも彼女を人間として生かす唯一の存在なのかを慎重に見極めようとする。
二十八歳。冥堂会の有力一家《稲宮一家》の跡取りで、若さに似合わない冷静さと大胆さによって次世代の会長候補と噂される男である。身長百八十四センチ、癖のない黒髪を後ろへ流し、白や灰色のスーツを好む。暴力を嫌っているのではなく、利益にならない暴力を嫌う点で継真と似ているが、人間の価値を徹底して数字へ置き換えるため思想は正反対である。最初は継真を面白い駒として眺め、やがて自分の席を奪いうる対等な競争相手として認識していく。
六十四歳。巨大組織《冥堂会》の五代目会長であり、灰戸市において市長より名前を出すことを恐れられる男である。銀髪を短く整え、老齢でも背筋が伸び、表舞台では文化財団や福祉法人へ多額の寄付を行う名士として知られている。声を荒らげることはほとんどなく、一杯の茶を飲む間に人間一人の生死を決める。十二の一家を競わせることで自分への反乱を防いできた支配者であり、継真が成長するほど彼を排除すべき異物として意識するようになる。
喫茶店の厨房に積まれていた空の酒瓶が、誰かの肘に触れて小さく鳴った。鵜飼原継真はその音へ振り返る余裕もなく、洲脇雛菊に背を押されながら狭い搬入口を抜けた。正面入口には二人、窓際には一人、さらに裏手へ回った車にも人間がいる。店内へ踏み込んできた男はいたものの、客へ手を出すでも継真をその場で捕らえるでもなく、注文もせず入口付近へ立っただけだった。厨房の店員が不審そうに声をかけたため、その僅かな間を使って継真たちは裏へ回ったが、敵が本気で店内へ突入するつもりなら、そんな時間は与えられなかったはずだった。「継真、本当に悪かった」河芽信人が背後から追ってくる。逃げるように促したのは継真だったが、声にはまだ泣き出しそうな震えが残っていた。「謝るのはあとでいい。お前は店から離れろ」「でも、お前らは」「家族を見張られてるなら、俺と一緒にいるほうが危ない。連絡してきた奴には、俺が裏口から逃げたってそのまま報告しろ」信人は納得できない顔をしたものの、反論する時間はなかった。裏口から出た先は、喫茶店と古い事務所ビルに挟まれた細い通路になっている。ゴミ収集用の箱と室外機が並び、二人並んで走れば肩が擦れる程度の幅しかない。雛菊が先に角を確認し、継真へ小さく手招きした。「今なら行けます」継真は信人へ一度だけ目を向けた。「戻れ。俺と会ったことは隠すな。隠したら向こうに疑われる」「……分かった」「妹さんと母親の写真は消すな。番号も全部残せ」信人が頷くのを確認し、継真は雛菊を追った。数歩進んだところで背後の店内から扉の開く音が聞こえたが、振り返らない。追ってくる足音はすぐにはなかった。そのことが、むしろ気になった。通りを二つ抜け、配送センターの裏手へ続く古い倉庫街へ入ったところで、継真は速度を落とした。雛菊もすぐ合わせて歩き方を変える。右腕にはまだ琴葉から巻かれた包帯があり、走ったせいで制服の袖口から白い端が少し覗いていた。「追ってきませんね」「店の外で待ってた時も同じだった」「同じ?」「信人は俺があそこへ行く時間まで送ってる。相手には、もっと前から準備する時間があった。それなら店の中へ入った瞬間に囲めたはずだ」継真は歩きながら、さっきの配置を頭の中へ並べ直した。正面、側面、裏。車も複数用意されていた。それほど準備しているのに、客がいる店内では襲わず、こちらが
午前九時を過ぎても、配送センター周辺には夜勤明けの匂いが残っていた。大型車の排気と濡れたアスファルト、荷台から漏れる段ボールの乾いた匂いが混じり、鵜飼原継真にはつい昨日までの日常がそのまま続いているように見えた。だが、胸元には黒い手帳があり、少し離れた場所には自分を守ると言い張る殺し屋の少女がいる。見慣れた街並みのほうが、もう自分だけを置き去りにして普通の顔をしているようだった。継真が選んだのは、以前から夜勤明けによく使っていた喫茶店だった。配送センターから歩いて五分ほどの古い店で、入口のガラスには手書きのモーニングメニューが貼られている。昼前には運送会社や整備工場の人間で混むが、この時間なら客はまだ少ない。店内を見渡した継真は、入口と窓の両方を視界へ入れられる奥の席を選び、洲脇雛菊には少し離れたカウンターへ座るよう頼んだ。「隣じゃ駄目ですか?」「お前がいると、信人が余計に警戒する」「私、普通の高校生に見えますよ」「昨日からその言葉を信用できなくなった」雛菊は少し頬を膨らませたものの、素直にカウンターへ移った。制服姿でカフェオレを注文し、メニューに載った厚焼きトーストを真剣に眺めているだけなら、確かに周囲の客から浮いてはいない。けれど鏡張りの柱を使って継真の姿を確認し、一度も完全には視線を外さない。その目の動きを知っている継真には、どれほど自然に座っていても彼女が護衛を続けていることが分かった。河芽信人が現れたのは約束の時刻を六分過ぎた頃だった。二十二歳で、昨年まで同じ配送センターにいた元同僚である。契約終了後に別会社へ移ってからも、ときどき仕事の愚痴を送り合う程度の付き合いは残っていた。普段なら入店した瞬間から手を上げて笑う男なのに、今日は継真を見つけたところで足を止め、まず店内を一周するように見回した。「……生きてたんだな」最初に出た言葉がそれだった。継真は返事を急がず、信人の顔を見た。目の下には寝不足らしい影があり、右手はジャケットのポケットへ入れたまま出てこない。心配していた人間の顔にも見えるが、驚きのほうが強すぎる。「死んだと思ってたのか」「いや、そういう意味じゃなくて。昨日、会社で事故があったって聞いたから」「事故、ね」信人はそこで目を逸らした。店員が水を持ってくると、まだ注文も決めていないのにアイスコーヒーを頼み、グラスへ
後部座席のドアノブがもう一度外側から引かれた。ロックが外れないと分かると、窓へ顔を寄せた男が苛立ったように唇を歪め、「降りろ」と低く言う。鵜飼原継真はその顔を見返しながら、隣の洲脇雛菊へ視線だけを動かした。彼女の右手はバッグの中へ入っていたが、さっき継真が告げた「まだだ」という言葉を守り、銃を抜こうとはしていない。前後を塞ぐ車、歩道を行き交う通勤客、怯えた運転手。ここで一発でも撃てば、相手だけではなく無関係な人間まで巻き込む可能性がある。「まだ殺すな」継真が改めて言うと、雛菊は小さく頷いた。「分かりました」不満は見えなかった。むしろ、どうすれば条件を守ったまま継真を守れるのかを考えているように、琥珀色の瞳だけが静かに男たちの位置を追っている。右側に二人、左側に一人、前方のワゴン付近に二人。上着の内側へ手を入れている者はいるが、まだ銃口は見えない。継真がそこまで確認した瞬間、運転席側の窓を叩いていた男がドアを開け、運転手の肩を掴んだ。「降りろ。巻き込まれたくなきゃな」運転手は青ざめ、シートベルトを外そうとする。継真は止めなかった。ここへ残せば人質に使われる可能性があるし、逃げられるならそのほうがいい。運転手が震える足で外へ出て歩道側へ逃げた直後、後部座席の右側にいた男が窓ガラスを硬い物で叩いた。「雛菊」「はい」「人がいる。銃は最後まで抜くな」「では、手でやります」あまりにも自然な返事に、継真は一瞬だけ言葉を失った。次の瞬間、ガラスに二度目の衝撃が入り、亀裂が走る。雛菊はロックを外して自分からドアを開け、外にいた男の体勢を崩した。相手が想定していなかった方向へ扉が押し出され、膝がわずかに曲がった瞬間、彼女は男の手首を掴んで身体を回し、そのまま路面へ押さえ込む。別の男が背後から腕を振り上げたが、雛菊は振り返るより先に肩を沈めてかわした。肘を相手の脇腹へ入れ、呼吸が止まったところで足を払う。倒れた男の頭が道路へ直接ぶつからないよう襟元を掴んで勢いを殺したことに、継真は遅れて気づいた。いつもの彼女なら、そこまで加減する理由はなかったはずだ。「継真さん、これなら大丈夫ですか?」「確認してる場合か」「大事なので」言いながら、雛菊は三人目の腕を取った。関節を逆方向へ曲げかけたところで一度止まり、何か考えるように手の位置を変える。それから痛みで抵抗で
会社へ向かうには、歩き続けるより車を使ったほうが早い。鵜飼原継真は駅前のロータリーで流しのタクシーを止めると、洲脇雛菊を先に後部座席へ乗せ、自分もその隣へ滑り込んだ。運転手へ物流会社近くの交差点を告げ、会社名そのものは口にしない。濃紺のセダンがまだ遠くからついてくるのをサイドミラーで確認しながら、継真は黒い手帳の入った内ポケットへ無意識に手を当てた。車が大通りへ出ると、雛菊は窓の外へ顔を向けたまま「監視の車、まだいますね」と言った。声は明るいが、視線はガラス越しに後方の流れを拾っている。学校で小テストの点数を気にしていた時とは別の集中が戻っているのに、彼女自身には切り替えた自覚すらないようだった。継真はその横顔を見ながら、昨日から何度も頭へ浮かびながら後回しにしていたことを、ここで決めるしかないと思った。「雛菊」「はい」「護衛の話、ちゃんと決めるぞ」彼女はすぐに継真へ向き直った。琥珀色の瞳がぱっと明るくなり、肩までわずかに弾む。「契約ですね!」「何で嬉しそうなんだ」「継真さんと契約できるんですよね?」「そういう言い方をするな」継真は低く返し、前席の運転手がバックミラー越しに一度だけこちらを見たのを確認した。会話の内容が聞かれて困る状況ではあるが、途中で別の場所へ降りるつもりなので、細部まで理解されなければ問題はない。それより、雛菊が善意だけで自分の前へ立ち続ける今の状態のほうが危険だった。「昨日から、お前は勝手に俺を守るって言ってる」「はい」「そのせいで怪我もした」「かすり傷です」「そこを軽く扱うなってさっき言っただろ」雛菊は包帯の覗く右腕を見て、「そうでした」と素直に頷いた。継真はその反応に軽く息を吐き、言葉を選ぶ。彼女を止めたいわけではない。今この街で自分を守れる人間が必要なのも事実だ。それでも、好きだからという一言だけで命を張られ、その結果を全部雛菊自身の責任にしてしまう形だけは受け入れたくなかった。「好意だけでやらせる気はない。護衛なら条件を決める。俺が頼んだ仕事として、何をするか、どこまでやるか、先に決める」「報酬もですか?」「払える範囲なら」「いりません」即答だった。継真が黙ると、雛菊はむしろ不思議そうに首を傾げる。「昨日も言いましたけど、好きな人を守るのにお金をもらうんですか?」「仕事にするって言ってる」
午前七時を回った頃、鵜飼原継真は駅前のコインロッカーから預けていた荷物を取り出し、スマートフォンの画面をもう一度確認した。《黒い手帳を返せ。午前九時、会社で待つ》。送信元は登録のない番号で、返信しても既読表示すらつかない。主任からは八時までに来いと言われ、別の誰かからは九時を指定されている。会社の中で意思が統一されていないのか、それとも二つの時間を使ってこちらの動きを測ろうとしているのか、まだ判断できなかった。黒い手帳は作業着の内側に入れ、さらに薄いビニール袋へ包んでいる。金額らしき数字と《冥堂会本部》の文字が並ぶものを持ち歩くこと自体が馬鹿げていると分かっていても、置き場所を探している余裕はなかった。会社へ向かう前に人目のある場所でどう動くか考えるつもりだった継真は、隣で制服の襟を整えている洲脇雛菊を見て眉を寄せた。右腕には槙埜琴葉が巻いた白い包帯があり、袖口からわずかに覗いている。「じゃあ、その前に学校へ行きます」雛菊はごく自然に言った。「……何の話だ」「学校です。今日は一限目に数学の小テストがありますので」継真はしばらく返事ができなかった。昨夜から襲撃を二度受け、殺害依頼を破棄したせいで雛菊自身も狙われている可能性があり、九時には黒い手帳を要求する人間が会社で待っている。その状況のどこに小テストを差し込む余地があるのか、頭の中で順番を入れ替えてみても答えは出なかった。「休め」「嫌です」「命を狙われてるんだぞ」「でも欠席すると補習なんです」「補習と命を同じ秤に乗せるな」「補習、放課後に一時間半ありますよ」雛菊は深刻そうに眉を下げた。継真が冗談かどうか見極めようとしても、その表情には本物の嫌悪しかない。「しかも担当が田名部先生なんです。途中式を書かないと全部やり直しなんですよ。答えが合っててもです」「教師として普通だろ」「すごく厳しいです」「殺し屋より怖いのか」「数学の補習は撃って終わらせられませんから」継真はこめかみを押さえた。琴葉から《不死身》と呼ばれている理由を聞いてまだ一時間も経っていない。銃創や刃物傷を負っても仕事へ戻る少女が、補習だけは本気で避けたがっているという事実が、どうにも頭の中で噛み合わなかった。「小テストだけ受けて、すぐ戻ります」「学校に何か持ち込む気じゃないだろうな」「武器ですか?」「他に何が
漫画喫茶の個室に差し込む朝の光は、窓のない店内では時計の表示でしか分からなかった。午前六時四十分。鵜飼原継真は机の上へ伏せていた黒い手帳を鞄代わりのビニール袋へ戻し、長く息を吐いた。眠ったつもりはほとんどないが、二時間ほど記憶が飛んでいる。隣の個室にいるはずの洲脇雛菊へ声をかけようと立ち上がったところで、床に小さな赤黒い点が落ちていることへ気づいた。最初は誰かがこぼした飲み物かと思った。しかし点は個室の入口から廊下へ続き、その先で途切れている。継真はしゃがみ込み、指先を近づけるまでもなく、それが乾きかけた血だと分かった。昨夜、自分は頬を切り、腹を殴られたが、出血するような傷はもうない。視線を上げると、ちょうど隣の扉が開き、雛菊がコンビニの袋を片手に戻ってくるところだった。「おはようございます。継真さん、コーヒー飲めます?」「腕を見せろ」「はい?」雛菊は袋を持ったまま立ち止まった。黒いセーラー服の袖口、その右側だけがわずかに濃い色へ変わっている。継真が近づいて手首を掴むと、彼女は抵抗せず、むしろ何をされるのか興味深そうに見上げた。袖を肘まで捲ると、細い腕の外側に布を裂いたような傷があり、簡単に巻かれたガーゼが赤く染まっていた。「これ、いつやった」「昨日です」「昨日のいつ」「倉庫で最初の人たちと会った時だと思います。たぶん金属片が当たりました」「思います、じゃないだろ」継真は思わず声を低くした。雛菊は叱られた理由が分からないように傷口を見下ろし、それから「ああ」と小さく頷く。自分の身体のことなのに、他人から指摘されて初めて思い出したような態度だった。昨夜から何度も腕を動かし、銃を扱い、走り続けていた。それなのに痛いとも動かしづらいとも、一度も口にしていない。「血、止まってないじゃないか」「減ってますよ。昨日より」「病院行くぞ」「普通の病院はちょっと」「保険証がないとか言うなよ」「あります。でも、この程度で普通の病院へ行くと説明が面倒です」雛菊は笑って答えた。学校へ遅刻した理由を説明したくないという程度の軽さだったが、継真はその笑顔を見ても安心できなかった。銃撃や殴打があった場所で負った傷を、病院でどう説明するつもりなのかという問題は確かにある。それでも、だから放置するという結論へ迷いなく進める感覚は理解できなかった。「じゃあ、どこ







