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第16話

Author: 瑶影
私たちはもちろん彼を無視した。

アクセルを踏み込み、エンジンの音と共に彼を遠ざける。

しかし因果は巡る。

帰宅しエレベーターのドアが開くと、そこには桜井の顔があった。

「安藤恵?」

彼女は眉を上げ、嘲るような笑みを浮かべた。

「どうしてここに?」

答える気もなく、私は冷たくサングラスをかけた。

桜井は口元を手で覆い、軽く笑った。

「司が海外市場を開拓するので、様子を見に来たの。外の女に迷わされないか心配で」

第三者不在の今、彼女は露骨に侮蔑をにじませる。

「惨めに逃げ出したはずなのに、また司に近づくとは。そんなに彼が好きなの?それとも彼の金が好き?」

彼女は私がここの住人ではないと決めつけているようだ。

ちょうどその時、瀬川が車の鍵を手渡しに近づいてきた。

「車止めたよ。上がろう」

彼は桜井を一瞥した。

「こんにちは、私は恵ちゃんの友人の桜井咲子です」

瞬時に桜井は、私がよく知るあの偽りの笑顔を浮かべた。

彼女は瀬川に手を差し出す。

その笑顔に惑わされない人は私だけだった。

けど瀬川は半歩下がり、私を見た。

「友達じゃない。無視しよう」

私は彼の袖を引っ張り、エレベーターに乗り込んだ。

桜井が鋭い視線を送る。

「あなたのあの愚かな弟さん、ずっとあなたを探して――」

ドアが閉まり、声は遮断された。

都心の高層マンションの中で便利で眺めの良い物件は限られる。

運の悪いことに、桜井と榊もここに住んでいた。

夜、瀬川が私の髪を乾かしてくれる間、私は俯いて物思いにふけっていた。

「何を考えてる?」

彼は私の顔を両手で包んで上げ、鏡越しに私を見た。

暖色の照明が瀬川の優しい顔立ちをさらに柔らかく照らす。

「世界は狭いものね。二度と会わないと思ってた人に、今日また会っちゃった」

時間は全ての愛憎にベールをかける。

あの時味わった痛みも今は覚えていない。彼らはもはや見知らぬ人だ。

瀬川が身をかがめ、私の髪にキスを落とした。

古い記憶を上書きする方法は一つ。

新しい記憶で塗り替えること。

私は腕を伸ばし、彼を抱き寄せた。

時が止まったような長いキス。

息が苦しくなるまで。

「いい?」

瀬川は顔を真っ赤にし、服をぎゅっと握りしめていた。私の許可がない限り、彼は一歩も越えたりしない。

私はくすくす笑った。
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