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第5話

作者: 瑶影
桜井が送ってきた写真をよく見ると、彼女の手首に覚えのあるものが映っていた――

母が私に残したお守りの玉だ。

幼い頃、私は病弱で母を心配させた。ある徳の高い僧侶の助言で、上質な翡翠を彫り、開眼供養までしてもらったものだった。

後に硯が心臓の手術を受ける時、私はこの玉を彼の手に握らせて譲った。

弟の健康と幸せのために、私の命と引き換えてもいいと心で念じながら。

これは母が亡くなる前に私に託した、たった一つの形見だった。

なぜ桜井の手にあるのか。

突然、後悔が込み上げた。

誰よりも自分を大切にすべきだった。たとえ実の弟を相手だとしても。

それに、彼は母の形見をそんなにも軽んじている。もう返してもらおう。

しかし硯に返すよう求めた時、桜井は驚いたように口を押さえた。

「恵ちゃんのものだったの?価値のないものだと思って、昨夜のチャリティーで競売にかけちゃった」

硯は彼女の傍らで、目に見えて表情を曇らせた。

桜井に簡単に処分されてしまうとは、彼も予想していなかったのだろう。

真心ほど価値のないものはない。

「硯くん、怒らないでね?」

桜井は硯の袖を引っ張り、媚びるような笑顔を見せた。

「玉を返しなさい」

二人の甘いやり取りを見ているのも嫌で、私はただもう一度繰り返した。

硯は頑なに首を振った。「もう俺にくれたんだ。処分する権利は俺にある」

だがそれは母が残したたった一つの形見だ。

硯は桜井を慰めようとした。

「大丈夫だよ、咲子さん。たいしたものじゃないから」

我慢の限界に達し、私は硯の頬を打った。

パッと音が響く。

彼は手を頬に押さえ、信じがたそうに私を見た。

「姉さん!正気か?ただの石ころのために俺を殴るなんて!」

彼は私の溺愛で育ったから、他人の気持ちを考えることなどできないのだ。

この玉の価値も、命をかけて祈った私の真心も、今の私の苦しみも、一切理解できないのだ。

私の弟は、何一つ分かってないのだ。

だから、もういらない。

「つまらない石ころで、よくもそんな騒ぎを」

榊が冷笑した。

桜井はまたあの得意の、弱々しい表情を浮かべる。

榊は小切手を差し出した。

「いくら欲しい?今の君に必要なのは金だけだろう?」

さすが元彼氏。私の一番痛いところを熟知して、攻撃も的確だ。

遠慮なく天文学的な金額を書いた。

私を侮辱した代価だ。

「随分と自分を高く買うんだな」

榊は嘲るように私を見下した。

どうでもいい。榊、もうあなたは私を傷つけられない。

ちょうどその時、携帯が光った。

日々のカウントダウン通知だ。残りあと19日。

「これは?」

榊の目は鋭い。私の携帯を奪い取った。

彼の誕生日を入力して、ロックを解除しようとした。

付き合っていた頃、榊は幼稚にもよくこんなことを強要したものだ。

でも別れた後、もうパスワードを変更したから、当然開かない。榊は逆上して私を睨んだ。

「何でもない。ただのリマインダーよ」

適当にごまかした。

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