LOGIN知佳は漂い寄って、彼の身体を整えて少しでも楽に眠れるようにしてやろうとした。だが彼は手を伸ばし、彼女のうなじを抱き寄せた。知佳はその力を感じた。けれど、とても、とても弱い。「ごめん、知佳ちゃん。驚かせたな」彼の息も絶え絶えの声が、彼女の耳の横に触れるように落ちた。「平気……平気だよ……」知佳は動かなかった。けれど彼はその一言を言い終えると、手を放した。知佳もそれに押し出されるように、ふわりと宙へ戻った。「もう大丈夫だ。行け」彼の声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。「……え?」追い出すの?「君の世界へ戻れ」彼は言った。「そっちの世界の拓海は、どうしようもないくらい腐ってる。絶対に、絶対に許すな……俺は……今日君に会えただけで嬉しかった。知佳ちゃん、もう一回、知佳ちゃんって呼んでもいいか?」「……うん」知佳はその口調を聞いただけで、また目が熱くなった。言葉が、今までになく足りない。慰めの言葉が見つからない。十数年後でも治らなかった病なら、なおさらだ。彼はあれほど聡明で、あれほど孤独で、きっと自分の病名も余命も、とっくに分かっているのだろう。「知佳ちゃん、知佳ちゃん……」彼は呼ぶのが癖になったみたいに、まるで面白い言葉を口にするみたいに繰り返した。「……私、ここにいる」知佳は声を詰まらせた。「知佳ちゃん……」彼は低く言った。「この先、拓海に出会っても、好きになるな。近づくな。できるなら、他人として扱ってくれ。いいか?」「この先?拓海?」別の世界の拓海はもう亡くなった。彼女にはもう会う機会などない。「つまり……この先、夢の中でも、来世でも、何度生まれ変わっても、君の人生に森川拓海が現れたら――どの拓海でも、必ず遠くへ行け。永遠に赤の他人でいてくれ……いいか?」知佳は唇をわずかに開いたが、「いい」とも「だめ」とも言えなかった。「……じゃあ、約束したってことに……する」彼の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。けれど涙はゆっくりと流れ落ちる。「行け……病室を出て、君の世界へ戻れ。二度と来るな……」その言葉と同時に、知佳は何か大きな力で病室の外へ押し出される感覚に襲われた。振り返ると、病室の扉は半分閉まっている。ベッド全体は見えない。ただ、ベッドサイドの心電図モニターの緑の線が、ゆっくり一本の直線へ変わって
「たぶん……」彼は低い声で言った。「俺も……もうあの世に行くんだろうな」「拓海、ふざけないで……」まだ二十二歳なのに、どうして「あの世に行く」なんて言えるの?拓海は青白い顔に、痛ましい笑みを浮かべた。「なあ、もしかしてさ……俺って元々、二十二までしか生きられない運命だったってこと、ないと思う?」「何を言ってるの?」知佳は声を荒げた。少なくとも、別の世界の彼は三十を過ぎるまで生きていた。「もし、君があっちの拓海を助けてなかったら、あいつは二十二で車に轢かれて死んでたかもしれないだろ」彼は淡々と言った。まるで他人事みたいに。知佳は呆然とした。その推論を、彼女は否定できなかった。けれど――どうして彼が、別の世界のことを知っているの?「夢を見るのは君だけだと思ってた?俺だって夢を見る……」彼はふいに眉を寄せ、苦しそうに顔を歪めた。「拓海!」何を夢で見たのか聞こうとしたが、彼の苦痛の表情を見た瞬間、胸がざわついた。個室には彼以外誰もいない。「誰も世話してくれないの?」彼は喘ぐように、やっと言葉を絞り出した。「俺……もう身寄りがない……」知佳の目が熱くなった。そうだ。彼を愛してくれた加奈も、もういない……「わ、私……ナースコール……」彼女は外へ出ようとした。「無駄だ」彼が呼び止めた。「看護師には、君が見えない」「じゃあどうするの?何が欲しいの?」もしかしたら、彼女が必死になれば、何か手伝えるかもしれない。彼は顔を上げ、目を赤くした。「……手、握ってもいい?」知佳は固まった。彼はまた、あの痛ましい笑いを浮かべた。「無理なら、いい」「ち、違う……」知佳は彼の青白く痩せ細った指を見つめ、そっと自分の手を彼の掌に入れた。彼は残った力をすべて使うみたいに握り締めた。とはいえ知佳に伝わるのは、かすかな力だけだ。それでも彼の涙が、ふいに目尻から流れ落ちた。「ひでえよ……俺を一人で置いていって。俺が死ぬから来たんだろ?死にかけじゃなかったら、もう二度と戻ってこなかったんじゃないの?」怨みが滲む声で、彼はしゃくり上げた。「拓海、そんな言い方しないで……」この場面は本来、もっと重くなるはずなのに、彼の言葉のせいで気持ちが複雑になる。彼女は十数年後の知佳であって、彼と同い年の知佳ではない。「そうだろ!」彼は意地に
午後、知佳は時間どおりに劇場のリハーサルへ姿を見せた。まるで何事もなかったかのように。誰も知らない。彼女の耳元ではずっと、魔の声みたいに同じ言葉が鳴り続けていた。「厄運は全部、俺が持っていく。これからの君に残るのは、健康と、楽しさと、幸せ」「知佳ちゃん、、勇気を出して、楽しく前へ進め。もう振り返らないでくれ。いいか?」「知佳ちゃん、さようなら」リハーサルが終わり、疲れ切って舞台に倒れ込んだとき、彼女の胸の奥から、答える声が聞こえた。――分かった、さようなら。私は前へ進む。もう振り返らない。振り返らないと決めたら、知佳は言ったとおりにした。公演が終わると、紗希たちと一緒に帰路についた。それから彼女は、ほとんど毎年のように一度はアイルランドへ行った。夏のことも冬のこともあるが、いつもダブリンで交流活動に参加して、そのまま帰るだけだった。彼女は知っている。かつてダブリンに一片の雪が落ち、そしてすでに、音もなく消えてしまったことを。それでいい。彼が言ったとおり、因果は雪とともに終わり、もう「その後」などない。家族は、知佳がふと眠ったまま何日も起きない癖を二度と起こさなくなったことを喜んだ。だが彼らは知らない。彼女が「別の世界の夢」にも、もう二度と戻らなくなったことを。まるで、あの「すべての因果は終わった」という一言のあと、本当に終わってしまったみたいに。このまま穏やかで、健やかで、幸せな日々が続いていくのだと、彼女は思っていた。だが四年後の夏、朱莉が庭に植えたキンセンカに最初の蕾がついたころ、彼女は再び夢の中で別の時空へと入り込んだ。今度の場所は、まさかの病院だった。ナースステーションに電子時計があり、彼女は漂いながらつい日付を見た。その数字を目にした瞬間、頭を思い切り殴られたみたいになった。この日だ。かつて別の世界で、彼女が酔った拓海を助けた日。つまり今は、拓海が学部を卒業したあの夏休みなのだ。なのに、どうして夢は彼女を病院へ連れてきた?知佳はナースステーションを過ぎ、病室を一つ一つ通り過ぎていった。やがて、一番奥の個室の前で止まり、そのまま中へ漂い込んだ。ベッドには、顔色が真っ青で、骨と皮だけのような人が横たわっていた。病室のカードに「森川拓海」と書かれていなければ、彼女は目の前の人
彼はその手紙を知佳に差し出した。「森川さんの最後の頼みごと、これで果たしました」「……ありがとうございます」知佳は手紙を受け取った。封筒には「菅田知佳へ」と言葉が書かれていて、彼女にはそれを開ける勇気が出なかった。聖也が彼女の手を握る。「今、開けたくないなら、開けなくていい」「一生、開けない!」胸の奥に切なく苦い怨みが込み上げてきた。「分かった。じゃあ開けない」聖也は彼女の手を握ったまま、少し間を置いてから低い声で言った。「あいつは、父親と同じ病気になった。ただ、父親より少し早く見つかったんだ。あの交通事故のときに検査して、病気が分かった……」聖也は彼女の顔をうかがい、表情が変わらないのを見て、さらに強く手を握った。「あいつが俺に頼んだんだ。君には言わないでくれって。両脚を失ったことも、病気のことも、絶対に知らせないでくれって。隠して、治療も二年続けた。でも結局、病気の結末からは逃げられなかった。去年には本人ももう良くないと感じてたんだろう、どうしてもアイルランドへ行くって聞かなくて。アイルランドに行ってすぐ昏睡状態になった。俺が病院のICUに入れた。ICUで一年以上……そして昨日、亡くなった」霧がかかったような知佳の頭は、兄の話の中から二つの時間を掴んだ。――去年、ICUに入って昏睡。一年後の昨日、死亡……彼女は、何かが繋がった気がした。だから……だから貴久が、あんなに馴染み深く感じたんだ。だから、最後には知佳が貴久と一緒になったんだ。だから、昨日夢で見た貴久が、あんなにおかしな反応をしていたんだ。「来世があるなら、今度こそ俺は、あの人の願いを全部かなえてあげられるように頑張りたい」「……ふふ」彼女はまた笑った。目尻がつんと痛くなるような笑いだった。「知佳ちゃん」聖也は彼女の髪を撫でた。「そんな顔するな。まず、拓海は君が苦しまないようにって、だからこそ自分から君の前から消えた。それに、俺たちは拓海に借りなんてない。君たちは――もうチャラだ」本当に?チャラ?「彼は生涯、家族の許しを乞い続けた」兄の言葉が、まだ耳の奥で響いている。結局、知佳はその手紙を開いた。冒頭の「知佳」という二文字が、目に飛び込んできた。【知佳へ。本当は、この手紙を君に読ませたくなかった。俺のことはアイルラ
「……彼は波瀾万丈の人生を送った。成功もしたし、過ちも犯した。彼は生涯、家族の許しを乞い続け、最後は病に倒れて亡くなった……どうか天国には病も痛みもなく、来世では二度と過ちを繰り返さないように……」知佳の頭の中はぶんぶんと鳴り続け、耳も綿を詰められたみたいだった。壇上の人はたくさんのことを語っていたが、彼女の耳に入ってくるのは途切れ途切れの言葉だけだった。その人が話を終えると、ふいに顔を上げ、知佳を見つけた瞬間、顔色がさっと変わった。そして足早に知佳のほうへ向かってきた。「知佳ちゃん」彼は彼女の肩を掴んだ。涙でぐしゃぐしゃになった顔を見て、眉をきつく寄せる。彼の肩越しに、ぼやけた視界の中で、知佳は教会の他の人々が席から立ち上がり、順番に棺の上へ花を一輪ずつ置いていくのを見た。その中には見覚えのある姿もあった――かつて会ったことのある、アイルランドの宿の主人だ。「知佳ちゃん……」彼は茫然とした彼女の目を見て、抱き寄せようとした。知佳は力を込めて彼を押し返し、枯れた声で尋ねた。「お兄ちゃん……教えて。あそこに横たわってるの、誰?」聖也は唇を動かしたが、その名を口にする勇気が出なかった。「どうしてここにいるの?誰が亡くなったら、あなたが遺族として弔辞を読むの?お兄ちゃん、教えてよ。あなたの家族なら、私が知ってる人のはずでしょ?ねえ、そうだよね?」矢継ぎ早の質問に、聖也はもう逃げられなかった。「お兄ちゃん、答えて!」聖也はそっと目を閉じた。「ごめん、知佳ちゃん……」知佳は首を振る。「違う、お兄ちゃん。お兄ちゃんは誰にも謝る必要なんてない。お兄ちゃんは一番一番いいお兄ちゃん。私はただ……ただ、誰が中にいるのか知りたいだけ……」聖也は深く息を吸った。「……拓海だ」「は、はは……」知佳は、実はそうだろうと思っていた。けれど本当に口にされた瞬間、思わず笑ってしまった。笑いながら、足元がふっと崩れた。聖也がずっと支えていたから、彼女はそのまま兄の胸に落ちた。「知佳ちゃん、ごめん。ずっと隠してた」知佳は必死に首を振った。謝らなくていい。兄はもう、十分すぎるほどしてくれた。この世に、兄ほど優しい人はいない。聖也はため息をつき、彼女を支えながら最後列の座席に座らせた。教会ではすでにお別れの曲が歌われ始め、人々は列をなし
ノートに書かれていた具体的な文は、こうだった。【貴久、もしこの文章を目にしても、不思議に思わないでほしい。そして、どうしてなのかを尋ねないで。なぜなら、俺にも分からないからだ。広大な宇宙には、人間には説明できないことがどれほどあることか。お前と同級生になれたこと。ダチになれたこと。お前の足跡を追うように、お前が歩いた道を歩けたこと。ほんの短い間でも、お前として生きて、お前の代わりに選ぶことができたこと。そのすべてを、俺は幸運だったと思っている。お前のこれからの人生が、どうか平穏で、順風満帆で、幸せでありますように】知佳はその文字の上に漂い、自分の視点から、貴久のまつげが少しずつ潤んでいくのを見た。どこからともなく鐘の音が響き、その一つ一つが胸の奥を打って、鈍い痛みとなって広がっていった。どこかで読経の声まで聞こえてくる気がして、こめかみもずきずきと脈打つように痛み始める。朦朧とする意識のなか、ずっと遠い、ずっと遠い記憶の底から、誰かの声が聞こえた気がした。「来世があるなら、今度こそ俺は、あの人の願いを全部かなえてあげられるように頑張りたい」「ピン――」何かの通知音が鳴った。知佳は夢から放り出されるように飛び起き、上体を起こした。「団長、ごめんなさい。スマホ、マナーモードにするの忘れてて……」紗希は彼女と同室で、さっきメッセージが来て知佳を起こしてしまい、気まずそうにした。知佳は首を振った。「大丈夫。私……ただ夢を見てただけ」「悪い夢?」紗希が心配そうに尋ねる。知佳は少し迷った。悪夢かどうか、自分でも分からない……「まだ夜明け前だし、もう少し寝よう」知佳はまた横になり、素早く目を閉じた。貴久のノートにあった文字が、まざまざと脳裏に焼きついている。見慣れた筆跡――彼女がこれ以上ないほど見慣れている人の字だ。もう一度夢に入って、もっとはっきり確かめたい。いったい何が起きたのか、どういうことなのか知りたい。けれど、夢に入るどころか、彼女はまったく眠れなかった。目を開けたまま夜が明けた。まだ時間は早い。今日のリハーサルは午後で、メンバーたちもまだ起きていない。窓の外の白い雪景色を見ていると、夢の中の首都――初雪に覆われたキャンパスを思い出した。彼女は厚手の服を着込み、自分をぐるぐる巻き