Share

第8話

Auteur: たちばな林檎
誠を見上げて、私ははっきりと言った。

「行ってきて。仕事でしょ」

誠はどこか落ち着かない顔のまま、スマホを握りしめた。

たぶん、心のどこかで何かを察しているのだろう。今日は、家を出る直前まで何度も同じことを繰り返していた。

「俺、すぐ帰るから、待っててな?本当にすぐ戻るから」

玄関のほうへ向かいながらも、何度も振り返って私の様子を確かめた。

あまりにも名残惜しそうだったから、私は苦笑して立ち上がり、玄関まで送っていった。

「はいはい。ちゃんと仕事してきて。家で待ってるから」

それでようやく、誠を車に送り込んだ。

テールランプが見えなくなるまで見送ってから、私はゆっくりと家の中に戻る。リビングの真ん中に置いてある、ピンク色の小さな金庫を開けた。

中に、中絶同意書と離婚届のコピーを、きれいに重ねて入れた。

蓋を閉め、ダイヤルを回してロックをかける。それから、誠宛てに一通のメッセージを送った。

【家に戻ったら、プレゼント開けていいよ】

返事は一瞬だった。

【分かった。待ってて。すぐ帰るから】

それ以上、返信なんかしない。代わりに、前もって用意しておいたスーツケー
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Latest chapter

  • 愛の果ては、他人でした   第11話

    続きは、その事故の詳細だった。相手はスピードが速すぎて、その場で即死。誠は重傷で運ばれて、意識不明。それに両足も、多分もうダメだろうっていう話だ。私は片眉を上げて、「そう」とだけ返した。電話の向こうにいる友だちは、私と誠の馴れ初めから全部知っている人だ。ため息をひとつつくと、「また連絡する」とだけ言って電話を切った。それから、私の日常は何事もなかったように静けさを取り戻した。……数日後。スタジオで残業をしていた私は、東国からの着信に気づいた。見覚えのない番号。当然のように、それをスルーした。その後も二通、三通と続いて……あまりにもしつこいから、一旦ブースから出て、廊下で通話ボタンを押した。耳に飛び込んできたのは、聞き覚えのある女性の泣き声だった。「結衣?……結衣なのね?」誠の母だった。「ごめんね、こんな電話するなんておかしいとは分かってるんだけど……誠がね、このままだと、本当にダメかもしれないの」呼吸を整えるように少し間を置いてから、嗚咽混じりの声が続いた。「先生は、生きる気力がまるでないって……今は本当に、自分から死に向かっていくみたいで……私には、誠しかいないの。どうかお願い……一度でいいから、この子に会ってくれない?」電話越しでも分かるくらい、必死だった。誠と結婚してからの数年間、義母と会う機会はそんなに多くなかった。それでも、会うたびに本当の娘みたいに接してくれた。あの人たちと一緒にいるときだけは、少しだけ「両親が生きていた頃」の空気を思い出せた。誠とのことは、もうどうにもならない。それでも、義母の泣き声をここまで聞かされてしまうと、完全に無視できるほど、私の心はそんなに強くはなかった。どうしようか迷っているうちに、電話の向こうから突然悲鳴が上がった。「ちょっとあなた!しっかりして!」どうやら、義父が、息子の状態に耐えきれず、倒れたらしい。モニター音、誰かの呼ぶ声、バタバタとした足音。騒然とした気配が、受話器越しに伝わってくる。胸のあたりがきゅっと縮まり、私は小さくため息をついた。「……分かりました。一度帰ります」電話を切ると、天音が事情を聞き、少し困ったように笑った。「まあ、行くしかないよね。それは。でもさ、結衣ちゃん。これは誠の

  • 愛の果ては、他人でした   第10話

    誠は、私が引っ込めようとした手を、反射的に掴んだ。「本当に……悪かった。本当に、本当に分かってるんだ。もう一度だけ、チャンスくれないか?お願いだから、今度こそ、絶対ゆいのことを大事にする……」必死に縋りついてくるその言葉を、私は力任せに振り払った。玄関の外へ、ぐいっと押し出す。「よくそんな口が利けるよね。人に許しを乞うときの顔だけは、一丁前なんだ」扉の前に立つ誠を睨みつけながら、私は続けた。「浮気してるときにさ、私がどんな気持ちになるのか、少しでも想像したことある?」私の言葉を遮るように、誠が慌てて叫んだ。「……ある!それは考えた!俺は──」「何を?『どうせ子どももできないし、バレなきゃセーフだ』って?」自分でも驚くくらい、声が冷え切っていた。「私のことなんて、どうせ『子どもも産めないハズレの女』くらいにしか思ってなかったんでしょ。上手く隠し通せれば、私は一生気づかないって、そう思ってたんだよね?」一歩近づくたびに、誠は首を振りながら下がっていく。後悔という名の涙なのか、絶えることなくその頬を伝って落ちていく。こんなに派手に泣いている誠を見るのは、何年一緒にいても初めてだ。結局、望みどおり「沢村家の奥さん」の席は空けてあげたのに。今さら、何を失って泣いているのか。見るのも嫌になって、視線を外す。「沢村誠、もういい加減やめてくれない?」私は静かに告げた。「どこが『大事にする』なの?実際に大事にしたのは、いつも自分の気持ちだけでしょ」「ち、違う!俺が大事にしたいのは、ゆい!君だけなんだ!」誠は苦しそうに言葉を絞り出す。「俺は……最低だった。バレなきゃ大丈夫だって、最初は本当にそう思ってた。でも、もう懲りた。だから──」「だから、何?」私は鼻で笑った。「『子ども、もういないから許して』って?花音との子を消したから、それでチャラにしてくれってこと?」誠の目が、一瞬揺れた。「……あの子は、もうおろした。全部終わらせた。だからゆい……頼む、一緒に東国に帰ろう。俺たちは、まだやり直せるんだ。今度こそ、二人の子どもを──」その言葉に、喉の奥から笑いが込み上げた。「本当に、笑っちゃうね。もしかして、ずっと『私が子どもなんて嫌いだから、子どもがいないんだ』とでも思ってたの

  • 愛の果ては、他人でした   第9話

    久しぶりに会った私に、彼女は気まずさを挟ませる隙なんて一ミリもくれなかった。玄関を上がった瞬間から、フランスでの生活、東国と違うちょっと変な文化、最近ハマっている音楽や近所の美味しいお店の話まで、マシンガンみたいにしゃべり倒してくる。ひと通り一人で盛り上がったあと、ようやく私の顔をまじまじと見て、ニヤッと笑った。「でさ、結衣ちゃん。フランスまで逃げてきて、これから何やるの?」その質問には、もうとっくに答えを決めてある。もともと私は、そこそこ名の知れた歌い手だった。でも誠と結婚してから、「そばにいてあげたい」という理由で、歌も活動も全部やめて、家におさまった。結果、あの有様だ。だったらこれから先は、自分のためだけに時間を使う。「また、歌おうと思ってる」そう言うと、天音は即答だった。「いいじゃん、それ。ていうか結衣ちゃんは歌わない方が世界の損だって。はい決まり、スタジオ作ろ〜!」そこからの天音の行動力は、本当に惚れ惚れするレベルだった。物件探し。契約の手続き。機材の手配。配信環境の設定。面倒で逃げ出したくなるような部分を、あっという間に片付けてくれた。雑念を捨てて、マイクと向き合うだけでいい環境が整ったとたん、嘘みたいにメロディが湧いてきた。一ヶ月で、新曲二つ。どっちも小さくバズって、コメント欄には、少しずつ知らない名前が増えていった。【新曲最高でした!】【歌声に救われました】【次の曲も楽しみにしてます!】そんな一言一言を、毎晩ベッドの上で読み返すのが日課になった。画面の向こうから届く声が、ちゃんと今の私を見てくれている気がして。ああ、まだこの先の人生に、楽しみにしていいものが残っているんだって、素直に思えた。過去を全部捨てて、ここからやり直す。その選択は、間違っていなかった。そう確信し始めた頃、誠がまた私の世界に踏み込んできたのだ。その日も、スタジオで遅くまで残業して、締め作業を終えた帰りだった。テイクアウトの紙袋を片手に、家への道を歩いていた。後ろから、ずっと同じリズムでついてくる足音に、私は気づいた。背筋が冷たくなる。スマホを取り出して、通報しようとしたその瞬間。ぐい、と腕を引かれて、そのまま誰かの胸に押しつけられた。鼻先をかすめた匂

  • 愛の果ては、他人でした   第8話

    誠を見上げて、私ははっきりと言った。「行ってきて。仕事でしょ」誠はどこか落ち着かない顔のまま、スマホを握りしめた。たぶん、心のどこかで何かを察しているのだろう。今日は、家を出る直前まで何度も同じことを繰り返していた。「俺、すぐ帰るから、待っててな?本当にすぐ戻るから」玄関のほうへ向かいながらも、何度も振り返って私の様子を確かめた。あまりにも名残惜しそうだったから、私は苦笑して立ち上がり、玄関まで送っていった。「はいはい。ちゃんと仕事してきて。家で待ってるから」それでようやく、誠を車に送り込んだ。テールランプが見えなくなるまで見送ってから、私はゆっくりと家の中に戻る。リビングの真ん中に置いてある、ピンク色の小さな金庫を開けた。中に、中絶同意書と離婚届のコピーを、きれいに重ねて入れた。蓋を閉め、ダイヤルを回してロックをかける。それから、誠宛てに一通のメッセージを送った。【家に戻ったら、プレゼント開けていいよ】返事は一瞬だった。【分かった。待ってて。すぐ帰るから】それ以上、返信なんかしない。代わりに、前もって用意しておいたスーツケースをクローゼットから引き出し、そのまま家を出た。目指すのは空港。チェックインを済ませ、搭乗ゲートへ向かう頃には、例の“記念ムービー”は予定どおり送信されていたはずだ。搭乗前、最後に一度だけスマホを確認した。通話履歴は、誠の名前で埋め尽くされていた。【沢村誠 不在着信沢村誠 不在着信(2)沢村誠 不在着信(3)……】私はそのすべてを無視して、電源を落とし、SIMカードを引き抜いた。指先で、それを二つに折った。パキン、と乾いた音がして、ひとつの世界との繋がりを、自らの手で断ち切った。そのまま振り返らずに、私はフランス行きの便に乗り込んだ。……同じ頃。誠は車の中で、固まったようにスマホの画面を見つめていた。再生されているのは、結衣が作った「記念ムービー」。花音との出会いから、昨日までのあらゆるシーンが、写真と動画で次々と流れていく。キャンドルディナー。胎教ごっこ。ベッド。バスルーム。浴槽。画面上部の送り主の欄には、見慣れた名前が表示されている。──「ゆい」。誠は顔を上げ、助手席の花音を睨みつける。

  • 愛の果ては、他人でした   第7話

    送られてきた画像をタップする。一枚目。テーブルの上に並んだキャンドル。その向かい合った席で、満面の笑みを浮かべる二人。二枚目。ソファで肩を寄せ合いながら、花音のお腹にそっと手を添える誠。三枚目。キングサイズのベッドの上で、絡み合う二つの影。四枚目。バスルームの中、シャワーを浴びながら、ぴったりとくっついている二人。五枚目。浴槽の中、我慢しきれなかったらしい誠と、その下敷きになっている花音──……まるで素人ポルノのカタログみたいだ。私は、驚くほど冷静なまま、それらの写真を何度もスワイプして見返した。心が死ぬと、人間って本当に静かになるんだな、と他人事みたいに思いながら。ひと通り眺め終えると、用意しておいた編集ソフトを立ち上げ、完成した動画を自分のメールアドレスに送信した。その上で、翌日の夜七時ちょうどに、誠と花音のアドレス宛てに自動送信されるよう、タイマーをセットした。二人が並んでスマホを見て、この「記念ムービー」を再生するとき、きっと、とびきり素敵な表情をしてくれるだろう。……その場にいられないのが、少しだけ惜しい。そう思っていた、その夜の零時ちょうど。玄関の鍵が回る音がして、誠が帰ってきた。そのときの私は、出国前の最終チェックをしているところだった。書類、パスポート、航空券。それに金庫の暗証番号、メールのタイマー設定。全部を頭の中でなぞっていたところに、冷たい外気をまとった誠が、勢いよく駆け寄ってきた。何が起きたのか理解する前に、ぎゅっと抱きしめられる。「……ゆい!」耳元で、震える声がした。「今日一日中、胸がずっとざわざわしててさ……何か、大事なものが、俺の世界から消えちゃうみたいな感じがして……」声は低くてくぐもっているのに、腕の力だけはやけに強い。息が詰まりそうになって、私は両手で彼の胸を押し返した。「仕事しすぎでしょ。ただの疲れだよ」代わりにそう言ってやると、誠は顔を上げず、私の手を強く握りしめた。「会社のほうは、もう目処が立ったから……明日からはずっと家にいる。ゆいと一緒に過ごす!」一瞬で、背筋が冷たくなる。──何か、勘づかれた?考える暇もなく、誠が続けた。「もう、俺を突き放さないでくれよ……一生、俺のそばからいなくならないって、約束して?」

  • 愛の果ては、他人でした   第6話

    自由まで、あと二日。その日の朝、私は誠をなんとか会社に送り出した。本当は、最後まで家にいたいらしくて。「ドライブでも行く?」なんて言い出したけれど——私はリビングの端に置いてある、ピンク色の小さな金庫を指さした。「ほら、前に言ってたプレゼントね。あれ、中身はもう入れてあるよ」「え?マジで?」「本当だよ。でもね、ちゃんと仕事してこなかったら、中身は全部処分するから」誠の目が、一瞬でキラキラし始めた。さっそく金庫の前にしゃがみ込み、ダイヤルをいじったり、持ち上げたり、耳を当ててみたり、あれこれ試しているけれど——当然、開くはずがない。「結衣、暗証番号だけ教えてくれない?」「二日後」私はにこっと笑って、首を振った。「ちゃんと働いてきたら教えてあげる。そのとき、気に入ってくれるといいな」誠は、真面目な顔でこくんと頷いた。「ゆいがくれるものなら、何でも嬉しいに決まってるだろ」その言葉に、私は何も返さない。本当は、真相に気づいたときの顔を、この目で見届けたかった。絶対、いい顔してくれるのに。玄関のドアが閉まる音を聞き届けてから、私は着替えて家を出た。向かった先は、産婦人科の病院。まさか、ここで花音と鉢合わせするとは思ってもみなかった。彼女は少しだけ膨らんだお腹をさすりながら、上機嫌な顔で私を眺める。「おやおや。正妻のゆいさんじゃない?奇遇ねえ。こんなところまで、どうされたの?まさか、不妊治療の相談とか?」露骨な挑発に、心は一ミリも揺れなかった。言っていることは、半分だけ正しい。確かに、私は妊娠しづらい体になっている。でもそれは、体質の問題でも、神様の悪戯でもない。昔、誠が事故で川に落ちたとき、無理をして助けたせいで体を壊した。これも、その後遺症の一つだった。そんなことを打ち明けたら、誠が一生、自分を責め続けるだろう。それが目に見えていたから、私はずっと黙っていた。誠は今でも、私が子どもを欲しがらないから、二人のあいだに子どもがいないんだと信じ込んでいる。私は何も答えず、受付を済ませて診察室へ向かう。花音は、興味津々といった様子で、私の後ろにぴったりついてきた。医者と必要事項を話し、書類に記入し、同意書を提出する。やがて、コピー機から一枚の紙が吐き出され、私

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status