LOGIN友だちとの飲み会。 私は沢村結衣(さわむら ゆい)。テーブルの向こう側で、夫の友人、相原亮太(あいはら りょうた)がふいにフランス語を口にした。 「なあ、お前が外で囲ってるあの子さ、もう妊娠二ヶ月だろ。どうするつもりなんだ?」 その問いを向けられた相手、そして私の夫でもある沢村誠(さわむら まこと)は、ほんの少し口元を上げただけで、顔色ひとつ変わらなかった。「外で囲ってるあの子」というのは、恐らく坂井花音(さかい かのん)のことだ。 まるで聞き慣れた天気の話でもしているみたいに、私の皿に刺身を乗せてくる。 その手つきのまま、同じくフランス語でさらりと言った。 「ゆいは子ども嫌いだからさ。花音にはちゃんと産ませて、子どもごと海外に出すつもり。俺の跡継ぎってことで取っておくよ」 噛みしめたエビは、もう何の味もしない。ただ頬を伝うものだけが、やけに熱い。 「結衣、どうした?」 すぐ隣で、慌てた東国語の声が響く。そっと涙を拭ってから、私はいつもの笑顔を無理やり貼りつけてみせた。 「このピリ辛ソース、ちょっと効きすぎたみたい」 本当は、しょっぱい醤油の味しかしない。 辛いのは舌じゃなくて、胸の奥。 涙の理由はただひとつ。 ──私は、フランス語が分かる。
View More続きは、その事故の詳細だった。相手はスピードが速すぎて、その場で即死。誠は重傷で運ばれて、意識不明。それに両足も、多分もうダメだろうっていう話だ。私は片眉を上げて、「そう」とだけ返した。電話の向こうにいる友だちは、私と誠の馴れ初めから全部知っている人だ。ため息をひとつつくと、「また連絡する」とだけ言って電話を切った。それから、私の日常は何事もなかったように静けさを取り戻した。……数日後。スタジオで残業をしていた私は、東国からの着信に気づいた。見覚えのない番号。当然のように、それをスルーした。その後も二通、三通と続いて……あまりにもしつこいから、一旦ブースから出て、廊下で通話ボタンを押した。耳に飛び込んできたのは、聞き覚えのある女性の泣き声だった。「結衣?……結衣なのね?」誠の母だった。「ごめんね、こんな電話するなんておかしいとは分かってるんだけど……誠がね、このままだと、本当にダメかもしれないの」呼吸を整えるように少し間を置いてから、嗚咽混じりの声が続いた。「先生は、生きる気力がまるでないって……今は本当に、自分から死に向かっていくみたいで……私には、誠しかいないの。どうかお願い……一度でいいから、この子に会ってくれない?」電話越しでも分かるくらい、必死だった。誠と結婚してからの数年間、義母と会う機会はそんなに多くなかった。それでも、会うたびに本当の娘みたいに接してくれた。あの人たちと一緒にいるときだけは、少しだけ「両親が生きていた頃」の空気を思い出せた。誠とのことは、もうどうにもならない。それでも、義母の泣き声をここまで聞かされてしまうと、完全に無視できるほど、私の心はそんなに強くはなかった。どうしようか迷っているうちに、電話の向こうから突然悲鳴が上がった。「ちょっとあなた!しっかりして!」どうやら、義父が、息子の状態に耐えきれず、倒れたらしい。モニター音、誰かの呼ぶ声、バタバタとした足音。騒然とした気配が、受話器越しに伝わってくる。胸のあたりがきゅっと縮まり、私は小さくため息をついた。「……分かりました。一度帰ります」電話を切ると、天音が事情を聞き、少し困ったように笑った。「まあ、行くしかないよね。それは。でもさ、結衣ちゃん。これは誠の
誠は、私が引っ込めようとした手を、反射的に掴んだ。「本当に……悪かった。本当に、本当に分かってるんだ。もう一度だけ、チャンスくれないか?お願いだから、今度こそ、絶対ゆいのことを大事にする……」必死に縋りついてくるその言葉を、私は力任せに振り払った。玄関の外へ、ぐいっと押し出す。「よくそんな口が利けるよね。人に許しを乞うときの顔だけは、一丁前なんだ」扉の前に立つ誠を睨みつけながら、私は続けた。「浮気してるときにさ、私がどんな気持ちになるのか、少しでも想像したことある?」私の言葉を遮るように、誠が慌てて叫んだ。「……ある!それは考えた!俺は──」「何を?『どうせ子どももできないし、バレなきゃセーフだ』って?」自分でも驚くくらい、声が冷え切っていた。「私のことなんて、どうせ『子どもも産めないハズレの女』くらいにしか思ってなかったんでしょ。上手く隠し通せれば、私は一生気づかないって、そう思ってたんだよね?」一歩近づくたびに、誠は首を振りながら下がっていく。後悔という名の涙なのか、絶えることなくその頬を伝って落ちていく。こんなに派手に泣いている誠を見るのは、何年一緒にいても初めてだ。結局、望みどおり「沢村家の奥さん」の席は空けてあげたのに。今さら、何を失って泣いているのか。見るのも嫌になって、視線を外す。「沢村誠、もういい加減やめてくれない?」私は静かに告げた。「どこが『大事にする』なの?実際に大事にしたのは、いつも自分の気持ちだけでしょ」「ち、違う!俺が大事にしたいのは、ゆい!君だけなんだ!」誠は苦しそうに言葉を絞り出す。「俺は……最低だった。バレなきゃ大丈夫だって、最初は本当にそう思ってた。でも、もう懲りた。だから──」「だから、何?」私は鼻で笑った。「『子ども、もういないから許して』って?花音との子を消したから、それでチャラにしてくれってこと?」誠の目が、一瞬揺れた。「……あの子は、もうおろした。全部終わらせた。だからゆい……頼む、一緒に東国に帰ろう。俺たちは、まだやり直せるんだ。今度こそ、二人の子どもを──」その言葉に、喉の奥から笑いが込み上げた。「本当に、笑っちゃうね。もしかして、ずっと『私が子どもなんて嫌いだから、子どもがいないんだ』とでも思ってたの
久しぶりに会った私に、彼女は気まずさを挟ませる隙なんて一ミリもくれなかった。玄関を上がった瞬間から、フランスでの生活、東国と違うちょっと変な文化、最近ハマっている音楽や近所の美味しいお店の話まで、マシンガンみたいにしゃべり倒してくる。ひと通り一人で盛り上がったあと、ようやく私の顔をまじまじと見て、ニヤッと笑った。「でさ、結衣ちゃん。フランスまで逃げてきて、これから何やるの?」その質問には、もうとっくに答えを決めてある。もともと私は、そこそこ名の知れた歌い手だった。でも誠と結婚してから、「そばにいてあげたい」という理由で、歌も活動も全部やめて、家におさまった。結果、あの有様だ。だったらこれから先は、自分のためだけに時間を使う。「また、歌おうと思ってる」そう言うと、天音は即答だった。「いいじゃん、それ。ていうか結衣ちゃんは歌わない方が世界の損だって。はい決まり、スタジオ作ろ〜!」そこからの天音の行動力は、本当に惚れ惚れするレベルだった。物件探し。契約の手続き。機材の手配。配信環境の設定。面倒で逃げ出したくなるような部分を、あっという間に片付けてくれた。雑念を捨てて、マイクと向き合うだけでいい環境が整ったとたん、嘘みたいにメロディが湧いてきた。一ヶ月で、新曲二つ。どっちも小さくバズって、コメント欄には、少しずつ知らない名前が増えていった。【新曲最高でした!】【歌声に救われました】【次の曲も楽しみにしてます!】そんな一言一言を、毎晩ベッドの上で読み返すのが日課になった。画面の向こうから届く声が、ちゃんと今の私を見てくれている気がして。ああ、まだこの先の人生に、楽しみにしていいものが残っているんだって、素直に思えた。過去を全部捨てて、ここからやり直す。その選択は、間違っていなかった。そう確信し始めた頃、誠がまた私の世界に踏み込んできたのだ。その日も、スタジオで遅くまで残業して、締め作業を終えた帰りだった。テイクアウトの紙袋を片手に、家への道を歩いていた。後ろから、ずっと同じリズムでついてくる足音に、私は気づいた。背筋が冷たくなる。スマホを取り出して、通報しようとしたその瞬間。ぐい、と腕を引かれて、そのまま誰かの胸に押しつけられた。鼻先をかすめた匂
誠を見上げて、私ははっきりと言った。「行ってきて。仕事でしょ」誠はどこか落ち着かない顔のまま、スマホを握りしめた。たぶん、心のどこかで何かを察しているのだろう。今日は、家を出る直前まで何度も同じことを繰り返していた。「俺、すぐ帰るから、待っててな?本当にすぐ戻るから」玄関のほうへ向かいながらも、何度も振り返って私の様子を確かめた。あまりにも名残惜しそうだったから、私は苦笑して立ち上がり、玄関まで送っていった。「はいはい。ちゃんと仕事してきて。家で待ってるから」それでようやく、誠を車に送り込んだ。テールランプが見えなくなるまで見送ってから、私はゆっくりと家の中に戻る。リビングの真ん中に置いてある、ピンク色の小さな金庫を開けた。中に、中絶同意書と離婚届のコピーを、きれいに重ねて入れた。蓋を閉め、ダイヤルを回してロックをかける。それから、誠宛てに一通のメッセージを送った。【家に戻ったら、プレゼント開けていいよ】返事は一瞬だった。【分かった。待ってて。すぐ帰るから】それ以上、返信なんかしない。代わりに、前もって用意しておいたスーツケースをクローゼットから引き出し、そのまま家を出た。目指すのは空港。チェックインを済ませ、搭乗ゲートへ向かう頃には、例の“記念ムービー”は予定どおり送信されていたはずだ。搭乗前、最後に一度だけスマホを確認した。通話履歴は、誠の名前で埋め尽くされていた。【沢村誠 不在着信沢村誠 不在着信(2)沢村誠 不在着信(3)……】私はそのすべてを無視して、電源を落とし、SIMカードを引き抜いた。指先で、それを二つに折った。パキン、と乾いた音がして、ひとつの世界との繋がりを、自らの手で断ち切った。そのまま振り返らずに、私はフランス行きの便に乗り込んだ。……同じ頃。誠は車の中で、固まったようにスマホの画面を見つめていた。再生されているのは、結衣が作った「記念ムービー」。花音との出会いから、昨日までのあらゆるシーンが、写真と動画で次々と流れていく。キャンドルディナー。胎教ごっこ。ベッド。バスルーム。浴槽。画面上部の送り主の欄には、見慣れた名前が表示されている。──「ゆい」。誠は顔を上げ、助手席の花音を睨みつける。
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