All Chapters of 愛の果ては、他人でした: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

友だちとの飲み会。私は沢村結衣(さわむら ゆい)。テーブルの向こう側で、夫の友人、相原亮太(あいはら りょうた)がふいにフランス語を口にした。「なあ、お前が外で囲ってるあの子さ、もう妊娠二ヶ月だろ。どうするつもりなんだ?」その問いを向けられた相手、そして私の夫でもある沢村誠(さわむら まこと)は、ほんの少し口元を上げただけで、顔色ひとつ変わらなかった。「外で囲ってるあの子」というのは、恐らく坂井花音(さかい かのん)のことだ。まるで聞き慣れた天気の話でもしているみたいに、私の皿に刺身を乗せてくる。その手つきのまま、同じくフランス語でさらりと言った。「ゆいは子ども嫌いだからさ。花音にはちゃんと産ませて、子どもごと海外に出すつもり。俺の跡継ぎってことで取っておくよ」噛みしめたエビは、もう何の味もしない。ただ頬を伝うものだけが、やけに熱い。「ゆい、どうした?」すぐ隣で、慌てた東国語の声が響く。そっと涙を拭ってから、私はいつもの笑顔を無理やり貼りつけてみせた。「このピリ辛ソース、ちょっと効きすぎたみたい」本当は、しょっぱい醤油の味しかしない。辛いのは舌じゃなくて、胸の奥。涙の理由はただひとつ。──私は、フランス語が分かる。誠は、もう忘れてしまったのかもしれない。私の専攻がフランス語だったこと。そして、彼がフランス語を覚えた理由が、「私を落とすため」だったことも。そこまで思い出したところで、私は現実に引き戻される。顔を上げると、誠がテーブルに片肘をつき、じっとこちらを眺めていた。「ボーッとして、何考えてた?」視線だけ返して、言葉は飲み込む。代わりに、レモンティーのポットに手を伸ばして、自分のカップに注ごうとした。しかしポットは、ふいに横からさらわれる。「こういうのは自分でやることじゃない。言ってくれればいいんだ」当然のようにレモンティーを注ぎながら、彼はいつもどおりの優しい夫を演じている。向かいの席で、亮太が頬を押さえながら大げさに唸った。「なあ、バカップル。人前でイチャつくの、そろそろ犯罪なんじゃない?独り身には刺激強すぎてさ、歯が浮くんだけど」誠はちらりと彼を睨み、口の端だけで笑った。「うちは嫁至上主義なんで、今さらだろ?嫌なら黙って食ってろ」「へいへい、ご
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第2話

誠は振り返りもせず、相変わらず私の肩にもたれたまま答えた。「二次会はパス。ゆいの『お薬タイム』だから、今日は一緒に帰る」亮太が、分かりやすく舌打ちをする。「ほーら!やっぱ出たよ、嫁第一宣言。はいはい、愛妻家お疲れさま」それ以上突っ込まず、亮太は勝手に去っていった。おそらく、そのまま二次会に向かったのだろう。ちょうどそのとき、私のスマホが震えた。画面に浮かんでいたのは、たった二行のメッセージ。【今夜誠はどっちか、当ててみる?『お薬タイム』で素直に帰る?それとも、私と遊びに来る?】私の視線は、そこで固まった。足が止まったのに気づいたのか、誠が顔を寄せてくる。「ゆい?どうした」慌てて画面を消して、私は何でもないふりで笑ってみせた。「ううん、何でもない。泥棒猫からの挑発メッセージが来ただけ」「……は?」誠の眉がぴくりと寄る。私の手の中のスマホを取ろうと、彼の指先が伸びてきた、その瞬間。今度は、誠のスマホが鳴り出した。耳に刺さる、聞き覚えのある音。あれは花音専用の着信音だ。私は自分のスマホを、わざと彼の目の前に差し出した。「こっちは見たい?それとも電話に出る?」見上げた先で、誠の目がかすかに震えた。そして甘えるみたいに、私の首筋に顔をすり寄せてきた。「ゆい……いじめないで」私はその頭を押し返し、平坦な声音で告げた。「電話、ずっと鳴ってるよ。出てみたら?」ようやく誠は体を起こし、「ちょっと外で」とでも言いたげに口を開きかけた。しかしその言葉を聞く前に、私は先に店の入口へと向かった。そこには、すでに運転手が待機していた。誠の目に、一瞬だけ驚きが走った。けれど、電話の向こうから聞こえてきた甘い声に、彼の表情はすぐにいつものものへと戻っていく。車の中から、ガラス越しにその様子がはっきりと見えた。その目は、さっきまで酔っていた人とは思えないほど、きらきらと輝いていて、しっかりとした光を宿していた。視線を窓から引き剥がし、私は胸の奥に湧き上がる痛みを飲み込んだ。今夜、誠が家に帰ってくることはない。そんな確信だけが、妙に冷静に胸の底へと沈んでいった。案の定、通話が切れた直後、またメッセージが届いた。【はーい!ゆいさんの負け。今の誠が一番大事にしてるのは
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第3話

誠の心がもう私だけを向いていないのなら……ここにあるものは全部、今の彼が「いちばん大事にしている人」に渡すのが筋だろう。そう思いながら、私はハサミを握り、オーダーメイドのスーツをざくりと切り裂いていく。これが私から誠に贈ったスーツだった。ちょうどそのとき、玄関のほうでドアの開く音がした。「ゆい?」寝室から誠の声が聞こえる。軽く返事だけして、手を止めることはなかった。足音が近づき、誠がウォークインクローゼットの入口に姿を現す。私の手元を見た瞬間、彼が持っていた紙袋が、危うく床に落ちそうになった。「……ゆい?」慌てて駆け寄ってきた誠はそのまましゃがみ込んで、私の手首をぎゅっと掴んだ。「何してるの?そのスーツ……」少し首を傾けて、私は彼を見つめる。その顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。まるで答え合わせでもするみたいに、私は何でもなさそうな調子で口を開いた。「近くの公園にね、野良猫が三匹も住みついちゃっててさ」私は唇の端だけで笑ってみせた。「このスーツ、ちょうどいいかなって。猫たちのベッドにしてあげようと思って」しばらく、誠は何も言えなかった。やっと絞り出した声は、情けないほど震えていた。「でも、それ……ゆいが俺にくれた唯一のプレゼントなんだよ?大事にしすぎて、普段もなかなか着られなかったのに」視線を落として、私は再びハサミを動かす。──そんなこと、誰よりも私が一番よく分かっている。だからこそ、これを選んだ。誠は俯いたまま、ずっと私の手元を見つめていた。どれくらい時間が経っただろうか。ようやく、少しだけ落ち着いた声音で誠が口を開いた。「このスーツ、切っちゃったならさ……代わりに、新しいのを一着プレゼントしてくれない?」顔を上げると、誠の目がこちらを必死に覗き込んでいた。私はわざと柔らかく微笑んでみせた。「いいよ。むしろ、ちょうどプレゼントを二つ用意してあるから」その瞬間、誠の瞳に一気に光が宿った。「本当?マジで?どこ?どこにあるの?」子どもみたいな声でそう言って、私をそっと抱き寄せた。その腕は相変わらず暖かいのに、胸の内側には、冷たいものだけがじわじわと広がっていった。私は彼を突き飛ばすこともせず、その肩越しに、床にある紙袋へ視線を滑らせた。
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第4話

出国までのカウントダウンが、日を追うごとに目に見えて減っていく。それなのに、肝心の離婚届にはまだ誠のサインがない。正面から切り出しても、きっとはぐらかされるだけだ。だから私は、昔の自分なら絶対に選ばなかった方法を選ぶしかなかった。その日、私はわざとシルクのキャミワンピに着替えた。露出多め、誠好み。ソファにゆるくもたれ、これ見よがしな甘えたポーズで誠の隣に身を寄せる。スマホを自撮りモードに切り替えて、誠との距離ギリギリの曖昧なカットを何枚も撮った。すべて撮り終えたあと、それをまとめて花音に送りつけた。狙いどおり、数秒も経たないうちに誠のスマホが鳴り出した。顔をしかめた誠は、通話を切ろうとする。その手を押さえて、私はそのまま通話ボタンをタップした。「ゆい……?」驚いたように、誠が私を見る。私はまっすぐ見返して、やさしく言った。「出てあげて。もしかして、急用かもしれないし」誠は少し黙り込んでから、通話をミュートに切り替えた。何かを言いかけては、私の表情を確かめるように口を閉じる。その動きを、何度も繰り返した。私が静かなまま彼を見つめていると、誠はようやく観念したように息を吐いた。「……ちょっと電話出てくる。すぐ戻るから」私はテーブルの上のポテチをつまみながら、「うん」とだけ答える。目はテレビのほうを向いていても、耳は完全に廊下のほうに向いていた。壁越しに、花音の泣き声がずっと続いているのが分かる。それに対して、誠は根気強く、優しく何かを言い聞かせている。電話がやっと切れた頃、誠は気まずそうな顔で部屋に戻ってきた。私が先に口を開く。「何かあったなら、そっち優先でいいよ。無理に付き合ってなくても平気だから」「本当に怒ってない?会社だって、やっと軌道に乗ってきたとこでさ……」言い訳の続きは、最後まで聞いてあげたくない。「分かってるよ。大変なのも、忙しいのも。……だから、行ってきて」私が遮るように言うと、誠はそれ以上何も言えなくなる。ドアに向かう前、ふいに振り返って、真面目な顔で告げた。「ゆい、一週間だけ時間をくれ。一週間で全部片付けるから。終わったら休み取って、前から言ってたあの雲ヶ丘市に、一緒に旅行に行こう」……まだ両親が生きていた頃、私たちはしばらくの間、雲ヶ丘市
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第5話

サワムラの社長をやっているくらいだからか、誠はベロベロに酔っていても、どこかに「エリートらしい冷静さ」を残している。だからこそ、正面から離婚届を突きつけても、絶対にサインなんかしない。となれば、使える手はひとつだけだった。感情にどっぷり浸からせて、考える隙を与えないこと。……自分で言っておいてなんだけど、ほんと、性格悪いと思う。それでも、さっきみたいにあっさりサインさせられたあたり、この作戦は見事に成功していた。最後の問題は、誠がシラフに戻ったときだ。そのとき、どんな顔をするんだろう。想像して、少しだけ喉の奥が冷たくなった。……サインの入った離婚届のコピーを、私はそっと封筒に入れて、わざわざオーダーしたピンク色の小さな金庫にしまった。出国前のプレゼントとして、誠に渡すつもりのものだ。金庫ごと、リビングのいちばん目立つ場所に置いてある──中身を開ける日を、ちゃんと楽しみにしてもらわないと。そう思うと、笑ってしまいそうになる自分がいる。一通り準備を終えると、ソファで眠り込んでいる誠のそばに、私はそのまま腰を下ろした。膝の上にノートパソコンを載せて、花音から送られてきた写真や動画の整理を始める。キーを打つ音に反応したのか、誠がうっすらと目を開けた。「……ゆい?」寝ぼけた声で、彼が手を伸ばしてくる。「何してるの。こっち来て、抱っこ」その甘えた声に、吐き気が込み上げてくる。私は口元を押さえ、そのままトイレまで駆け込んだ。胃の中のものが何も出てこなくなるまで、何度もえずいた。最後に出てきたのは、苦い液体だけ。冷たいに背中を預けて、肩で息をしながら、ふと気づく。……私、ここまで誠のことを嫌いになっていたんだ。自分でも、驚くくらいだった。大きな物音がしたせいか、誠は完全に目を覚ましていたらしい。ふらつきながらトイレに飛び込んできて、必死な顔で私の全身を見回した。「ゆい、大丈夫!?どこか痛い?気分悪い?」私の顔色が悪いだけだと分かると、誠はようやく胸をなで下ろした。「最近のゆい、なんかおかしいよな……何かあった?」そう言って、ギュッと抱きしめてくる腕に、じわりと力がこもる。アルコールと女物の香水が混ざった匂いが、一気に鼻に押し寄せた。思わず眉をひそめる。「離して……その
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第6話

自由まで、あと二日。その日の朝、私は誠をなんとか会社に送り出した。本当は、最後まで家にいたいらしくて。「ドライブでも行く?」なんて言い出したけれど——私はリビングの端に置いてある、ピンク色の小さな金庫を指さした。「ほら、前に言ってたプレゼントね。あれ、中身はもう入れてあるよ」「え?マジで?」「本当だよ。でもね、ちゃんと仕事してこなかったら、中身は全部処分するから」誠の目が、一瞬でキラキラし始めた。さっそく金庫の前にしゃがみ込み、ダイヤルをいじったり、持ち上げたり、耳を当ててみたり、あれこれ試しているけれど——当然、開くはずがない。「結衣、暗証番号だけ教えてくれない?」「二日後」私はにこっと笑って、首を振った。「ちゃんと働いてきたら教えてあげる。そのとき、気に入ってくれるといいな」誠は、真面目な顔でこくんと頷いた。「ゆいがくれるものなら、何でも嬉しいに決まってるだろ」その言葉に、私は何も返さない。本当は、真相に気づいたときの顔を、この目で見届けたかった。絶対、いい顔してくれるのに。玄関のドアが閉まる音を聞き届けてから、私は着替えて家を出た。向かった先は、産婦人科の病院。まさか、ここで花音と鉢合わせするとは思ってもみなかった。彼女は少しだけ膨らんだお腹をさすりながら、上機嫌な顔で私を眺める。「おやおや。正妻のゆいさんじゃない?奇遇ねえ。こんなところまで、どうされたの?まさか、不妊治療の相談とか?」露骨な挑発に、心は一ミリも揺れなかった。言っていることは、半分だけ正しい。確かに、私は妊娠しづらい体になっている。でもそれは、体質の問題でも、神様の悪戯でもない。昔、誠が事故で川に落ちたとき、無理をして助けたせいで体を壊した。これも、その後遺症の一つだった。そんなことを打ち明けたら、誠が一生、自分を責め続けるだろう。それが目に見えていたから、私はずっと黙っていた。誠は今でも、私が子どもを欲しがらないから、二人のあいだに子どもがいないんだと信じ込んでいる。私は何も答えず、受付を済ませて診察室へ向かう。花音は、興味津々といった様子で、私の後ろにぴったりついてきた。医者と必要事項を話し、書類に記入し、同意書を提出する。やがて、コピー機から一枚の紙が吐き出され、私
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第7話

送られてきた画像をタップする。一枚目。テーブルの上に並んだキャンドル。その向かい合った席で、満面の笑みを浮かべる二人。二枚目。ソファで肩を寄せ合いながら、花音のお腹にそっと手を添える誠。三枚目。キングサイズのベッドの上で、絡み合う二つの影。四枚目。バスルームの中、シャワーを浴びながら、ぴったりとくっついている二人。五枚目。浴槽の中、我慢しきれなかったらしい誠と、その下敷きになっている花音──……まるで素人ポルノのカタログみたいだ。私は、驚くほど冷静なまま、それらの写真を何度もスワイプして見返した。心が死ぬと、人間って本当に静かになるんだな、と他人事みたいに思いながら。ひと通り眺め終えると、用意しておいた編集ソフトを立ち上げ、完成した動画を自分のメールアドレスに送信した。その上で、翌日の夜七時ちょうどに、誠と花音のアドレス宛てに自動送信されるよう、タイマーをセットした。二人が並んでスマホを見て、この「記念ムービー」を再生するとき、きっと、とびきり素敵な表情をしてくれるだろう。……その場にいられないのが、少しだけ惜しい。そう思っていた、その夜の零時ちょうど。玄関の鍵が回る音がして、誠が帰ってきた。そのときの私は、出国前の最終チェックをしているところだった。書類、パスポート、航空券。それに金庫の暗証番号、メールのタイマー設定。全部を頭の中でなぞっていたところに、冷たい外気をまとった誠が、勢いよく駆け寄ってきた。何が起きたのか理解する前に、ぎゅっと抱きしめられる。「……ゆい!」耳元で、震える声がした。「今日一日中、胸がずっとざわざわしててさ……何か、大事なものが、俺の世界から消えちゃうみたいな感じがして……」声は低くてくぐもっているのに、腕の力だけはやけに強い。息が詰まりそうになって、私は両手で彼の胸を押し返した。「仕事しすぎでしょ。ただの疲れだよ」代わりにそう言ってやると、誠は顔を上げず、私の手を強く握りしめた。「会社のほうは、もう目処が立ったから……明日からはずっと家にいる。ゆいと一緒に過ごす!」一瞬で、背筋が冷たくなる。──何か、勘づかれた?考える暇もなく、誠が続けた。「もう、俺を突き放さないでくれよ……一生、俺のそばからいなくならないって、約束して?」
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第8話

誠を見上げて、私ははっきりと言った。「行ってきて。仕事でしょ」誠はどこか落ち着かない顔のまま、スマホを握りしめた。たぶん、心のどこかで何かを察しているのだろう。今日は、家を出る直前まで何度も同じことを繰り返していた。「俺、すぐ帰るから、待っててな?本当にすぐ戻るから」玄関のほうへ向かいながらも、何度も振り返って私の様子を確かめた。あまりにも名残惜しそうだったから、私は苦笑して立ち上がり、玄関まで送っていった。「はいはい。ちゃんと仕事してきて。家で待ってるから」それでようやく、誠を車に送り込んだ。テールランプが見えなくなるまで見送ってから、私はゆっくりと家の中に戻る。リビングの真ん中に置いてある、ピンク色の小さな金庫を開けた。中に、中絶同意書と離婚届のコピーを、きれいに重ねて入れた。蓋を閉め、ダイヤルを回してロックをかける。それから、誠宛てに一通のメッセージを送った。【家に戻ったら、プレゼント開けていいよ】返事は一瞬だった。【分かった。待ってて。すぐ帰るから】それ以上、返信なんかしない。代わりに、前もって用意しておいたスーツケースをクローゼットから引き出し、そのまま家を出た。目指すのは空港。チェックインを済ませ、搭乗ゲートへ向かう頃には、例の“記念ムービー”は予定どおり送信されていたはずだ。搭乗前、最後に一度だけスマホを確認した。通話履歴は、誠の名前で埋め尽くされていた。【沢村誠 不在着信沢村誠 不在着信(2)沢村誠 不在着信(3)……】私はそのすべてを無視して、電源を落とし、SIMカードを引き抜いた。指先で、それを二つに折った。パキン、と乾いた音がして、ひとつの世界との繋がりを、自らの手で断ち切った。そのまま振り返らずに、私はフランス行きの便に乗り込んだ。……同じ頃。誠は車の中で、固まったようにスマホの画面を見つめていた。再生されているのは、結衣が作った「記念ムービー」。花音との出会いから、昨日までのあらゆるシーンが、写真と動画で次々と流れていく。キャンドルディナー。胎教ごっこ。ベッド。バスルーム。浴槽。画面上部の送り主の欄には、見慣れた名前が表示されている。──「ゆい」。誠は顔を上げ、助手席の花音を睨みつける。
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第9話

久しぶりに会った私に、彼女は気まずさを挟ませる隙なんて一ミリもくれなかった。玄関を上がった瞬間から、フランスでの生活、東国と違うちょっと変な文化、最近ハマっている音楽や近所の美味しいお店の話まで、マシンガンみたいにしゃべり倒してくる。ひと通り一人で盛り上がったあと、ようやく私の顔をまじまじと見て、ニヤッと笑った。「でさ、結衣ちゃん。フランスまで逃げてきて、これから何やるの?」その質問には、もうとっくに答えを決めてある。もともと私は、そこそこ名の知れた歌い手だった。でも誠と結婚してから、「そばにいてあげたい」という理由で、歌も活動も全部やめて、家におさまった。結果、あの有様だ。だったらこれから先は、自分のためだけに時間を使う。「また、歌おうと思ってる」そう言うと、天音は即答だった。「いいじゃん、それ。ていうか結衣ちゃんは歌わない方が世界の損だって。はい決まり、スタジオ作ろ〜!」そこからの天音の行動力は、本当に惚れ惚れするレベルだった。物件探し。契約の手続き。機材の手配。配信環境の設定。面倒で逃げ出したくなるような部分を、あっという間に片付けてくれた。雑念を捨てて、マイクと向き合うだけでいい環境が整ったとたん、嘘みたいにメロディが湧いてきた。一ヶ月で、新曲二つ。どっちも小さくバズって、コメント欄には、少しずつ知らない名前が増えていった。【新曲最高でした!】【歌声に救われました】【次の曲も楽しみにしてます!】そんな一言一言を、毎晩ベッドの上で読み返すのが日課になった。画面の向こうから届く声が、ちゃんと今の私を見てくれている気がして。ああ、まだこの先の人生に、楽しみにしていいものが残っているんだって、素直に思えた。過去を全部捨てて、ここからやり直す。その選択は、間違っていなかった。そう確信し始めた頃、誠がまた私の世界に踏み込んできたのだ。その日も、スタジオで遅くまで残業して、締め作業を終えた帰りだった。テイクアウトの紙袋を片手に、家への道を歩いていた。後ろから、ずっと同じリズムでついてくる足音に、私は気づいた。背筋が冷たくなる。スマホを取り出して、通報しようとしたその瞬間。ぐい、と腕を引かれて、そのまま誰かの胸に押しつけられた。鼻先をかすめた匂
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第10話

誠は、私が引っ込めようとした手を、反射的に掴んだ。「本当に……悪かった。本当に、本当に分かってるんだ。もう一度だけ、チャンスくれないか?お願いだから、今度こそ、絶対ゆいのことを大事にする……」必死に縋りついてくるその言葉を、私は力任せに振り払った。玄関の外へ、ぐいっと押し出す。「よくそんな口が利けるよね。人に許しを乞うときの顔だけは、一丁前なんだ」扉の前に立つ誠を睨みつけながら、私は続けた。「浮気してるときにさ、私がどんな気持ちになるのか、少しでも想像したことある?」私の言葉を遮るように、誠が慌てて叫んだ。「……ある!それは考えた!俺は──」「何を?『どうせ子どももできないし、バレなきゃセーフだ』って?」自分でも驚くくらい、声が冷え切っていた。「私のことなんて、どうせ『子どもも産めないハズレの女』くらいにしか思ってなかったんでしょ。上手く隠し通せれば、私は一生気づかないって、そう思ってたんだよね?」一歩近づくたびに、誠は首を振りながら下がっていく。後悔という名の涙なのか、絶えることなくその頬を伝って落ちていく。こんなに派手に泣いている誠を見るのは、何年一緒にいても初めてだ。結局、望みどおり「沢村家の奥さん」の席は空けてあげたのに。今さら、何を失って泣いているのか。見るのも嫌になって、視線を外す。「沢村誠、もういい加減やめてくれない?」私は静かに告げた。「どこが『大事にする』なの?実際に大事にしたのは、いつも自分の気持ちだけでしょ」「ち、違う!俺が大事にしたいのは、ゆい!君だけなんだ!」誠は苦しそうに言葉を絞り出す。「俺は……最低だった。バレなきゃ大丈夫だって、最初は本当にそう思ってた。でも、もう懲りた。だから──」「だから、何?」私は鼻で笑った。「『子ども、もういないから許して』って?花音との子を消したから、それでチャラにしてくれってこと?」誠の目が、一瞬揺れた。「……あの子は、もうおろした。全部終わらせた。だからゆい……頼む、一緒に東国に帰ろう。俺たちは、まだやり直せるんだ。今度こそ、二人の子どもを──」その言葉に、喉の奥から笑いが込み上げた。「本当に、笑っちゃうね。もしかして、ずっと『私が子どもなんて嫌いだから、子どもがいないんだ』とでも思ってたの
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