LOGIN私が40度の高熱を出したとき、私の婚約者、馬淵陸也(まぶち りくや)の女秘書が駆け寄ってきて、病院へ向かおうとしていた私たちを引き止めた。 彼女は胸に小犬を抱きかかえていた。真っ赤な目で陸也を見つめ、彼の手を掴んだ。 「どうしよう。ころちゃんがお腹をこわしちゃったみたい。全部私のせいなの…」 陸也はあれこれいわず、さっと子犬を抱えあげると振り返りもせずに行ってしまった。 / 一人病院で受付を終えて点滴を受けているとき、インスタで陸也の女秘書、田中麻鈴(たなか まりん)のストーリーをみた。 【ママが馬鹿なばかりにわんちゃんクッキーを半分もあげてしまったから…パパがいてくれてよかった】 投稿されていたのは子犬が注射を受けている動画だった。陸也が彼女をなぐさめる声が聞こえた。「大丈夫。心配しなくていい。俺がいるから」 この投稿を見ていたら、熱のせいなのか、心が冷えきっているからなのか、身震いがした。 彼女のストーリーにいいねを押して、すぐに一週間後の新幹線のチケットを予約した。 三人の世界はあまりに窮屈だ。もう耐えきれない。
View More大晦日の夜。両親たちは私たちも一緒にレストランで食事会をする約束をしていた。最後に会ったあの時から陸也は姿を消していた。それでも私はずっとビクビクしていた。陸也が誰かをつかって、私と紫音を盗撮したり、つけ回したりしないか――そんな不安が頭を離れなかった。けれど、年末年始特有の慌ただしくも新しい一年への希望に満ちた空気が、その心配を和らげてくれた。紫音は向日葵の花束を持って退勤する私を迎えにきた。顔を上げてマフラーを外すと私の首に巻きつけた。首元から彼の体温が感じられた。「まずは一旦家に寄りたい。荷物を置いてからレストランに行きたいから」私の家の階下に紫苑がゆっくりと車を停めたその時、視線の先に不安を呼び起こす人影があった。陸也だった。顔は蒼白にこわばり、両手だけは真っ赤だった。オレンジに光っている電灯の下に立っていた。「叶音、君を待っていた」私は怪訝な顔で言った。「どうやって見つけ出したの?あなたと話すことなんて何もないから」陸也はうつむいて私の胸元の花束を目にすると、固まった。彼が最後に花を贈ってくれたのは、いつのことだっただろう。思い出せない。「来たる新しい年に、俺はやり直したいと思っている。もう一度、叶音を追いかけてもいいだろうか」私はしっかりと懐の花束を抱きしめた。「来るのが遅すぎたわ。紫苑と付き合っているの」陸也はふらついたように目を閉じた。だが、すぐに目を開けると、強く私の手首を掴んだ。「叶音、あいつと付き合ってるなんて俺は信じない!もし本当にあいつに恋愛感情があるなら、大学の頃に俺と付き合ったりしなかったはずだ。違うか?」そう言うと私をみつめた。私が嘘をついているという自分なりの根拠に必死にしがみつこうとしていた。私はその手を振り払った。「一人で大晦日を過ごして。私たちはこれから家族どうしでの食事会があるから」陸也は私を見つめたままフリーズした。陸也の両目は真っ赤に潤み、声は涙でかすれていた。「叶音、行かないでくれ。お願いだ。俺を捨てないでくれ。もう俺のことを許してくれるかわからないが、毎日会ってくれるならそれだけでいいんだ」紫苑が陸也の前に立ちはだかり、私を助けようとした。けれど陸也に荒々しく怒鳴りちらされた。「失せろ!!」陸也は顔をし
昔から今に至るまで、誰一人高橋叶音は馬淵陸也を愛していないなどと言う者はいなかった!涙で視界がぼやけて来たが、叶音があの間男の小さな傷の様子を見ているのが目に入ってきた!叶音がその男に「痛くない?」と優しくといかけている声も聞こえてきた。2人が部屋に戻ろうとしているところを見ると、陸也はぎゅっと叶音の服の袖を掴んだ。声は震え、卑屈さが極限まで滲みでた。「俺は?俺だって、すごく痛いんだ。叶音……君は、俺の痛みを無視したことなんて、一度もなかっただろ?」私は顔いっぱいに嫌悪を浮かべ、陸也の手を振り払った。ぼたぼたと涙を落とす彼を見て、いやいやと首を振りながら言う。「もう、あなたを愛してない。何度言えばわかるの?――あなたは私の気持ちを踏みにじったんだよ」そう言い捨てるともう彼の方を見なかった。私と紫苑は女将さんに謝ると荷物をまとめて旅館を後にした。/先ほどのドタバタ劇は、誰かに撮られていて、ライブで流されていた。おかげで、その後何が起きたのかを知ることになったのだ。田中麻鈴は地面から哀れな声で陸也に訴えた。「陸也さん……まさか、私たちの子供がもういらなくなったんですか?」陸也は田中麻鈴の首をグッと絞めつけた。怒りで顔を真っ赤にして叫んだ。「バカなことを言うな!その子は一体どの男とつくった子なんだ。俺に濡れ衣を着せるな!」「ころちゃんのことです。私たちはころちゃんのパパとママです。それとも…本当の子供の子供がほしいというなら、この前あとちょっとのところだったじゃないですか!」/紫苑がこちらに手を伸ばし、私の手帳をぱたりと閉じた。体をこちらに傾けて、小声で話しかけてきた。「新幹線でそんな退屈なもの見てないでさ、さっき僕がみつけたコメディでも観てなよ。昔、一緒に夢中になってみてたやつ」笑いに引き込まれていると、背後の席にいるおばさん2人がネットゴシップについて話しているのが聞こえた。「うわぁ、ひどいわね。ちょっと見てみてよ、すごいことになってるわ!この男、やっぱり自分の何が悪かったのか、全然わかってないのよ」「ここまでくると、もう面白いって感じでもないわ。この二人、あと少しで事件沙汰になりそうじゃない?」「私はそうは思わないね。彼なら、まだ持ちこたえられるんじゃないかしら」紫苑はそ
「陸也……長年の我慢が積み重なって、あなたの謝罪なんて受け入れられなくなったの。先に私の気持ちを踏みにじったのは、あなたでしょう? あなたが黙って見過ごしていたせいで、やりたい放題になった田中麻鈴は私の居場所も生活も、そして心までも蝕んできたんだよ」私は掴まれていた手を引きはがして背を向けると紫苑を連れて上の階へとあがった。床につこうとしたとき、突然控えめにドアをノックする音が聞こえてきた。私は起き上がり、スマホを握りしめて固まった。まるでノックの音と連動するように、スマホの画面に通知が浮かび上がった。【はやく中に入れてくれ。叶音のために唐揚げを持ってきたぞ!】/翌日私が行く先々に、陸也がやってきた。離れたところから私をつけてくるのだ。紫苑が前まで来て追いやると、ただ浮気をされたときの叶音の気持ちを感じたいだけだと陸也は言った。私は両手をポケットに入れると、苛立って陸也を白い目で見た。「感じるって言ったって実感できるわけがない。私たちはまだキスもハグもしてないのに」この言葉を聞くと紫苑は頬を赤らめると、温かいまなざしを私に向けた。そしてゆっくりと私の方に身を傾けてきた。私はあわてて顔をそらし、言葉をなげた。「大丈夫、彼のことは気にしないで。私がなんとかする」/予想通り、その二日目後には田中麻鈴がリュックを背負って民宿にやってきた。朝ご飯を食べていた陸也は田中麻鈴が来たのを目にすると、信じられないという様子で私を見てきた。私は顔も上げずに、のんびりと牛乳を飲んでいた。「叶音…どうしてだ?本当に俺がいらなくなったのか?」彼はまだ妄想の中にいた。彼の妄想では、高橋叶音とよりを戻して毎日今までの行いを償っているところだった。妄想から目を覚ました陸也は指先を針で突かれるような強い痛みを感じた。私は眉間をつまんだ。「陸也、ここで時間を無駄にするのはやめて。会社はどうでも良くなったの?」陸也は虚ろな目をしていたが、紫苑には憎悪を丸出しにした視線を向けていた。「会社なんてもうどうでもいいんだ。あれは俺たちの子供みたいなものだったのに……。君は何も言わずに捨ててしまったじゃないか。その策士男にそそのかされているから、もう俺のところには戻りたくないのか?」バチンという音とともに、私に顔
馬淵陸也は、二人の姿が消えていった方角を見やり、苦笑を浮かべながら手のひらの傷口に適当にティッシュを巻きつけた。そのままゴミ箱へと歩み寄り、身をかがめて先ほど投げ捨てられたコートを拾い上げた。車へ戻ると、そのコートをそっと身に掛けた。そしてようやく、深い眠りへと落ちることができたのだった。/会社に戻ると、馬淵陸也は目の前の床に足を組んで座り込んでいる田中麻鈴をみつめた。そして絨毯へと目を伏せた。手にコートを握りしめ、じっと沈黙を保っていた。「陸也さん…」田中麻鈴は沈黙に耐えきれなくなりかすれ声を出した。陸也はジロリと睨みつけた。「言ってみろ。前回出張にいったときのことをなんで叶音が知っているんだ?」田中麻鈴は手足を使って陸也の足元まで這ってくると、彼のズボンの裾を引っ張った。彼女は泣きじゃくりながら首を振って弁明した。「私じゃないです。私は話していません。陸也さんは麻鈴のことを信じられないというのですか?」陸也は身をかがませ、彼女の首を絞めつけた。「お前じゃないなら叶音はどうやって知ったのかって聞いているんだ」田中麻鈴はキョロキョロと目を泳がせた。「財務部長に違いありません!私が出張の事案決定書を提出したとき、財務部長はなぜ社長の一部屋分だけの申請なのかと聞いてきました。あの時…飲みすぎた社長を引き離すことができなくて…きっと財務部長は、私の首元に残っていた赤い痕に気づいてしまったのです」陸也は背を返すと、手にした水のグラスを壁へと叩きつけた。「それじゃあ俺のスーツケースの中に入っていたものは君が入れたのか?」田中麻鈴はギュッと唇をかんで黙り込んだ。陸也は甲高く笑い、うなずいた。「なるほど、俺が妹のように目をかけてやっていたときに、お前は陰で俺のことを弄んでいたんだな」この言葉を聞くやいなや田中麻鈴は陸也の腰にしがみついた。「嫌です!ただの妹なんて嫌です。じゃあなんで何をするにも私を一番に優先してくれたのですか!陸也さんの心は私でいっぱいだったからじゃないんですか!」陸也は足で田中麻鈴を押しやると、逃げるように速足でその場を後にした。彼は聞く耳をもたなかった。彼はまた高橋叶音を捕まえに戻ることにしたのだ。/その間、紫苑はフィールドワークと称して私を連れてあちこちを