Masuk高校の頃、明里はひとりぼっちだった。元々友達は多くなく、学年カーストでは下の方で、目立たない地味な生徒なりに学校生活を謳歌していた。
だが、学年カースト上位の女子の財布がなくなり、穏やかな日常が壊された。あろうことか、親友と思っていた子に売られたのだ。
「明里が盗んだのを見た」
親友は明里のカバンをひっくり返し、女子の財布を見つけると、皆に見えるように掲げた後、女子に財布を返す。
「ダメだよ。叔父さんに何も買ってもらえないからって、人の財布を盗んじゃ」
それから親友は、デタラメを周囲に吹き込んだ。
「明里は叔父さんと暮らしてるの。体を売ったり、バイトをしたりして生活費を家に入れてるから、頭がおかしくなっちゃったのね。可哀想な子なの。許してあげて」
この嘘を信じ込んだ周囲は、親友を優しくて勇気がある子、明里を金のためになんでもするアバズレと認識し、明里をターゲットにいじめが起こった。
明里がいじめられる度に親友がかばい、親友の株が上がる。馬鹿らしい茶番劇が毎日のように繰り返された。
そんな日々に終止符を打ったのが、隣のクラスの成也だった。休み時間、いつものように後ろ手に縛られ、蹴られている明里の前に立つと、ある音声を流した。
『明里っていい子ぶっててムカつくんだよね。財布盗んだのは私なんだけど、誰も気付かないの。私はカースト上位に行けたし、明里は惨めな毎日を送ってるし、ホント最高』
それは親友の声だ。
「どうしてそんなものを?」
「お前と同じクラスに、友達がいてさ。そいつから話聞いておかしいと思ったんだ。お前みたいな真面目ちゃんが、そんなことするわけないって」
「私、あなたと接点なんてないはずだけど……」
成也は顔も整っているし、実家が太い。学校ではちょっとした有名人だ。そんな彼と明里に、接点などほとんどない。廊下をすれ違ったって、会話どころか、挨拶することすらないほどに。
「図書委員やってるだろ? 俺、よく図書室に行くから見かけるんだよ。真面目でいい子だなって、ずっと見てた。うちのクラスの奴がいけなくなった時、率先して出てくれたこともあったよな」
明里の目から、涙が零れてくる。今まで誰も自分を見てくれないと思っていた。まさか隣のクラスに、こんなに見てくれてた人がいるだなんて、思ってもみなかった。
「俺さ、あーいう曲がった奴嫌いなんだよね。またなんかあったら、相談しに来いよ。それとさ、今日の放課後、図書室に行くから、おすすめの小説用意しといて」
成也はポケットからハンカチを出して明里の涙を拭うと、優しく笑いかけて自分の教室に戻っていった。
(あの正義感が強い成也さんは、もういないのね)
過去と現実の差に失望していると、悲鳴が聞こえた。我に返って顔を上げると、ミアが顔をしかめて足を押さえている。
「いったぁ……。もう、このヒール買ったばかりなのに」
ミアの足元を見ると、確かにヒールが折れていた。きっと、立ち上がった時に折れて捻挫したのだろう。
「何ぼさっとしてるんだよ。ミアの治療をしてくれよ。医者だろ?」
成也の言葉には、ミアへの気遣いと明里にしか刺さらない棘が含まれている。ミアの治療などしたくはないが、自分は医者だ。患者を好き嫌いで選んではいけない。
怪我の様子を見ようとかがもうとすると、ミアは成也に抱きついた。
「この人怖いからやだ。今、私のこと睨んだもの。きっと治療するフリして悪化させるつもりよ」
怒りのボルテージが一気に上昇する。気づいたら、明里はミアを平手打ちしていた。
「いったぁ!? 何すんのよ! 暴力女! それでも医者なの!?」
「そうだぞ、ミアに謝れ!」
「ふざけないで! 私は医者よ! どんな患者でも平等に診察して治療する。それすらも踏みにじるような人は別。湿布でも貼ってればいいじゃない」
一気に怒鳴ると、乱雑にドアを閉めて出ていった。後ろからなにか聞こえるが、知ったこっちゃない。
「離婚して。財産分与も、慰謝料もいらない」 明里が失望しきった冷たい目で成也を見下ろし、記入済みの離婚届を差し出してくる。受け取ろうとすると離婚届が出火し、火が広がり、視界にあるものを焼いていく。リアリティはなく、写真を焼かれているような感覚だ。「離婚して。離婚して。離婚。りこ、離婚離婚離婚」 明里の声が壊れた機械のように離婚という単語を繰り返す。徐々にノイズがまじり、じわじわと頭痛が広がっていく。「離婚しちゃいなよ」 ノイズが止まるのと同時に聞こえてきたのは、ミアの声。「……っ!」 成也は飛び起きると、大きく息を吐く。炎天下を長時間歩いた後のように喉が渇き、パジャマは汗で湿って気持ち悪い。「またか……」 舌打ちをすると、サイドテーブルの水差しを手に取り、グラスに注ぐことなく一気に飲み干した。 明里と離婚してから、何もかもが自由で楽しかった。ミアといても何も言われないし、彼女とも結婚できた。明里の陰気臭い顔を見なくて済むし、ミアは明里と違って両親とうまくやってくれてる。 結婚して半年も経つと、ミアは不動産の知識もないくせに、仕事に口出しするようになった。どの仕事も、信頼関係を築くことが大事だ。不動産業界も例外ではない。だから成也は仕事で嘘をついたことはない。 材料が値上がりしたら、値上がりした分だけ値上げし、相手が納得するまで丁寧に説明をしていた。だが、ミアは「値上げに便乗してもっと高くすればいいのに」とか、「値上げして、もっと安いところから仕入れたらいいのに」とか、自分の利益しか考えないようなことを口にする。 前に「知識がないんだから口出しをするな」と言ったら、不動産鑑定士や管理業務主任者など、不動産関連の資格を取ってきて口出しするようになってきた。タチの悪いことに「夫のために資格を取った良い妻」という印象を両親や会社の重役達に植え付け、味方にしてきたから、社長である成也でも、無下に突っぱねることもできない。 その頃からだ。離婚した後悔を植え付けるような悪夢を見るようになったのは。「明里、お前はまだ、俺のこと怒ってるのか?」 古いスマホをつけ、ウエディングドレス姿の明里に話しかける。写真は何も返してくれない。処分しに行くのが面倒で、なんとなく手元に置いておいたスマホのデータが心の支えになる日がくるなんて、思ってもみなかった。「当
ファミレスでの食事が終わると、デパートで買い物をしてから帰った。ただでさえ入院で体力が落ちているのに、はしゃぎまわったせいで、小雪は帰りの車で熟睡してしまった。涼は小雪を部屋に運んで寝かせると、明里の部屋を訪ねた。「小雪のこと、ありがとう」「ええって。明里も退院明けで、疲れとるやろ?」「うん、正直、デパートで買い物してる途中、ちょっとバテちゃった。兄さんが水を買ってきてくれなかったら、危なかったかも」「家族サービスもええけど、自分のこと大事にせなあかんよ。無理して倒れたら、小雪が悲しむんやから」「そうね……」 涼はうつむく明里の横顔をじっと見る。やはり、元気がないのは疲れだけが原因ではないのだろう。無理もない。娘を何者かに突き落とされたのだから。「なぁ、明里」「なに、兄さん」「俺としては、明里に今すぐにでもゆっくりしてもらいたいんやけど、どうしても話しておかなあかんことがあるんや」「なに?」「あの後、事件性もあるさかい、警察の対処もしとったんやけど。ま、明里のところにも来たから知っとるよな」「ええ。明らかに誰かに落とされたのに、監視カメラにちゃんと映ってなかったって……」「せや。レジャーシートで隠されとったって。せやから、計画的な犯行や思う。前の方なら、濡れないようにレジャーシート持ってても、怪しまれへんしな」「そうね……」「なぁ、犯人に心当たりがあるんと違う?」 涼の言葉に、明里は目を丸くする。心当たりは確かにあるが、そんなこと、誰にも言ったことない。独り言でさえ。「やっぱしな。言うてみ」「けど、確信はあっても、証拠がないの」「女やろ? ツリ目に厚化粧の」 ミアの特徴を言われ、ドキッとする。やはり、病院でふたりが見たのもミアなのではないかと不安が膨らんでいく。「車ん中でこの話した時、様子おかしかったもんな。更に詳しく言うと、露出度高くて、上目遣いをしたり、胸を押し付けたり、典型的なハニートラップするような女やったで」「怪我をしたふり……」 ぼそっと呟くような明里の言葉に、今度は涼が目を丸くする。「なんで知っとるん?」「榎本ミアの常套手段だから」 明里は意を決して、榎本ミアや、結婚生活について話し始めた。浮気をされたり、義家族から不当な扱いを受けていることは知っているようだが、詳しく話したことはなかった。 榎
親子が再会を果たしたのは、2日後のこと。病院の駐車場に涼の車が停まっており、小雪は一足先に乗っていた。明里は退院手続きを済ませ、後から合流する。「ママ!」「小雪! よかった、元気そうで」 後部座席で抱き合う親子を、運転席の涼と助手席の花蓮が、微笑ましく眺めている。「ママ、会いたかった」「ママも会いたかったよ」 顔を見ようと体を離すと、小雪のリュックに見慣れない雪だるまのマスコットが増えていることに気づく。「小雪。これどうしたの?」「え? あぁ、これね。方向音痴のお姉さんに、トイレの場所を教えたらもらったの」 可愛いでしょと自慢する小雪に、頭を抱える。子供というのはいつもそうだ。知らない人からなにかをもらってはいけないと口酸っぱく言っても、相手が優しそうだったからと言って、受け取ってしまう。「もう、知らない人からものをもらっちゃいけないって、いつも言ってるでしょ」「だってー、いいことしたお礼だったんだもん」「まぁまぁ。せっかく会えたんやし、今日は大目に見たってや。それに、変な食べ物でもないんやし」「そうね。次からはダメだからね」 涼になだめられた明里は、ため息をつくと小雪の頭を撫でた。彼の言う通り、せっかく再会したというのに、小言を言いたくない。「はーい」「ほな、行こか。お祝いにどこかで美味いモン食べよ。小雪、何が食べたい?」「お子様ランチ!」「よっしゃ、ファミレス行こか」 涼は車を走らせ、ファミレスに向かう。「そういや、俺も会うたな、方向音痴のお姉さん。同じ人かもしれへん」「おじさんも会ったの?」「ふたりが入院した日にな」「どんな人だったの?」「綺麗なお姉さんだったよ」 明里の問いに、小雪が元気よく答え、車内は和やかな雰囲気になる。「確かに、綺麗やったな。ちょっとツリ目で、化粧が濃かったけど」 涼の言い方には、どこか棘があった。(ツリ目に厚化粧……。まさかね……) ツリ目に厚化粧の女性など、掃いて捨てるほどいる。それでもミアなのではないかと、不安になる。「ママ、どうしたの?」「お嬢様、もしかしてまだ、体調が優れませんか?」「え? あぁ、違う。なんでもない。大丈夫」 我に返り、ごまかす明里を、涼はバックミラー越しに見ていた。「ほら、ついたで。美味しいモン、ぎょうさん食べよな」 ファミレスに着くと
夕方の病院待合室。ひとり取り残されたミアは、イライラしていた。自販機が並ぶ粗末なカフェスペースに行って炭酸ジュースを買うと、一気に飲み干す。げっぷが出てもお構いなしだ。ここには誰もいないのだから。「はぁ、ムカつくムカつく……!」 ぎりりと親指の爪を噛む。ミアの悪癖だ。「なんなの、あの男。ホモなんじゃないの」 先程の涼とのやり取りを思い返し、舌打ちする。ミアが色目を使えば、大抵の男が落ちていく。その時は断っても、下心が見え隠れし、2,3回声をかければ思い通りになる。だが涼はどうだ? 上目遣いをしても、胸を押し付けても、鼻の下を伸ばすどころか、冷たく突っ放した。今まで様々な男を落としてきたミアにとっては、考えられない出来事だった。「あの男もだけど、あの女、どうして神宮寺に……?」 1番気になるのは、やはり明里のことだった。成也と明里が結婚した後、ミアは粗探しのために明里の身辺調査をした。出てきたのは意地汚い養父だけで、それ以外やましいものや、特筆すべき過去は出ていない。「まったく、どんな取り入れ方したんだか。地味な女のくせに、金持ちに取り入る才能だけはあるみたいね」 明里のことを思い出すだけでイライラする。あんな地味な女には、成也も神宮寺涼も似合わない。せいぜい冴えない紐とくっついて、苦労すればいい。「どこまでも目障りな女……。今に見てなさい、私の気分を害した罪は重いんだから」 ぎり、ぎりり――。 1歩間違えれば深爪するところまで噛みちぎる。「どんな手を使ってでも、地べたに這いつくばらせてやる」 悪魔のような笑みを浮かべ、低い声でくつくつ笑う。 ミアは昔から、自分の思い通りにならないと気がすまなかった。学生時代、仲のいい子と別のクラスになれば暴れ、誕生日プレゼントで欲しくないものを贈られれば、押し返して返品させ、別のものを買わせた。 座りたい席に座れないだけでも癇癪を起こすものだから、誰もがミアを腫れ物扱いした。当の本人は、それを特別扱いと勘違いし続けているが。 ミアにとって、成也はお気に入りだった。顔も家柄も申し分ない。何より小さい頃から自分に懐いている。成也やいずれ、自分と結婚するものだと思っていた。それなのに、明里なんてぽっと出の地味女に取られてしまった。 戸籍ばかりは、ミアひとりでどうにもならない。だから成也の両親に明里の
「ママは元気やから、安心しぃ。きっと、明日になったら会えんで」「うん……」「ほれ、チョコの花束や。ほしい子どーこや?」 元気がない小雪を見てられず、涼はチョコの花束を出して小雪に見せた。棒付きキャンディのように棒の先端にチョコがついており、色とりどりの包装紙にくるまり、花束のようになっているチョコレートだ。小雪は目を輝かせ、元気よく手を挙げる。「はーい!」「ええ子の小雪ちゃんに、もうひとつプレゼント」 涼はチョコの花束を渡すと、ポケットから飴玉をいくつか取り出し、小雪に手渡す。 元々スモーカーだったが、明里の妊娠を知ってすぐ、煙草を捨てた。それ以来、口さみしくなった時のために飴玉を持ち歩いている。小雪が産まれてからは、いつでも渡せるように可愛らしく色鮮やかな飴玉に変わっていった。「ありがとう、おじさん」「お礼なら、退院した後にデートしてや」「うん! 行こー」「はぁ、小雪はママに似て、ほんまかわええなぁ」 小雪の頭をわちゃわちゃ撫でて額におやすみのキスをすると、病室を後にした。 病院の長い廊下を歩きながら、考える。明里は明らかに嘘をついている。小雪が水槽に落ちたのは、事故ではないはずだ。ふたりが行った水族館には、涼も行ったことがある。あの頃と同じ柵と過程して、小雪がなにかの弾みで落ちることなどありえない。 1番の問題は明里だ。何か知ってて、涼に隠している。それがなにかは分からないが、今回の事件に関することだろう。(なんで隠すん? まだ俺のこと、信頼しきれへんのやろか?)「きゃっ」 考え事をしていると、誰かにぶつかってしまった。涼は慌てて倒れた女性を抱き起こす。「すんません、考え事しとって……」「いえ、私も前を見てませんでしたから。あの、お恥ずかしいんですけど……」 女性はもじもじして、上目遣いで涼を見つめる。考え事に戻りたい涼は、少し苛ついた。「私、方向音痴で……。ここ、どこですか?」 女性の言葉に、涼は吹き出す。イライラもどこかに行ってしまった。「なんや、おねーさん。迷子かいな」「はい。私、極度の方向音痴で……」「ここは小児病棟やで」「えー……。なんで私、小児病棟に来ちゃったんだろう……。帰りたかっただけなのに」「お見舞いの帰り?」「はい、そうです。もしよかったら、出入り口まで案内してくれませんか?」「ええ
「あんたって本当に役立たずね」 義母が忌々しげにため息をつく。「その額のあざ、どうにかならんのか。気持ち悪い」 義父が汚物を見るような目で見てくる。「手間かけさせんなよ、鬱陶しい」 成也が、軽蔑した目で見下ろしてくる。「あんたにはなーんにも残らないのよ。なーんにも。惨めね」 ミアが勝ち誇ったように高笑いをする。 耳を塞いでも聞こえてくる笑い、嗤い、嘲笑い。(やめてやめてやめて!) 叫びたくても、声が出ない。逃げたくても、指1本さえ動かない。(誰か助けて!) 眩しい光が見えるのと同時に、体が軽くなる。「あぁっ!」 悲鳴を上げ、飛び起きる。先程の悪夢に吐き気がして、口元を手で覆う。「明里!」 名前を呼ばれて顔をあげると、涼が心配そうに顔を覗き込んでいる。「兄さん……?」「よかった、気がついて……」 涼は今にも泣きそうな声で言うと、明里を抱きしめた。知ったぬくもりとにおいに安堵し、水族館での出来事を思い出す。「そうだ、小雪は!?」「安心しぃ。小児病棟で休んどる。難しいかもしれへんけど、今は自分が回復することだけ考えてな」「そう、ね……」 小雪が落ちていく姿が、フラッシュバックする。あれはどう見ても、誰かにぶつかって偶然落ちたものではない。柵は小雪の身長よりも高かったのだから。「なぁ、何があったん?」「分からない……。小雪が、イルカの水槽に落ちて、助けようと飛び込んで、泳げないことに気づいて……。それから、それから……」「もうええ。今は休んどき」「そうね、そうさせてもらうわ……」「ほな、俺はもう1回小雪の顔見てから帰るわ。欲しいモンあったら、いつでも連絡しておいで」「それじゃあ、お願いしていい?」「お、なんや? お兄ちゃんになんでも言うてみぃ」 妹からのお願いという言葉に、涼は目を輝かせる。涼としてはもっと甘えてほしいのだが、明里は滅多に甘えてくれない。そんな妹からのお願いは、砂漠にあるオアシスのように貴重なものだった。「私の代わりに、小雪を思いっきり甘やかしてくれる?」「よっしゃ、任しとき! それなら得意や」「ありがとう。でも、お菓子は与えすぎないようにね」「ほな、甘いお菓子は明里にあげよかな。明日、とっておきのお菓子持ってきたるから、楽しみにしとって」 涼はウインクをすると、明里の病室を出た。







