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第10話

Author: やまいま
若樹は、宴会場の入口に立っている。

ひどく痩せている。

以前は体にぴたりと合っていたスーツも、今は肩から力なくぶら下がっているだけだった。

頬はこけ、頬骨が浮き出ている。目の下は深く落ちくぼみ、疲れきった顔をしていた。

そして手首には、今でも、あのヘアゴムが巻かれている。

もう切れてしまっていて、テープで何重にも補修し、無理やり手首につないでいるだけだった。

広い宴会場を挟み、私たちの視線が重なる。

その瞬間、若樹の瞳に光が宿る。

十七歳の夏、庭でしゃがみ込み、私にミネラルウォーターを差し出してくれた、あの日と同じ目だった。

若樹は人混みをかき分けるように、まっすぐ私へ歩いてくる。

あまりにも急いでいたせいで、ウェーターのトレーにぶつかりそうになる。

私の前まで来る頃には、息はすっかり乱れていた。

「清」

かすれた声で、私の名前を呼ぶ。

「本当に、清だったんだ……」

震える手が、ゆっくりと伸びてくる。骨ばった指先は血の気を失い、小さく震えていた。

私は静かに半歩だけ身を引く。

彼の指先は私のスーツの袖口をかすめることもなく、虚しく空を切った。

その手
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  • 愛は秋枯れのごとく、余生は自由とともに   第10話

    若樹は、宴会場の入口に立っている。ひどく痩せている。以前は体にぴたりと合っていたスーツも、今は肩から力なくぶら下がっているだけだった。頬はこけ、頬骨が浮き出ている。目の下は深く落ちくぼみ、疲れきった顔をしていた。そして手首には、今でも、あのヘアゴムが巻かれている。もう切れてしまっていて、テープで何重にも補修し、無理やり手首につないでいるだけだった。広い宴会場を挟み、私たちの視線が重なる。その瞬間、若樹の瞳に光が宿る。十七歳の夏、庭でしゃがみ込み、私にミネラルウォーターを差し出してくれた、あの日と同じ目だった。若樹は人混みをかき分けるように、まっすぐ私へ歩いてくる。あまりにも急いでいたせいで、ウェーターのトレーにぶつかりそうになる。私の前まで来る頃には、息はすっかり乱れていた。「清」かすれた声で、私の名前を呼ぶ。「本当に、清だったんだ……」震える手が、ゆっくりと伸びてくる。骨ばった指先は血の気を失い、小さく震えていた。私は静かに半歩だけ身を引く。彼の指先は私のスーツの袖口をかすめることもなく、虚しく空を切った。その手は宙に止まったまま、動かない。私は彼を見つめ、数秒だけ沈黙する。そして穏やかに口を開いた。「白井さん、お久しぶりです」その一言を聞いた瞬間、若樹の表情が、音もなく崩れ落ちた。「白井……さん?」信じられないというように、その呼び方を繰り返す。声は震えていた。「清、俺のことを若樹って呼んでた……ずっと、そう呼んでくれてたじゃないか……」私は答えない。そのとき隣にいた同僚が、小声で尋ねてくる。「森山さん、お知り合いですか?」「ええ、昔の知り合いです」その言葉に、若樹の唇が、わずかに震えた。昔の知り合い。その一言は、どんな罵声よりも残酷だった。若樹はその場に立ち尽くしている。人の流れに肩をぶつけられながらも、動こうとしない。もう二年前のように、壇上でスポットライトを浴び、誰もが憧れの眼差しを向ける存在ではなかった。ただ一人の、すべてを失った、疲れ果てた男だ。今の彼には、私に触れる資格すら残っていない。レセプションが終わり、私はホテルを出る。若樹は、その後ろを歩いてくる。追いつこうとはしない。呼び止めることもしない。

  • 愛は秋枯れのごとく、余生は自由とともに   第9話

    若樹は、日に日に壊れていく。あのパーティーでの騒動以来、彼の会社の株価は半分以下まで暴落した。倒産こそ免れたものの、受けたダメージは計り知れない。若樹はすべての社交の場を断り、近づこうとする女性もすべて拒絶する。そして、広すぎる屋敷へ自分を閉じ込めるように暮らしていた。彼の手首には、今も私が昔使っていたヘアゴムが巻かれている。毛羽立ち、色も褪せ、今にも切れそうになっているのに、誰にも触れさせない。ある日、取締役会で新しく入った秘書が誤ってそのヘアゴムに触れてしまった。若樹は、その場で彼女を解雇した。その出来事で、社内では誰もが噂するようになる。社長は、もう壊れてしまったと。やがて若樹は幻覚まで見るようになる。会社の廊下で黒いコートを着た後ろ姿を見つけて追いかける。けれど振り返った相手は、まったく知らない他人だった。カフェで誰かが「ありがとうございます」と口にする。その声が私に似ていただけで、持っていたコーヒーカップを床へ落としてしまう。またある雨の夜、昔私たちがよく通った商店街を車で通りかかった若樹は、一軒のラーメン店にまだ灯りがついているのを見つける。車を止めて店へ入り、私が昔よく頼んでいた、あっさりした塩ラーメンを一杯注文する。料理が運ばれてきても、一口も箸をつけない。その席に座ったまま、夜が明けるまで動かなかった。店主の女性が彼に気づき、おそるおそる声をかける。「お客様……どなたか、お待ちなんですか?」若樹は少しだけ目を伏せる。そして、自嘲するように笑った。「ええ。でも、もう来ません」世間の騒ぎは、時間とともに少しずつ収まっていく。けれど、人の心に刻まれた傷だけは消えない。真人は全財産を処分し、ある財団を設立した。家庭内で差別を受け、苦しんでいる子どもたちを支援するための基金だった。その財団の名前は清の泉である。設立記者会見で、真人は一滴も涙を流さなかった。だが家へ戻ると、あの納戸へ入り、一晩中そこから出てこなかったという。和子の脳梗塞の後遺症も、最後まで改善しなかった。意識がはっきりしている日は、何度も私の名前を呼ぶ。けれど傍らにいるのが介護士だけだと気づくと、そのまま静かに口を閉ざし、天井を見つめ続ける。宮城が教えてくれた。和子の枕の下には、小さな勾玉のお守りがずっと置かれ

  • 愛は秋枯れのごとく、余生は自由とともに   第8話

    「あれが、清にとって最後のチャンスだった」尚美の手が、小刻みに震え始める。「若樹くん……私、あの薬がそんなに大事だなんて知らなかったの……若樹くんが言ったじゃない。ただの普通の薬だって……」「ああ、そう言ったのは俺だ」若樹は静かにうなずく。「だから、一番死ぬべきなのは俺だ。でも……」彼は一歩、前へ踏み出す。尚美は反射的に後ずさる。「お前は清のワンピースを奪い、ブレスレットを奪い、ネックレスを奪い、診断書を奪い、薬まで奪った。少しずつ、少しずつ……清の人生を奪っていった。そして最後には、人まで使って清の命を奪おうとした。お前も俺も、生きている資格なんてない!」その夜、尚美は警察に連行された。容疑は、殺人未遂と巨額の財産詐欺だった。若樹は、自らすべての証拠を警察へ提出した。後部座席で尚美は声を張り上げて泣き叫ぶ。涙で化粧は崩れ、鼻水まで顔中についていた。彼女は窓ガラスを何度も叩きながら絶叫する。「あんた!こんなのひどいよ!守るって言ったじゃない!私を守るって約束したじゃない!」だが、防音ガラス越しでは、その叫びは誰にも届かない。その後で聞いた話では、尚美は留置場に入って一週間もしないうちに、完全に精神を病んだらしい。豪華な食事はない。ふかふかのベッドもない。甘やかしてくれる人も、慰めてくれる人もいない。もともと弱かった胃は、留置場の粗末な食事にまったく耐えられなかった。毎日、鉄製のベッドの上で体を丸めて吐き続け、不眠に苦しみ、泣き叫びながら若樹との面会を求める。もちろん、誰一人、相手にはしなかった。半年後、私の胃は、ようやく日常生活を送れる程度まで回復していた。林は最新の検査結果を見つめ、珍しく笑みを浮かべる。「人工修復マイクロカプセルの拒絶反応はもう落ち着いています。胃粘膜も再生が始まりました。本当に運が良かったですね」私は診察室に座り、窓の外へ視線を向ける。そこには異国の青い海が広がっている。柔らかな陽射しが頬を包み込み、心地よく暖かい。けれど林はカルテを閉じ、真剣な表情で私を見る。「ただし、胃の三分の一は、もう二度と戻りません。これから先は、一生食事も生活リズムも厳しく管理してください。強い喜びも、深い悲しみも禁物です。感情が大きく揺れると、回復にも直接影響します。

  • 愛は秋枯れのごとく、余生は自由とともに   第7話

    ときどき、どうしても頭から離れない映像がよぎる。彼がしゃがんでミネラルウォーターを差し出してくれた時の横顔。手術室の前で膝をついて泣いていた姿。エプロンを結んで「清、これ、俺の新作の豚の角煮だよ、食べてみて」って笑った午後。だけど、そのどれもが、本当か嘘かわからなくなっていく。同じ優しさは、もう一人の彼女にも向けられていたから。それどころか、私よりずっと多く、ずっと丁寧に、ずっと心から。だから、あの思い出は嘘じゃない。ただ、価値なんてなかっただけ。あの景品の指輪みたいに。着けられないわけじゃない。ただ、最初から私のためのものじゃなかっただけ。宮城は毎週まとめを送ってくる。国内での出来事の、短いレポート。知りたくないけど、知っておくべきこともある。若樹は、もう二ヶ月も私の行方を探しているという。会社の資源の半分を投入し、海外の調査会社すら雇ったと。だけど、今の私は、全てを捨てて別人になった。過去のデータは専門家に消してもらっている。もう見つかることはない。若樹は三十キロ近く痩せたらしい。端正な顎は痩せこけ、目のくまが深く、無精髭もうっすらと伸びて。会議中にもぼんやりすることが増えたという。そして、私が使っていた寝室は封鎖された。誰にも掃除をさせない。誰にも物一つ触れさせない。カーテンは私がいたときのまま、冷房の温度も変えない。シーツも、そのまま。枕も、そのまま。小野によれば、時々彼は夜中に寝室のドアを開けて、暗闇に立ち尽くす。そしてまた静かにドアを閉める。一方、森山家も混乱の渦に飲み込まれていた。あの夜のパーティーで流れた映像が、ネットで一気に拡散される。監視カメラの映像は切り抜かれ、比較画像まで作られた。そこにつけられた見出しは――【本物の娘は胃を切って夫を救い、偽物の娘は贅沢三昧の日々】世間の批判は一気に森山家へ向かう。真人の会社の株価は急落し、取引先は次々と契約を打ち切った。両親は家から一歩も出られない。毎日のように玄関へ生卵やゴミを投げつけられるからだ。和子が脳梗塞で倒れた。宮城からその知らせを受けたとき、電話の向こうで一瞬だけ言葉が途切れる。私はスープを飲もうとしていた手を止め、スプーンを握る指に力が入った。「母は、どうして

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    私は、あの人はずっと輝き続けるものだと思っていた。でも、その光は別の誰かへ向いてしまった。その後のことは、いろんな人から断片的に聞いただけ。パーティーのあと、若樹はまるで狂ったように、あらゆる伝手を使って私を探したらしい。秘書に命じて空港や新幹線の駅、すべての防犯カメラを洗い出させたらしい。けれど、私は用意していた新しい身分証を使い、監視カメラの私は帽子とマスクで顔が完全に隠れていて、何もわからない。若樹は三日三晩、眠らず探し回ったという。四日目の朝、彼は壊れたように自宅のマンションに戻って、寝室のゴミ箱を漁った。その中には、私が出発前に吐き出したものが残っていた。真っ黒な血の塊。未消化の薬のカケラと絡まって、ゴミ袋の底にへばりついて、もう乾いてカチカチになっていた。彼はそのゴミ箱の前にしゃがみこんで、じっとそれを見つめていたという。そして、横のサイドキャビネットの上に一枚の紙を見つけた。それは、私があえて残したものだった。総合病院が発行した診断書のコピー――そこには、はっきりとこう書いてある。【胃粘膜の広範囲壊死を確認。至急手術が必要。治療が遅れた場合、不可逆的な病変へ進行する可能性が高い】発行日の欄には三ヶ月前の日付だった。その紙を手に取った若樹の手は、ひどく震えていたらしい。彼はすぐに主治医の佐藤に電話した。「佐藤先生、清の胃、いったいどうして……なぜ、俺に何も言ってくれなかったんだ」電話の向こうで、数秒だけ沈黙する。佐藤の声は淡々としていた。「白井さん、奥さんの胃粘膜修復カプセル、あなたご自身が購入し、森山さんへ譲渡されたものです。当時、ちゃんと秘書の方には伝えましたが、あれは奥さんに残された、最後の治療手段だったと。でも、秘書の方は、『社長がただの普通の薬だと言った』と伝えてましたね」電話は、そこで切れた。若樹は寝室の床で膝をつき、診断書を握りしめ、紙はぐしゃぐしゃに。その時の様子を、後になって執事の小野利津(おの りつ)が私の弁護士の宮城悠河(みやぎ ゆうかわ)へ語った。あの日の若樹の姿は、一度も見たことがなかったと。いつも落ち着いた紳士なのに、まるで建物から支柱を抜かれたみたいに一瞬で崩れ落ちたんだ。彼はトイレで嘔吐し、便器を抱えてしばらく離れなかった。

  • 愛は秋枯れのごとく、余生は自由とともに   第5話

    車は高速道路をひたすら走り続ける。ワイパーが何度もフロントガラスの雨を払い、その向こうに広がる景色は、滲んだ街の灯りがぼやけて揺れるだけだった。私は後部座席にもたれ、胃を押さえる。指の隙間から冷や汗がにじむ。鎮痛注射の効き目が、もう切れかけていた。運転手がバックミラー越しに私を見て、小さく声を掛ける。「お客様、お顔の色が悪いですが……病院へ向かいましょうか?」「いいえ。空港までお願いします」運転手はそれ以上何も聞かなかった。スマホは、もう解約手続きを済ませてある。電源を切る前、私は最後に一度だけ画面を開いた。若樹から、二十七件のメッセージ。最初の五件は、まだ冷静だった。【清、どこにいる?】【帰ってきてくれ。ちゃんと話そう】【何も言わずに行くな】六件目から、その文章は変わる。【清、ごめん。今夜は俺が悪かった。帰ってきてくれないか?清が望むものなら何でもするから】【株の件だって取り消す。だから帰ってきてくれ】【頼むよ】最後は、四十七秒のボイスメッセージだった。私は少しためらったあと、再生ボタンを押す。若樹の声はひどくかすれていた。向こうでは「白井社長」と誰かが呼ぶ声や、グラスが割れる音が響き、辺りはひどく騒がしい。【清……借りは返したって言ったのは、どういう意味なんだ?返したって……何を?あの手術って……どうして俺に話してくれなかった……】そこまで言ったところで、声が詰まる。そして最後に、ごく小さく嗚咽を漏らした。私は何も言わず、スマホの電源を切る。SIMカードを抜き取り、窓を開けると、そのまま夜の高速道路へ放り投げた。風にさらわれ、小さなカードが闇へ消えていく。その瞬間、私の中に残っていた何かも、一緒に抜け落ちていく気がした。痛みじゃない。七年間ずっと続いていた、鈍い刃で少しずつ肉を削られ続けるような、終わりの見えない疲れ。ようやく、終わった。空港へ着いた頃には、午前四時になっていた。私は搭乗ゲート前の硬い椅子へ腰掛け、膝の上に書類ケースを置く。中身を一つずつ確認する。パスポート、ビザ、海外口座への送金記録。そして、海外の医療機関から届いた受診予約確認書。三か月も前から、誰にも知らせず準備していたものだった。あの頃は、まだ本当に旅立つ

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