Short
婚約者のために、母は異国で命を落とした

婚約者のために、母は異国で命を落とした

By:  逆行の者Completed
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
10Chapters
29views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

私の名前は水野七海(みずの ななみ)。 佐伯蓮(さえき れん)と付き合って5年目の年のこと。彼の家族が長年F国に住んでいる。結婚の話を進めるため、私と母をF国へ招待してくれた。ついでにバレンタインデーも一緒に過ごそう、というのだ。 夜の10時すぎ、母と私は飛行機を降りた。けれど蓮は、迎えに来ていなかった。 というのも、彼の大学の後輩である藤崎沙耶(ふじざき さや)も、F国に着いたばかりだったからだ。 彼は、自分でなんとかタクシーを拾って来るようにと私に言った。 右も左もわからない土地で、母と私は空港を出て十数分も歩いたところで、すぐに治安の悪い地域に迷い込み、強盗に遭ってしまった。 母は私をかばって刃物で刺され、血の海に倒れた。 私はただ一人、傷ついた母を抱きしめながら、必死に蓮へ電話をかけ続けた。 何度かけても切られ、ようやくつながったかと思えば、彼はひどく苛立った声を出した。 「七海、君はもう大人だろう。何か問題があったら自分で何とかしろ。 沙耶はこっちに来たばかりで体調が良くないんだ。俺がついていてやらないと」 そう言うと、彼はすぐに電話を切った。 かけ直すと、私の番号はすでにブロックされていた。 結局、母は傷が深すぎて、出血多量で助からなかった。 母の亡骸を見つめながら、私は涙が止まらなかった。 改めてスマホを開くと、真っ先に蓮がSNSに投稿した写真が目に飛び込んできた。 写真の中で、彼は沙耶と抱き合って口づけを交わしていた。傍らにはバラの花束。 【バレンタインデーは、一番愛する人と一緒に】 私は無言のまま、はるばる国内から持ってきたプレゼントを、すべてゴミ箱に捨てた。 そして、コメントを書き込んだ。 【末永くお幸せに】

View More

Chapter 1

第1話

スマホを切って間もなく、蓮から電話がかかってきた。

「七海、いい加減にしろ!

俺の家族は好意で、君とお義母さんをF国に呼んだんだ。遅れてきただけでもありえないのに、俺のSNS投稿にコメントするとは、どういう意味だ?

君たちを迎えるために、兄も姉もわざわざ駆けつけてくれたんだ。沙耶だって体調が悪いのに、君のために故郷の料理を用意してくれたんだぞ」

私は黙って彼の叱責を聞きながら、目の前の母の遺体を見つめていた。この瞬間、私の心は完全に死んだ。

彼が言い終えると、私は淡々と返した。

「私たち、バレンタインデーを一緒に過ごすのは、もうやめましょう。そちらで召し上がってください」

「なにを言ってるんだ!」

蓮の声の調子が一気に高くなり、怒鳴った。

「今回君たちを呼んだのは、俺たちの結婚のためだ。そんな態度なら、結婚のことなんて二度と考えるな」

「じゃあ、ご希望どおりに」

私はあっさりと答えた。

「別れましょう」

電話の向こうは、一瞬で静かになった。

私と蓮は、海外で働いていたときに知り合った。

5年一緒にいて、どんなカップルもぶつかる問題は経験してきた。けれど、一度だって別れを口にしたことはなかった。

「自分が何を言ってるのか、わかってるの?」

電話の向こうはしばらく沈黙した後、蓮が信じられないといった声で、もう一度問い詰めてきた。

私は小さく「ええ」とだけ言った。

そのとき、電話の向こうから突然、沙耶の声が聞こえてきた。

「蓮さん、痛み止めを探してくれませんか?なんだか熱っぽいんです」

蓮はすぐに慌てふためき、電話を切った。

切る前に、最後に私へこう言った。

「七海、その言葉は君が言ったんだ。あとで後悔しても知らないぞ」

電話が切れた。私は黙ってスマホをしまうしかなかった。

私は一人で全ての手続きを済ませ、母の遺体を国内へ連れ帰って埋葬した。

それから半月以上、蓮からは一度も電話がなかった。彼という存在は、私の周りからすっかり消えてしまったかのようだった。

たまにスマホを開いてSNSを見ると、蓮は何も投稿していなかったが、沙耶はほとんど毎日更新していた。

中央タワー、近代美術館、王立美術館……

写真の中の蓮は、沙耶と一緒にF国中の観光地を巡り尽くしていた。

コメント欄も、やけに賑やかだった。

【ついに蓮が、憧れの人と結ばれたんだな】

【わあ、沙耶、あなたたち本当にお似合いね!】

【結婚するときは、俺が絶対に出席するからな!】

……

私はそのコメントの中に、見覚えのある名前をいくつも見つけた。どれも、かつて私と蓮に共通の友人だった人たちだ。

以前の私なら、これを見たらきっと胸を痛めて怒り、蓮と喧嘩しただろう。けれど、そのときの私の心には、少しの波も立たなかった。

週末の休日、私は一人で家に引きこもり、ポテトチップスを食べながらテレビを見ていた。

夕方、蓮が突然帰ってきた。

私はちらりと彼を見ただけで、そのままテレビを見続け、何も言わなかった。

蓮は私の前に立ち、見下ろすようにして、気安い口調で言った。

「なんだ、このところ連絡しなかったから、怒ってるのか?

しばらく会えなかったから、思いっきり抱きしめたいな。会えなかった時間の分だけ、ずっと抱きしめてるから」

彼は甘い言葉を口にしながら、腰をかがめて私へ顔を寄せてきた。

私は彼の身体から漂う濃厚な香水の匂いを嗅ぎ取り、反射的に嫌悪して体を横へそらした。

蓮は抱きしめようと身を乗り出した格好のまま、一瞬固まった。

昔は、喧嘩しても、私がどんなに腹を立てていても、彼が優しく抱きしめてくると、それで機嫌が直ったものだ。

蓮は背筋を伸ばし、眉を深くひそめた。

「また、なにを拗ねてるんだ?」

私は何も言わず、立ち上がって隣のソファに座り、彼との距離を取った。

蓮は眉をさらに深くひそめ、苛立った様子で私に説明した。

「バレンタインデーの日に、俺が直接君とお義母さんを迎えに行かなかったのは、俺が悪かった。

でも、あれは沙耶が体調を崩していたからだ。病人を置いて、君を迎えに行けとでも言うのか?

俺の家族は、君たちを迎えるために準備を整えていたのに、結局君たちは来なかった。

それが俺の家族にとって、どれほどがっかりしたか、わかってるのか。

俺が必死に君たちをかばったからよかったものの、でなければ両親が俺たちの結婚を許すはずがなかったんだ」

彼はそう言いながら、鞄から書類の入った封筒を取り出した。

「中身は、両親が俺たちのために用意してくれた結婚指輪と、結婚後のハネムーンの費用だ。

一ヶ月後に結婚してほしいと言っている。この間、悪いが結婚式の準備を進めてくれ。

あとでお義母さんに電話するよ。きっと喜ぶだろう」

私は彼から封筒を受け取ると、そのまま傍らに置いた。中身を開けて見る気は、今はなかった。

「蓮、私たちはもう別れました。

それから、これから先、お母さんに電話をしないでください。お母さんがあなたの電話に出ることは、もうありませんから」

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
10 Chapters
第1話
スマホを切って間もなく、蓮から電話がかかってきた。「七海、いい加減にしろ!俺の家族は好意で、君とお義母さんをF国に呼んだんだ。遅れてきただけでもありえないのに、俺のSNS投稿にコメントするとは、どういう意味だ?君たちを迎えるために、兄も姉もわざわざ駆けつけてくれたんだ。沙耶だって体調が悪いのに、君のために故郷の料理を用意してくれたんだぞ」私は黙って彼の叱責を聞きながら、目の前の母の遺体を見つめていた。この瞬間、私の心は完全に死んだ。彼が言い終えると、私は淡々と返した。「私たち、バレンタインデーを一緒に過ごすのは、もうやめましょう。そちらで召し上がってください」「なにを言ってるんだ!」蓮の声の調子が一気に高くなり、怒鳴った。「今回君たちを呼んだのは、俺たちの結婚のためだ。そんな態度なら、結婚のことなんて二度と考えるな」「じゃあ、ご希望どおりに」私はあっさりと答えた。「別れましょう」電話の向こうは、一瞬で静かになった。私と蓮は、海外で働いていたときに知り合った。5年一緒にいて、どんなカップルもぶつかる問題は経験してきた。けれど、一度だって別れを口にしたことはなかった。「自分が何を言ってるのか、わかってるの?」電話の向こうはしばらく沈黙した後、蓮が信じられないといった声で、もう一度問い詰めてきた。私は小さく「ええ」とだけ言った。そのとき、電話の向こうから突然、沙耶の声が聞こえてきた。「蓮さん、痛み止めを探してくれませんか?なんだか熱っぽいんです」蓮はすぐに慌てふためき、電話を切った。切る前に、最後に私へこう言った。「七海、その言葉は君が言ったんだ。あとで後悔しても知らないぞ」電話が切れた。私は黙ってスマホをしまうしかなかった。私は一人で全ての手続きを済ませ、母の遺体を国内へ連れ帰って埋葬した。それから半月以上、蓮からは一度も電話がなかった。彼という存在は、私の周りからすっかり消えてしまったかのようだった。たまにスマホを開いてSNSを見ると、蓮は何も投稿していなかったが、沙耶はほとんど毎日更新していた。中央タワー、近代美術館、王立美術館……写真の中の蓮は、沙耶と一緒にF国中の観光地を巡り尽くしていた。コメント欄も、やけに賑やかだった。【ついに蓮が、憧れ
Read more
第2話
蓮はスマホを持つ手を止め、少し不機嫌そうにした。「お義母さんに、君の今の態度を話してやる。お義母さんは俺にあんなに良くしてくれたんだ。君に、どうしてお義母さんに電話させてもらえないんだ?」私は彼をじっと見つめた。呼吸をするだけで、胸が刺すように痛んだ。私たちが5年付き合ううち、母はずっと彼を我が子のように見てきた。私にすら、彼以上に良くしてくれたほどだ。私が彼を家へ連れて帰るたび、母は自ら台所に立って、彼のために料理を作ってくれた。一度、彼が水が合わずに体調を崩したときは、母は一晩中眠らず、ずっと彼の傍で看病してくれた。5年一緒にいて、母が心から彼を気に入っているのは、私にもわかっていた。だから、蓮の家族が私たちをF国へ招待してくれたとき、母は迷いもせずに承諾した。出国前、母は蓮の家族に最高の印象を残そうと、何日も前から髪を整え、大金をはたいて蓮の家族へのプレゼントを用意した。その日、母はわざわざ、父が昔母に贈った懐中時計まで身につけていた。そのときの母は、母自身を代表していたわけではない。母と父、二人の私への最大の愛情を、代弁していたのだ。結局、どうなったというのか。飛行機を降りたとき、蓮は私たちに自分でタクシーを拾って来いと言い、そのまま電話を切った。私はそのとき、とても腹が立ち、まだ彼に電話をかけ続けようとした。それを止めたのは母だった。蓮はきっと、本当に急用ができたのだろうと、私をなだめ、慰めてくれた。私は母に従ったが、まさか、そのせいで母が異国の地で命を落とすことになるとは、思いもしなかった。今思えば、あの頃に戻って、あんな選択をした自分を思いっきりぶん殴ってやりたいとさえ思う。私がずっと黙っているのを見て、蓮は電話をかけようとした手を止めた。「俺に何か言うことはないのか?」私は顔を上げて彼をちらりと見やり、思わず嘲笑を浮かべた。彼は私のその目つきに腹を立て、どうやら私と喧嘩をしたい様子だった。けれど彼が口を開くより先に、スマホの着信音が鳴った。それは彼が普段使っている着信音ではなく、どこかわざとらしい女の歌声だった。その着信音を聞いた蓮は、たちまち私との喧嘩どころではなくなり、スマホを手に外のバルコニーへ出て電話に出た。私はかすかに、彼が話す声を聞くことができた。
Read more
第3話
あの日、蓮が出ていってから、私たちは一度も顔を合わせなかった。彼は家にも帰らず、会社にも来なかった。私は彼がどこにいようと、もう気にならなかった。それはもう、私には関係のないことだったから。一週間後、蓮のアシスタントから突然電話がかかってきた。株主へプロジェクトの報告をしなければならず、プロジェクト責任者である私が、どうしても出席しなければならないという。私は蓮と完全に別れると決めていたし、会社のことなど、もうどうでもよくなっていた。けれど、アシスタントの少し哀願するような口調を聞いているうちに、このプロジェクトのために私がチームを率いて半年近くも必死に働いてきたことを思い出した。最後の最後で、それを水の泡になんてできない。「わかりました。時間どおりに行きます」私はやはり、引き受けることにした。5年前、大学を卒業したとき、実は私は他の会社から内定をもらっていた。けれどそのとき、蓮の会社は大きな危機に直面していて、彼を助けるために、私は他の仕事のチャンスを捨て、迷わず彼と一緒に起業したのだった。この数年、私は仕事を生活そのもののように生きてきた。それだけの努力を重ねて、私たちの会社は、これ以上ないほど小さなベンチャー企業から、注目を集める有望企業へと成長していた。そのおかげで、佐伯家も私を受け入れてくれて、結婚の話をするため、私と母をF国へ招待してくれるまでになったのだ。会場は、とても広く、豪華に設えられていた。私が着いてまもなく、まだプロジェクトチームのメンバーに挨拶もできないうちに、蓮に脇へ引っ張っていかれた。彼は、この数日私が元気だったかどうかも尋ねず、何日も帰らなかった理由を説明することもなかった。その代わりに、口を開くや命令したのだ。「七海、今回のプロジェクト報告は、君は壇上に上がらなくていい。会社で新しい発言者を手配した」自分の目で見たのでなければ、目の前の蓮は、まるで別人とすり替えられたのではないかと疑ったかもしれない。このプロジェクトは、立ち上げから今まで、私が総責任者だった。会社の上から下まで、私以上にこのプロジェクトの事情を知る者はいないと言ってもよかった。なのに、この土壇場になって、人を替えると言い出したのだ。蓮がどうして、こんなおかしい手配をしたのか、私にはどうしても理解で
Read more
第4話
「とても良かったよ」沙耶が現れた瞬間、蓮の目は彼女に釘付けになっていた。二人は周りの目も気にせず、甘くじゃれ合っていた。沙耶は挑発的な目つきで、私をちらりと見た。彼女は私に宣戦布告し、自分の勝利を見せつけているのだ。だが、私の目標は、いつだって男一人ではなかった。私の価値も、男を喜ばせることなどに、これまで一度もなかった。沙耶の挑発は、私の目には、幼い子どもが自分の独占欲を主張しているようにしか見えなかった。こんな幼稚な行為に、私は怒ったりしない。以前もしなかったし、今はなおさらだ。蓮は沙耶を連れて、株主たちと話していた。二人は、まさに人々の注目の的だった。沙耶は彼の傍に寄り添い、まるで恋人同士のように親密だった。私はそんな光景を冷ややかに眺め、グラスの酒を飲み干すと、この見せ物のような会場を後にした。私は会社に置いてあった私物を、すべてまとめて持ち帰った。家に着くと、スマホに沙耶から送られてきた動画が届いていた。動画には、酒に酔った蓮が沙耶を抱き寄せ、睦み合う様子が映っていた。カメラに向かって、沙耶は挑発的で得意げな笑みを浮かべていた。私は動画を一目見て、ふっと笑った。心には、一片の波も立たなかった。落ち着いてパソコンを開き、まず人事部へ辞表を送り、それからSNSに会社を去るという声明を投稿した。すると、あっという間に業界全体が沸き立った。これまで関わってきた同業者やクライアントが、次々とメッセージを送り、電話をかけてきて、事情を尋ねてきた。とりわけ、プロジェクトへ投資しようとしていた人々は、今にも急き込むように、本当なのかと私に確認してきた。私たちの会社を知るクライアントなら、今の会社で最も重要なプロジェクトの責任者が私だと、誰もが知っていた。つい先日、プロジェクト説明会を開いたばかりだった。その責任者が退職したとなれば、投資しようとしていた人々も、投資リスクを改めて見直さなければならなくなった。蓮と投資の意向を固めていた人々は、私の声明を見るやいなや、次々と手を引き、様子見を始めた。投資がなければ会社の発展は止まり、これまでの投資も水の泡になりかねなかった。蓮はそれに気づき、一瞬で慌てふためいた。彼は私に電話をかけてきたが、私は切った。すると彼は、なんと
Read more
第5話
「社長にも、七海さんにも、会社にも申し訳ないって泣いていて……あの演技ときたら、アカデミー賞をあげないのが惜しいくらいですよ」アシスタントの話を聞いて、私はようやく悟った。蓮が出ていったのは、私に時間を無駄にしないと悟ったからではなく、会社に、もっと心を引かれる、慰めるべき存在が待っていたからなのだ。アシスタントとの電話を終えて切ると、私は荷物を手に家を出た。そのとき、アシスタントからまた動画が届いた。動画では、沙耶がカッターナイフを首に当てて泣き叫んでいた。蓮は傍で慌てて顔を真っ赤にし、沙耶にナイフを下ろすよう、必死に懇願していた。痴話喧嘩を繰り広げる二人の様子は、私にはただ見苦しいだけだった。そのとき蓮から電話がかかってきた。つながるや否や、電話の向こうから騒がしい声が聞こえてきた。「七海、すぐ会社に来てくれ。君が沙耶を許して、SNSの声明を削除してくれれば、この件はもう終わりにする」「それは私には関係のないことです」私は嫌悪を込めてそう言った。この二人の行為が、ますます気持ち悪く思えてきた。本当に、去り際まで私を不快にさせるつもりらしい。蓮は私がそんな返事をするとは思っていなかったようで、電話の向こうはしばらく沈黙した。私には、沙耶が泣き叫びながら、死ぬと喚き、命をかけて私に謝ると言っているのが聞こえた。さらに、説明会で私の手柄を横取りしたのは仕方のなかったことだ、自分は新人で、良い実績が必要だったのだと言っていた。けれど、新人の時期を経験しなかった者などいるだろうか。どうして沙耶だけが、人の労働の成果を盗めるのか。蓮と親しいからっていうだけで?そのとき蓮が口を開いた。その声には、決然とした響きがあった。「七海、今日のことを君が解決しなければ、もし沙耶に何かあったら、俺たちはこれで完全に縁を切る」なんと冷徹な言葉だろう。このときの蓮は、5年前の彼を、ぼんやりと思い出させた。あの頃、彼の家族は彼の起業に反対し、私を受け入れることすらしなかった。当時の彼も同じように、家と縁を切ると冷徹に脅し、家族を折れさせたのだった。あの頃、彼が守っていたのは私だった。それが今では、沙耶に変わっていた。私は突然、すべてがひどくつまらなく感じられた。「蓮、声明は削除します。あなたのためでも沙耶の
Read more
第6話
決めていた結婚式の時刻は、とうに過ぎていた。教会の中には、新郎である蓮と、新郎側の招待客しかいなかった。このときの蓮は完全に慌てふためいていた。私に電話をかけても、まったくつながらなかった。「七海は、いったい何をしてるんだ?どうして結婚式に現れないんだ?」結婚式は、ついにただの茶番劇になった。沙耶は、そんな結果を見て、心の中でほくそ笑んでいた。「蓮さん、七海さんは、この結婚式のことなんて、全然気にしてないんだと思いますよ。あんな女、蓮さんのことを愛してるかも怪しいです。あんな女のために怒ることないですよ。外にはあんなに大勢のお客様がいるんです。いっそ私が花嫁をやりましょうか?とりあえず、この式を済ませてしまえばいいんですから」沙耶はそう言って、身代わりの花嫁になろうと、ろくでもない提案をした。「七海に、何かあったんじゃないか?」蓮は理由もなく胸騒ぎがして、沙耶の言葉などまったく聞かず、そのまま教会を飛び出した。あとには、顔を見合わせるばかりの招待客が残された。沙耶は歯を食いしばり、後を追った。家に着くと、屋敷はとうにもぬけの殻だった。私の痕跡は、すべてきれいに片づけられていた。蓮はがらんとした部屋を呆然と見つめた。こんな事態は、彼が一度も想像したことのないものだった。傍らの沙耶は、興奮を隠しきれなかった。彼女は心の歓喜を必死に抑え、悲しげな表情を作って蓮を慰めた。「蓮さん、七海さんのような女は、去るのに一言も残さないんですよ。どうしてまだ、そんな女のことを心に置いておくんです?あの女、蓮さんのことなんて愛してないんですよ」蓮は彼女を無視して、部屋の中をぐるりと回り、私が机の上に置いていった封筒を見つけた。彼は、ほとんど震えながら、その手紙を開いた。中には、かつて彼が私に贈った指輪と、母のF国での死亡報告書が入っていた。母の死亡報告書に記された日付を見て、蓮はたちまち、あの日のことを思い出した。私たちを迎えに行かなかったのも、私の電話をブロックして、助けを求めるすべを奪ったのも、彼だった。「違う、こんなこと、本当のはずがない!」蓮は地面に膝をつき、悔恨と自責の涙を流した。私たちは長年一緒にいた。彼は私のすべてを知っていた。父は、私が幼い頃に亡くなった。私にとって
Read more
第7話
「どけ!」蓮は荒々しく、彼女を突き飛ばした。沙耶は全身が固まった。この男の前で、こんな扱いを受けたことは、一度もなかった。「蓮さん、どうしたんですか?」次の瞬間、沙耶は封筒の中の、その他の資料に目をやった。そこに一番目立っていたのは、彼女がさまざまな男との写真だった。さらに、病院の検査報告書と、彼女が協力者と密談していたチャットの履歴もあった。それらを見て、沙耶は一瞬、頭が真っ白になった。「沙耶!」蓮は資料を握りしめ、怒りに震えて沙耶を見た。「出て行け!二度と俺の前に姿を現すな!」目の前のものを見て、この一ヶ月の自分の行いを思い返し、蓮は憤然と自分の頬を張った。恋人として、婚約者として、彼は私が一番無力だったときに、傍にいて慰めるどころか。彼自身が、この悲劇のすべての張本人だったのだ。そんな認識が、蓮の胸を、息もできないほど苦しく締めつけた。彼は狂ったように、持てる人脈を総動員して、私の行方を探し始めた。……ヨーロッパ各地を旅する私は、本当に楽しかった。仕事の忙しさから解放され、一人で美しい世界を満喫して、私はまるで、もう一度生まれ変わったような気分だった。訪れる土地ごとに、私は母の写真を持って写真を撮り、母が話してくれた場所に、自分の足跡を残していった。そんな生活を満喫するたびに、以前の5年間を思い出しては、私はこの上なく後悔した。男一人のために、時間を無駄にした自分が、後悔でならなかった。恋のために、家族への情を大切にできなかったことが、何より悔やまれた。私はヨーロッパを半年以上旅し、それから世界各地へも足を延ばした。この数年、ずっと旅の途中だった。昔の友人が、ときどき私にメッセージをくれた。その内容はいつも、蓮が狂ったように世界中で私を探しているというものばかりだった。会社のプロジェクトは頓挫し、投資の資金は減り、会社は下り坂を転がり始めた。沙耶のほうは、友人の話では、蓮に会社を追い出され、彼女のしたことが大々的に広まったせいで、雇おうとする会社は一社もないという。彼女はあの街を去り、今は行方もわからない。そんな知らせを、私は気にも留めなかったし、構っている余裕もなかった。私はヨーロッパを巡り尽くし、それからアフリカへも足を延ばした。
Read more
第8話
私の傍には、もう別の男性がいた。蓮は足を止め、信じられないといった様子で私を見た。彼は声を震わせて、私に尋ねた。「こちらは……?」「僕はこの女性の夫です。あなたは、どなたですか?」私の夫・天野海斗(あまの かいと)は不機嫌そうに蓮を見た。今にも拳を振り上げて殴りかかりそうな構えだった。「君が……結婚しただと?!」蓮は、信じられないといった顔だった。彼の様子を見て、私は構わずにいようと思った。けれど、あの出来事も、時間が経つうちに、とうに過ぎ去った過去のことになっていた。私はうなずいた。「ええ、結婚しました。今は、とても幸せに暮らしています」その言葉を聞いて、彼は気まずそうにうつむいた。「七海、この何年も、俺はずっと君を探していたんだ。直接、謝りたかった。お義母さんのこと……」私は彼の謝罪の言葉を遮った。母が亡くなって、もう5年が経っていた。私はとても苦しく、蓮と沙耶を、そして自分自身を恨んだこともあった。けれど、過ぎたことは過ぎたことだ。恨みながらも、生きている者は、しっかり生きていかなければならない。「蓮、それはもう、過去のことです。亡くなった人は帰りません。生きている者は、前を向いて生きていかなければ。お母さんのことは、あなたを許すことはできません。けれど、恨み続けるつもりもありません。私たちは、もう連絡を取らないほうがいいのでしょう」彼の目の光は、その瞬間に消えた。彼は申し訳なさに満ちた目で私を見た。しばらく沈黙した後、彼の口元が、かすかに弧を描いた。「七海、この何年か、君は幸せにしていたか?」私はうなずいた。「母の希望を胸に、世界を見てきました。とても楽しかったし、本当に愛せる人にも出会えました」私が言い終わるか終わらないかのうちに、彼の目から涙がこぼれ落ちた。すすり泣く彼の姿を見て、私は小さくため息をつき、ティッシュを差し出した。昔の私は、彼が少しでも悲しむのを見ていられなかった。私が彼を愛していたから、同じように悲しくなったのだ。けれど今の私の心は、凪いだ水面のように静かだった。「なあ、よかったらカフェで座って話さない?」海斗は、蓮が大通りで泣いているのを見かねて、彼を道端のカフェへ連れていき、座らせた。海斗は、私が旅の途中で知
Read more
第9話
蓮はとても執念深い人だった。今回F国で彼に会って、私は驚いたが、それと同時に、彼がまた必ずやって来るだろうことも、心の中ではわかっていた。だから私と海斗は、早めに世界旅行を終えて、C国に移り住むと決めていた。ところが、誰も思いもよらないことに、C国へ戻る前日の夜、私たちはホテルで泥棒に遭い、スマホもパスポートもなくなってしまった。仕方なく、私たちはF国にもう数日滞在するしかなかった。ある日、海斗が眠っていたので、私は一人で、ホテルの周りをぶらぶら散歩しようと外へ出た。ホテルの門を出た途端、蓮に会った。彼は、とても慎重な様子で私を見ていた。手にはチューリップの花束と、お菓子の入った箱を持っていた。「七海、これは君が一番好きな花だ。君に。それから、君が俺の作るブラウニーが一番好きだと言ってただろう。これは俺が作ったんだ。食べてみてくれ」私は花を受け取り、少し困惑しながら言った。「蓮、ここで私を待って、いったい何のつもりですか?お気持ちはありがたいです。でも、私はもう、チューリップは好きではありません」私はお菓子の箱を見て、いっそう困惑した。蓮は、家族に甘やかされて育った。付き合い始めた頃、私がブラウニーが好きだと言うと、彼はわざわざ作り方を覚えて、私のために作ってくれた。けれどその後、一緒にいる時間が長くなるにつれ、彼は二度と台所に立たなくなった。しかし今日、彼はとうに諦めていたことを、再び始めた。私はため息をついてケーキを受け取った。「蓮、そんなことをして、何になるんですか?」私たちの間は、とうに可能性がなくなっている。彼の今のこんな行いは、まったく意味がなく、それどころか私をとても苛立たせた。以前の蓮は、まぎれもなくエリートの男で、仕事こそが一番だった。それが今では、慎重に、私に取り入ろうとしている。その落差には、本当に耐えられない。これは、私の知っている蓮ではなかった。蓮は唇を引き結んで何も言わず、私がプレゼントを受け取ったのを見て、目元いっぱいに笑みを浮かべた。「蓮、私はもう結婚しています。私には私の生活があります。あなたにも、あなたの生活がある。できれば、もう二度と会いたくありません。このまま別れましょう。それが、お互いのためです。プレゼントは素敵です。でも、正
Read more
第10話
警察と救急車は、あっという間に到着した。蓮と沙耶は、病院へ運ばれた。二人とも、重傷だった。私と海斗は病院で、蓮の手術が終わるまで待った。命に別状がないと知ると、ようやくホテルへ戻った。F国を離れる前に、海斗が私の代わりに蓮を見舞いに行った。戻ってきたとき、彼は私に指輪を一枚差し出した。「あの男が、これを『別れのプレゼント』だってさ。でも、俺にはどうも目障りで。捨ててもいいか?」その指輪は、かつて私たちの愛の証だった。けれど今、それを見ても、私の心には一片の波も立たなかった。私は自分の手で、その指輪を窓から投げ捨て、それから海斗と一緒にベッドに倒れ込んだ。私は海斗とF国を離れ、帰国した。私はこの数年で訪れた国々の写真を、母の遺影に見せてあげた。あの世でも、母が私たちと一緒に、この喜びを分かち合ってくれますように。私と海斗は、C国に腰を落ち着けた。半年後、娘が生まれた。ちょうどその頃、私は友人からメッセージを受け取った。蓮は、傷が癒えた後、会社を売ってアフリカへ渡ったという。彼の行方を知る者はいなかった。沙耶は実刑判決を受け、残りの半生は、おそらく刑務所で過ごすことになるだろう。沙耶が収監されたちょうどその日、私のスマホに突然、一通のメッセージが届いた。そこには、果てしなく広がる大草原が写っていた。草原を、野牛の群れが駆け抜けていく。荒々しく、自由に。その写真を見た瞬間、私は、きっと蓮から届いたのだろうと察した。F国で彼と再会したあと、私たちはもう二度と会うことはないのだろう。私たちは、それぞれ新しい人生を歩み始めていた。「ママ、だっこ」娘の声が耳元に響いた。その声を聞きながら、私は思った。過去のあれこれはもう私とは何の関わりもなく、今の私には、もはやどうでもいいことなのだ、と。(おわり)
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status