LOGIN彼がどん底にいたあの年、私は何も告げずに姿を消した。 やがて成功をつかんだ彼は私を強引に妻にした。 私たちの恋はネットで話題になり、誰もが羨ましがった。 彼は私に夢中なのだとみんなが言っていた。 けれど、やがて彼は私たちのベッドで、次々と別の女を抱くようになった。 羨望の的だった私は、一転して汐見市で一番の笑いものになった。 それでも騒ぐことはせず、それからは書斎で寝るようになった。寝室は彼と、彼の不倫相手たちに譲った。 彼は逆上し、私の首を乱暴に締めつけた。唇にまで噛みつかれ、血がにじんだ。 「どうして怒らないのだ?!」 だって、私は病気だから。 彼の心が戻ってくる日まで、もう生きてはいられない。
View More悠生は片時も私のそばを離れなかった。トイレに行くとき以外は、目を開けるたび、その姿が目に入る。父の代わりに、今度は自分が私の面倒をきちんと見るのだという。でも……いくらなんでも、過保護すぎないだろうか。ある日、悠生が会計を済ませに行った隙に、私はこっそり病室を抜け出した。病院の敷地内にある小道を歩く。降り注ぐ日差しが、体を隅々まで包んだ。ぽかぽかして、気持ちいい。そのとき、見知らぬ男が突然、私を呼び止めた。「澪!こんなところで何をしてる!」振り返り、首をかしげて相手の顔を見つめた。「私たち……どこかでお会いしましたか?」男の顔が悲しみにゆがんだ。目を赤くし、声を詰まらせながら名乗る。「澪……俺だ。朔也だよ」朔也が伸ばした手に触れた瞬間、感電したように手を引っ込めた。それでも無理に笑みを浮かべ、冗談めかして言った。「知ってる。ちょっとからかっただけ」けれど、朔也の表情は晴れなかった。私の手を握り、そのまま病室へ向かって歩き出す。私は拒まなかった。自分の病室がどこにあるのか、もう思い出せなかったから。部屋へ戻るなり、朔也は深く息を吸い、真剣な顔で問いかけてきた。「どうして、もっと早く病気だと教えなかった?もっと早く分かっていれば、まだ何かできたかもしれないのに……」私は首を横に振った。「何も変わらないよ」昔、父が発病したとき、私も同じように考えた。早く分かれば、きっと何とかできる。そんな願いは、結局かなわなかった。「私は一度も隠してない。あなたが信じなかっただけ」誕生日に言い争ったときも、インタビュー中に血を吐いたときも……思い返せば、私は何度となく病気だと伝えていた。ただ、朔也が信じようとしなかっただけだ。記憶をなくしても飲み忘れないように、抗がん剤は家中の目につく場所に置いてあった。それなのに、朔也は一度も気づかなかった。その目は、いつも美羽だけを追っていたから。病気の発作で道に迷ったとき、朔也は美羽を抱きしめていた。血を吐いて苦しんでいたときも、美羽の耳元で甘い言葉を囁いていた。だから朔也は最後まで、私が病気のふりをしていると思い込んでいた。朔也は長い間、黙ったまま椅子に座っていた。やがて、独り言のように呟く。「お前は、いつも
私は、どこまでも真っ白な世界に閉じ込められていた。ここから出たいのに、出口が見つからない。ただ当てもなく歩き続けるしかなかった。そのとき、朔也の声が聞こえてきた。ずっと泣きながら、もう自分を置いていかないでくれと訴えている。「やっとお前を取り戻したのに、また俺を捨てていくのか?澪、頼むから目を開けて、俺を見てくれ」朔也は昔と変わらない。相変わらずの泣き虫だ。慰めてあげたいのに、声が出なかった。次の瞬間、今度は知らない人の声が聞こえた。「九条さん、申し訳ありません。できる限りのことはしました。本来なら、澪さんはあと数か月は持ったかもしれません。ですが、病状があまりにも重く、激しい感情の揺れが引き金となり、がん細胞がほぼ全身に広がっています。どうか、最悪の場合に備えてください」何かが床に落ちる音に続いて、朔也の罵声が響いた。「ふざけるな、このやぶ医者ども!妻が死ぬわけないだろうが!金ならいくらでもある!俺が必ず澪を治してみせる!」その日から、入れ替わり立ち替わり、いろいろな人の声が聞こえるようになった。けれど、最後は誰もがため息をつき、もう覚悟を決めたほうがいいと告げた。結論は、いつも同じだった。それでも朔也は、私が知る誰よりも頑固だった。あらゆる研究機関へ連絡を取り、私を受け入れて治してくれるなら、数億円を寄付すると申し出た。何かに取りつかれたように、誰にも私を傷つけさせまいとする。看護師が注射をするだけでも声を荒らげ、私に痛い思いをさせたと責め立てた。病院の人たちは朔也に逆らえず、ひたすら耐えるしかなかった。夢の中でそれを聞きながら、私は危うく笑いそうになった。私を誰より深く傷つけたのは、ほかでもない朔也なのに。そんな朔也がようやく少し静かになったのは、長く離れて暮らしていた弟の悠生が、私の終末期の希望を記した書面を持って現れてからだった。父が亡くなったとき、私は悠生に連絡し、葬儀に来てほしいと頼んでいた。それでも、葬儀の日に本当に悠生が姿を見せたときには驚いた。悠生は葬儀の間、父の遺影の前に座り、私と一緒に弔問客一人ひとりへ頭を下げた。身長が180センチを超える長身の青年が、子どものように泣きじゃくっていた。自分の意思で出ていったわけではない。あ
焼酎を一本買って、牛肉のしぐれ煮を一品作り、父の墓へ向かった。生前の父が何より楽しみにしていたのは、畑仕事を終えたあと、小さな盃で一杯だけ酒を飲むことだった。当時は牛肉など買えず、つまみは少しの枝豆で我慢していた。私はよく、いつかたくさん稼いで、トラック一台分の牛肉を買ってあげると冗談を言ったものだ。今では、買おうと思えばいくらでも買える。でも、父はもういない。墓石の前に腰を下ろし、自分の盃に焼酎を注いで、一気に飲み干した。それから、父へとりとめもなく語りかける。「お父さん、私、結局朔也と結婚したよ。でも、あいつ最低なの。大嘘つき!ずっと私を愛するって、そばにいるって約束したくせに……」話しているうちに、声を上げて泣いていた。「お父さんの人形、やっぱり私たちを守ってくれなかったよ……」その言葉を口にした瞬間、はっとして顔を上げた。涙を乱暴に拭い、墓地を飛び出す。私をかたどった木彫りの人形は、まだ朔也のもとにある。父は実直な農家で、高価なものを贈れるような人ではなかった。その代わり、畑仕事の合間を縫って、小さな木彫りの人形を二つ作ってくれた。一つは朔也、もう一つは私をかたどったものだった。父は照れくさそうに頭をかきながら言った。「昔から、人形は幸運を運んでくれるっていうだろう。父さんは、二人がいつまでも無事で、幸せでいてくれるよう願ってるよ」二つの人形を朔也のもとへ持っていくと、彼は私をかたどったほうを手に取った。手のひらほどの人形に銀色のキーリングをつけ、自分の鍵にぶら下げた。こうすれば、澪がいつもそばにいてくれるから、と朔也は笑った。今、その人形を取り戻したい。父が私に遺してくれた、たった一つの形見だから。会社に着くと、社長室のテレビには、私が受けたインタビューの映像が流れていた。病気だと告げて血を吐く場面を、朔也は何度も繰り返し見ている。私はまっすぐ朔也に近づき、そのままポケットへ手を入れて鍵を探った。朔也は私から漂う匂いに気づき、眉をひそめた。「酒を飲んだのか?」答えず、ポケットの中を探り続ける。いら立った朔也が私を押しのけると、鍵が床に滑り落ちた。人形の姿が消え、空になったキーリングを見た瞬間、頭に血が上った。「人形はどこ!」ちょう
翌日、朔夜はSNSに一枚の写真を投稿した。彼と美羽のツーショットだった。誰もが、美羽はいずれ九条夫人になるのだろうと噂している。朔也が私以外の女性との関係を公にしたのは、これが初めてだった。その投稿は瞬く間に何万回も拡散され、SNSのトレンド一位に躍り出た。財力も容姿も申し分のない朔也。清楚で愛らしく、誰からも好かれる美羽。並んでいる姿は、確かにお似合いに見える。コメント欄は二人を祝福し、理想のカップルだとはやし立てる声で埋まった。けれど、まもなく私の存在を突き止める人が現れた。今度は私のSNSに押しかけ、真相を教えろとコメントを残していく。本妻が不倫相手を徹底的に叩きのめす、そんな修羅場を見たくてたまらないらしい。でも、私にはどうでもよかった。どうあがいても妻にはなれない不倫相手と、何があっても離婚しようとしない男。騒いだところで、何かが変わるわけでもない。そう思っていたのに、あるライブインタビューをきっかけに、表面上の平穏はあっけなく崩れた。番組の主催会社は、朔也の会社の取引先だった。本当は出演するつもりなどなかった。けれど、無事に終えれば出演料として二千万円を払うと、朔也は約束した。私には金が必要だった。それも、途方もない額の金が。病気の進行を抑える薬は、あまりにも高い。インタビュアーはまだ若い女性で、私を見る目には最初から敵意があふれていた。今日の配信は、きっと面白いことになる。予想どおり、彼女は冒頭から私だけを狙い撃ちにした。「世間から『金目当ての女』と呼ばれていることについて、何かおっしゃりたいことはありますか?九条社長がまだ貧しい青年だった頃、お二人は婚約していたそうですね。ところがあなたは金持ちの男を捕まえると、何も告げずに姿を消した。その後、九条社長が成功すると突然戻ってきて、過去の婚約を盾に取り、自分と結婚するよう迫ったと聞いています。今も九条夫人の座に居座り、社長が本当の愛を貫くことを許さず、愛する女性を不倫相手という立場に追いやっている。ご自分でも、あまりに身勝手だとは思いませんか?」正義を振りかざすような勢いに、思わず笑ってしまった。よくもまあ、ここまでそれらしい話を作れたものだ。彼女の手首で光る銀色のブレスレットに目をやった。美羽も