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さよならの後に咲く愛

さよならの後に咲く愛

By:  パントーロCompleted
Language: Japanese
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「もう決めました。村上(むらかみ)先生、離婚協議書を作成してください」 星奈(せいな)は、五周年の結婚記念日を、夫と共にではなく弁護士事務所で迎えていた。 家では、隆成(りゅうせい)が自分の秘書の雫(しずく)をもてなしている。 妻であるはずの星奈が、家を出て行かされる立場になっていた。 五年もの間、隆成は会社で自分たちが夫婦であることを一度も公にしなかった。 星奈は、もう一度だけ、ちゃんと話をしたいと考えていた。 だが、隆成が「雫がひとりで家にいるんだ。停電で困っているみたいだから、こっちでご飯を食べさせることにしたよ。星奈、いいよね?」と何気なく言ったその瞬間、星奈は悟った。もう、何も期待する必要はないのだと。 離婚こそが、この五年間の関係を終わらせる唯一の答えだ。

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Chapter 1

第1話

「もう決めました。村上(むらかみ)先生、離婚協議書を作成してください」

星奈(せいな)は、五周年の結婚記念日を、夫と共にではなく弁護士事務所で迎えていた。

家では、隆成(りゅうせい)が自分の秘書の雫(しずく)をもてなしている。

妻であるはずの星奈が、家を出て行かされる立場になっていた。

五年もの間、隆成は会社で自分たちが夫婦であることを一度も公にしなかった。

星奈は、もう一度だけ、ちゃんと話をしたいと考えていた。

だが、隆成が「雫がひとりで家にいるんだ。停電で困っているみたいだから、こっちでご飯を食べさせることにしたよ。星奈、いいよね?」と何気なく言ったその瞬間、星奈は悟った。もう、何も期待する必要はないのだと。

離婚こそが、この五年間の関係を終わらせる唯一の答えだ。

……

「村上先生、離婚協議書を今日中に作っていただけませんか?」

別荘の中から、男と女の楽しげな笑い声が聞こえる。その声を耳にして、星奈はもう気持ちを抑えきれず、弁護士に電話をかけていた。

夜風は肌を刺すほど冷たい。でも、星奈の心はそれ以上に冷え切っていた。

ここは本当は星奈の家。今日も、本来なら五年目の結婚記念日であるはずなのに。

それなのに、星奈は夫に家を追い出され、彼の女性秘書にその席を奪われている。

電話口の向こうからは、静かなため息が聞こえてきた。「星奈さん、一度お会いして詳しくお話ししましょう」

一時間ほど前、星奈は急いで家に帰ってきて、テーブルに並ぶ色鮮やかな料理を前にして、ひとつため息をついた。

「隆成、私が辛いものが苦手なの、知っているでしょう……」

星奈は決して好き嫌いが多い人間ではない。

けれど、今日の食卓に並んだ料理の中で、星奈が口にできるものはほとんどなかった。

どんなに好き嫌いがなくても、身体を壊してまで食べたくはない。

星奈が唐辛子にアレルギーがあることは、隆成も知っているはずだ。

だからこそ、この五年間、星奈が作る食事はいつも控えめな味付けが中心だった。

なのに今日は、隆成が注文した料理はどれも刺激の強い四川料理ばかり。

隆成は、テーブルの上で唯一唐辛子が入っていないトマトと卵のスープだけを星奈の前に押しやると、不機嫌そうに言った。

「俺が普段どれだけ忙しいか分かってるだろ。こんな些細なことまで気を配る余裕なんかないし、会社だって、俺がいなきゃ回らないんだ。せっかく時間を作ってお前と飯を食ってるんだから、余計な文句は言うな。それに、このトマトと卵のスープには唐辛子が入ってないだろ?」

星奈は、隆成の心が自分から離れていることに気づいていた。

もしかすると、最初から、隆成は星奈に関心なんてなかったのかもしれない。

それでも、まさか五年間の積み重ねをここまで無視され、あからさまな冷たさで突き放されるとは思っていなかった。

今日は五周年の結婚記念日。テーブルには十二皿もの料理が並んでいるのに、星奈が食べられるのは一皿だけだった。

星奈が何か言いかけたそのとき――

突然、隆成の携帯電話が鳴った。

隆成は電話に出ると、楽しげな声で誰かを迎え入れ、キッチンから新しい食器を持ち出して、自分の隣の席に丁寧に並べ始めた。

電話を切った後、やっと星奈の方を向いて聞く。

「雫がひとりで家にいるんだ。停電で困っているみたいだから、こっちでご飯を食べさせることにしたよ。星奈、いいよね?」

本来なら尋ねているはずのその言葉も、隆成が口にすると、ただの宣言にしか聞こえなかった。

星奈は苦笑するしかなかった。

ここまで段取りを進められてしまえば、断ったところで何も変わらない。

「そういえば星奈、さっき何か言いかけてなかった?」

隆成は、ふと思い出したように星奈に尋ねた。

今日は五年目の結婚記念日。

星奈は、せめてこの日だけは二人きりで食事をしたいと思っていた。本当は、誰にも邪魔されたくなかった。

言えば隆成が不機嫌になることは分かっていたけれど、星奈は勇気を出して口を開いた。

「隆成、今日は結婚記念日だから、二人きりでゆっくり話をして、一緒にご飯を食べたいの……」

やはり、星奈の言葉は最後まで届かない。

隆成は眉をひそめ、あからさまな不機嫌さを見せながら、手に持っていたお椀をテーブルに乱暴に置く。

「結婚記念日くらい分かってるよ。いちいち言わなくたって、まるで蝿みたいにうるさいんだよ。

これだけの料理を頼んだって、お前一人じゃ食べきれないだろ。あの子は毎日俺のために働いてくれてるんだ。今日はその子にもご飯を食べさせてやるだけだ」

隆成の強い口調に、星奈はうつむいた。

何も言わず、目の前のトマトと卵のスープを静かに口に運ぶ。

気がつくと、目の奥が熱くなっていた。

ぽろぽろと涙がスープに落ちていく。でも、星奈はそれを飲み込んだ。

これだけの料理、一人ではどうやっても食べきれない。

星奈は無言でスープを飲み干し、もう一度顔を上げた時には、普段通りの表情を取り戻していた。

ただ、うっすら赤くなった目元に、隆成が少しでも気づいてくれたら――そんな淡い期待すら、もう残っていなかった。

「隆成、私たち、離婚した方がいいと思う」

向かい側の隆成は、ずっとスマホを見つめたまま、ぼんやりと笑みさえ浮かべていた。

星奈の言葉が耳に入っていなかったのか、「あ?」とだけ返す。

星奈は感情を押し殺したまま、表情を変えずに座っていた。

もう一度言い直そうとしたそのとき、またしても隆成に遮られる。

「雫が来たみたいだ。何か用があるなら、あとで話してくれ」

星奈は口を開いたが、隆成はそれさえ待つことなく、足早に部屋を出て行った。

その背中をただ見つめるしかなかった星奈は、そっと口元を引き締め、スマホの画面を指でなぞった。

【あとで弁護士事務所に行きます】

これからはもう、隆成が他の女性と関わるのを私が邪魔することもなくなる。

五年の月日が流れ、結局、あの人の母が亡くなる前に願ったことも叶わなかった。

でも、もう星奈は、これ以上待つことはできなかった。
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第1話
「もう決めました。村上(むらかみ)先生、離婚協議書を作成してください」星奈(せいな)は、五周年の結婚記念日を、夫と共にではなく弁護士事務所で迎えていた。家では、隆成(りゅうせい)が自分の秘書の雫(しずく)をもてなしている。妻であるはずの星奈が、家を出て行かされる立場になっていた。五年もの間、隆成は会社で自分たちが夫婦であることを一度も公にしなかった。星奈は、もう一度だけ、ちゃんと話をしたいと考えていた。だが、隆成が「雫がひとりで家にいるんだ。停電で困っているみたいだから、こっちでご飯を食べさせることにしたよ。星奈、いいよね?」と何気なく言ったその瞬間、星奈は悟った。もう、何も期待する必要はないのだと。離婚こそが、この五年間の関係を終わらせる唯一の答えだ。……「村上先生、離婚協議書を今日中に作っていただけませんか?」別荘の中から、男と女の楽しげな笑い声が聞こえる。その声を耳にして、星奈はもう気持ちを抑えきれず、弁護士に電話をかけていた。夜風は肌を刺すほど冷たい。でも、星奈の心はそれ以上に冷え切っていた。ここは本当は星奈の家。今日も、本来なら五年目の結婚記念日であるはずなのに。それなのに、星奈は夫に家を追い出され、彼の女性秘書にその席を奪われている。電話口の向こうからは、静かなため息が聞こえてきた。「星奈さん、一度お会いして詳しくお話ししましょう」一時間ほど前、星奈は急いで家に帰ってきて、テーブルに並ぶ色鮮やかな料理を前にして、ひとつため息をついた。「隆成、私が辛いものが苦手なの、知っているでしょう……」星奈は決して好き嫌いが多い人間ではない。けれど、今日の食卓に並んだ料理の中で、星奈が口にできるものはほとんどなかった。どんなに好き嫌いがなくても、身体を壊してまで食べたくはない。星奈が唐辛子にアレルギーがあることは、隆成も知っているはずだ。だからこそ、この五年間、星奈が作る食事はいつも控えめな味付けが中心だった。なのに今日は、隆成が注文した料理はどれも刺激の強い四川料理ばかり。隆成は、テーブルの上で唯一唐辛子が入っていないトマトと卵のスープだけを星奈の前に押しやると、不機嫌そうに言った。「俺が普段どれだけ忙しいか分かってるだろ。こんな些細なことまで気を配る余裕なんかないし、会
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第2話
まもなくして、隆成は若い女性を連れて家に戻ってきた。星奈は、その女性をよく知っている。彼女の名前は、雨宮雫(あまみや しずく)。実はみんな、同じ会社で働いている同僚だ。隆成は会社の社長、雫は彼の秘書、そして星奈は会社の財務部長を務めている。ただし、職場で余計な噂を避けるため、会社の誰も星奈と隆成が夫婦であることを知らない。毎日の出退勤も、隆成はわざわざ星奈と時間をずらしている。「星奈さんもここにいたんですね。隆成さん、私のこと騙してるのかと思いました」雫はそう言うなり、星奈の腕をつかんできた。声にはかすかな甘さと、どこか計算されたものが混じっている。「ねえ星奈さん、こっそり教えてください。あなたと隆成さんって、どういう関係なんですか?」星奈は少し戸惑いながらも、雫の手をそっと振りほどき、本当のことを伝えようとした。けれど、その前に隆成が口を開く。その声は、雫にだけは優しいけれど、どこか諦めたような、やるせなさも感じさせる口調だった。「俺と星奈はただの同僚だ。今日は会社の会計を整理していたところに、たまたまお前が来ただけだ。お前みたいに、仕事が終わったらすぐソファで寝転がってテレビを見るわけじゃないからな」あっさりと「同僚」だと言い切る隆成。星奈は向かい側からその姿をじっと見つめていた。体が硬直していくのが自分でもわかる。会社ではいつも、二人は「同僚」として振る舞ってきた。けれど、隆成の口からこうしてはっきりと言われると、その一言一言がナイフのように胸に突き刺さる。星奈は歯を食いしばり、悔しさを押し殺しながら口を開く。「隆成、私たちは本当は……」「やめろ」隆成は星奈の言葉を遮り、冷たく、情け容赦ない目を向けてきた。「余計なことを言う必要はない。この件は俺が決めることだ」星奈はがっかりして首を横に振った。心の奥にわずかに残っていた期待も、静かに消えていく。そのとき、雫がにっこり笑った。二人が「同僚」だと聞いた途端、何の遠慮もなく隆成の隣の席に座り、声を弾ませる。「わあ、私の好きなものばっかり。隆成さん、本当に優しいですね」そう言って、雫は隆成の頬に軽くキスをした。隆成は一瞬呆然としたが、すぐにハッと我に返り、こっそり星奈の様子を伺う。星奈がずっと下を向いて、何
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第3話
空から細かい雨が静かに降り続いていた。涼しい風が木々を揺らし、道の両側で枝葉がそよそよと音を立てている。けれど、その風がどんなに吹いても、星奈の心はもう揺らぐことはなかった。星奈は迷いなく電話をかけ、一つの目的を胸に、まっすぐ弁護士事務所へと向かった。エレベーターに乗り込み、慣れた足取りでビルの一室に向かう。ここに来るのは、星奈にとって初めてではない。「村上先生、離婚協議書、今日中に仕上げてもらうことはできますか?」向かいに座る村上修平(むらかみ しゅうへい)は眉をひそめ、手元の記録をめくっている。「半分はもうできています。今日中に残業すれば、なんとか間に合うでしょう。でも、星奈さんの以前の希望では、離婚は来月の予定でしたよね。どうしてこんなに早めることに?」星奈は、わずかに微笑んだ。「痛みが長引くくらいなら、早く終わらせた方がいいと思って。どうせ遅かれ早かれ同じことだから」星奈は事務所に深夜まで残り、手にしたのは一冊の黒いファイルだった。事務所を出てからも、星奈の眉間の皺は一度も緩むことがなかった。「この離婚協議書には、双方の署名が必要です」女である自分の名前は、すでにすべて記入し終えていた。残るのは、隆成にどうやってサインさせるか。それが、もっとも大きな問題だった。ふいに携帯の呼び出し音が鳴り響く。画面には【安藤隆成(あんどう りゅうせい)】の名前が表示されている。「星奈、今どこにいるんだ。こんな時間まで帰らないなんて。住所を教えてくれ、迎えに行く」星奈は少し考えた末、ひとつの住所を伝えた。「ええ、迎えに来て。ちょうど話したいことがあるの」もし本当に迎えに来てくれるなら、このタイミングで全てを打ち明けるつもりだった。離婚の決意も、これからのことも、全部――だが、一時間、二時間と時間は過ぎても、隆成は現れなかった。やがて星奈がスマホを手に取り、電話をかけようとしたとき、ふとSNSのタイムラインが目に入った。雫の自宅は真っ暗で、一本のろうそくの灯りだけがかすかに部屋を照らしている。その写真には、隆成の左手が映り込んでいた。人影は薄暗くて分からなくても、その薬指の結婚指輪を星奈が見間違えるはずがなかった。【家が停電で真っ暗。社長が一緒にいてくれた!】星奈はし
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第4話
翌朝も、二人はいつものように前後して別荘を出て、会社へと向かった。星奈が会社のビル前に着くと、ちょうど隆成が雫を連れて車から降りてくるのが見えた。隆成は、星奈との関係については誰に対してもはっきり説明しようとしないのに、雫との親しげな様子はまったく隠そうとしない。「自分たちはやましいことなんて何もない。堂々としていればいい」と、隆成はよく言っていた。まるで、星奈との関係だけが、人に隠したい後ろめたいものだと言わんばかりだった。星奈の姿を見つけると、雫は駆け寄ってきて、小さな包みを差し出した。「星奈さん、偶然ですね。これ、昨日のお礼に買ったお菓子です。昨日SNSの投稿にいいねしてくれたから、そのお返しです」隆成はずっと雫の後ろを歩いていたが、その一言に目をとめた。「いいねって?」雫はさっそくスマホを取り出して、昨日の投稿画面を見せる。隆成の目が一瞬鋭く細まる。昨日自分がついた嘘を思い出したのか、どこか動揺した様子で星奈を見つめた。しかし、星奈が穏やかにお菓子を受け取ったのを見て、隆成はほっとした表情になる。「きっと星奈は、すべてを結びつけて考えていないんだ」そう自分に言い聞かせる隆成。星奈は「ありがとう」と微笑んで包みを受け取り、そのままエレベーターに乗り込んだ。星奈が去ったあと、隆成は険しい表情でその背中を見送った。どこか今日の星奈は、いつもと違う。隆成にはそう感じられたが、はっきりとした理由は分からなかった。会社に到着すると、隆成はすぐに財務室の社員を呼び、星奈の最近の仕事ぶりについて尋ねる。「昨夜、部長が村上法律事務所に行くのを見ました。ご家庭で何かあったんですか?」その一言に、隆成の胸はざわついた。家族である自分が知らない理由で、星奈が弁護士を訪ねるはずがない。心の奥に、不安の種が芽生えた。昨夜星奈が伝えてきた住所が、ちょうど法律事務所の近くだったことも気になる。問いただそうとしたその時、星奈が自らオフィスのドアをノックした。「社長、先月分の給与明細です。こちらにサインをお願いします」星奈はバッグから黒いファイルを取り出し、隆成に手渡す。必要な署名欄には、すべて付箋が貼られている。「サインが必要なのはこの数ページだけです」「分かった、少し目を通すから
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第5話
その日の午後、星奈は真っ先に村上に連絡を取った。「離婚協議書の署名が済めば、手続きはほぼ終わりです。ただし、その間にどちらかが取りやめたいと言えば、もう一度協議し直すことになります」離婚のルールについては、星奈はすでによく理解していた。別荘に戻ると、まず荷物の整理を始める。隆成には何も告げないつもりだった。この別荘で五年も暮らしてきたはずなのに、いざ持ち物をまとめてみると、驚くほど少ないことに気づく。その事実が、隆成との結婚がどれだけ形ばかりだったかを、改めて突きつけてくる。五年もの結婚生活に、思い出はほとんど残っていなかった。隆成が帰宅したとき、星奈は苦笑いを浮かべながらタオルをスーツケースにしまっていた。「星奈、荷物の整理?どこか出かけるのか?」思いがけず早く帰ってきた隆成に、星奈は慌てず、静かに荷造りを続ける。「どこにも行かないよ。ちょっと古い服が増えたから、まとめて寄付しようと思って」「寄付?どうして?」星奈は微笑みながら顔を上げた。「言ってなかったっけ?実は私、小さい頃から……」その言葉が終わらないうちに、隆成の電話が鳴る。電話の画面には、【子猫ちゃん】と可愛らしい登録名が表示されている。特別な愛称で呼ばれている雫。一方、星奈は電話帳でただの【星奈】とだけ登録されている。「もう家に着いたよ。ちゃんとおとなしく待ってて。すぐに行くから」電話を切った隆成は、星奈が会話を聞いていたことに気づいた。「雫さんが連絡してきたの?」と、星奈が尋ねる。隆成は少し慌てたように説明を始めた。「違うんだ、星奈。雫の家がまた停電になって、一人でいるのが心細いっていうから、ちょっとだけ様子を見てくるだけなんだ」星奈はにっこりと笑い、「大丈夫、分かってる」とだけ返した。そのやさしさが、逆に隆成をますます不安にさせた。ここ数日の星奈の変化に、彼は戸惑いを隠せない。ふたりの間には、薄い紙一枚を隔てたような、今にも破れそうな緊張感が漂っていた。なのに、その紙を破って本心に触れることがどうしてもできなかった。隆成は星奈が荷物を詰め終える様子をじっと見つめた。部屋の中は、以前と何一つ変わっていない。明日のために用意された服はきちんとアイロンがけされ、スーツにはそれぞれのネクタ
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第6話
星奈と隆成が出会ったのは、まさに偶然が重なった結果だった。星奈がこの街に来たばかりの頃、いくつも物件を見て回った末に、最終的に選んだのが隆成の母の家だった。入居したその日、隆成の母は突然倒れ、意識を失った。星奈がすぐに気づいて病院に運んだおかげで、命は助かった。手術は成功したものの、体には後遺症が残り、長期の介護が必要になった。ちょうど星奈も仕事が決まっていなかったことから、隆成と母親に頼まれて、介護の仕事を引き受けることにした。だが、隆成の母は一年後、重い病に勝てずこの世を去った。そして、隆成は母の遺言に従い、星奈と結婚した。それから、五年。当時は情熱だけで突っ走っていた星奈も、いつかきっと隆成が本心を見せてくれる日が来ると信じて、ずっと頑張ってきた。けれど、五年が過ぎた今、星奈はもう、すっかり疲れ果てていた。これ以上、頑張る気力も残っていない。星奈はゆっくりとスーツケースを引いて別荘に戻り、電話をかけた。「美智子(みちこ)さん、部屋を一つ探してほしいの。広くなくていい、一人で住めれば十分。できれば一か月後に入居できる物件でお願い」電話の向こうで神田美智子(かんだ みちこ)が戸惑いの声を上げる。「部屋を借りる?星奈、あなた手持ちの物件が何件か売りに出ているでしょ。なんでわざわざ借りる必要があるの?」美智子は、数年前に星奈が最初に家を見つけたときの不動産屋さんだ。今でも星奈が所有している物件の管理を任せていて、この街で数少ない信頼できる友人の一人でもある。「もし住むところがなかったら、前に安藤おばさんが住んでいた家を使ってもいいのよ。静かで環境もいいし、会社にも近いし……」美智子の提案に、星奈は首を振った。もう、隆成や安藤家と関わる場所にはいたくない。「美智子さん、他の場所でお願い!」星奈の声は落ち着いていたが、その奥には揺るがぬ決意が込められていた。電話の向こうで、美智子は星奈の気持ちを察したのか、深くため息をつくだけだった。そのとき、不意に背後から隆成の声が聞こえた。「星奈、誰と話してるんだ?」星奈は一瞬体を強張らせ、慌てて電話を切った。何事もなかったように、隆成の方を振り向く。「久しぶりに美智子さんと話してたの。今週末、一緒に買い物に行く約束をしてて
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第7話
週末がやってきた。離婚の日まで、あと二十四日。このところ、隆成が別荘にいる時間は以前より明らかに長くなった。だが、その心はますますここになかった。星奈の細やかな気遣いのおかげで、隆成は家の中の小さな変化にも気づかない。玄関に置かれたままの大きなスーツケースの中には、衣類がぎっしり詰まっている。それがもう一週間も放置されていても、誰も何も言わなかった。この日、星奈は美智子と部屋を見に行く約束をしていた。けれど、隆成は星奈のそばから離れようとせず、まるでかつて自分がした「週末は一緒に過ごす」という約束を守ろうとしているかのようだった。仕方なく、星奈は隆成を連れてショッピングモールへ出かけた。ショッピングモールには華やかな商品が並ぶが、二人とも心ここにあらずだった。星奈は一刻も早くこの場から離れたいと願い、隆成はなぜか、若い女の子向けの服ばかりに目を向けていた。「ねえ隆成、せっかくだし雫さんも呼んだらどう?」星奈がそう言うと、隆成の目がぱっと輝く。「本当に?でも、今日は一日お前と一緒にいるって約束したから、いいのかな」そう言いつつも、すでにスマホを取り出し雫に連絡し始める。さっきまで気乗りしないふりをしていたのに……自分に嘘をつく必要なんてないのに。ほどなくして雫がやってきた。その早さから、星奈は最初から雫がこのモールのどこかで待機していたのだろうと察した。きっと、呼び出したのは隆成だろう。こういうことを平然とやってのける人なのだ。三人でのショッピングは、結局のところ雫と隆成だけが楽しんでいた。そのとき、突然モールに警報が鳴り響いた。火事だ――!黒い煙がもくもくと立ち上り、人々は一斉に避難を始めた。隆成は雫をしっかり守って避難させる。その一方で、星奈は人混みに押され、危うく倒れそうになる。ふと振り返ると、隆成と視線が交わった。焦った顔の隆成は、星奈の方へ駆け寄ろうとするが、雫の「早く!」という叫びに応じて、星奈を振り切るようにその場を離れてしまう。「星奈、ちょっと待ってて。雫を外に出したら、すぐに迎えに行くから!」星奈は無表情のまま、その様子を見送った。人々の混乱に紛れ、星奈は静かにモールを抜け出した。美智子と合流し、いくつか物件を見て回る。帰宅
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第8話
その後の日々、星奈はずっと家の中で静かに過ごしていた。隆成に余計な疑いを持たせないよう、どこへも出かけず、ただ時間が過ぎるのを待つだけ。すでに新しい住まいも美智子のおかげで見つかっていたが、契約の最終段階になって、突然、大家が条件を変えてきた。「大家さんが安藤っていう男の人が、若い女の子のために高値でその部屋を借りたいって。現場で即決して契約しちゃったのよ」美智子が連絡をくれた。彼女は星奈と隆成の関係も、最近の星奈の様子も、何となく察している様子だった。星奈は多くを語らず、ただ「また別の物件を探してほしい」とだけ頼んだ。夜になって、星奈はわざと隆成を試すように声をかけた。「ねえ、雫さんに新しい部屋を借りたって本当?」それは単なる確認のためだった。今後、そのエリアはできるだけ避けて暮らそうと思っていたからだ。けれど、隆成は突然動揺し、落ち着かない手つきで弁解を始めた。「誤解しないでくれよ、星奈。雫の前の部屋、環境がすごく悪かったんだ。何度も停電してたし……だから会社の社員寮みたいな扱いで、新しい部屋を用意しただけだよ」星奈は穏やかに頷き、特に怒ることもなかった。それどころか、隆成に軽く冗談を返す余裕さえ見せた。その星奈の様子に、隆成は逆に怯えたような目を向ける。「星奈、お前……何か俺に隠してることはないか?」星奈はスマホをいじる手を一瞬止めたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。「なにもないよ。どうしてそんなこと聞くの?」隆成は黙り込み、それ以上は問い詰めなかった。何かある気はするが、証拠が見つからない。そんな戸惑いだけが、彼の胸に残った。その数日後、美智子の助けで、ようやく新しい住まいが決まった。契約が終わると、星奈はすぐに別荘から自分の荷物をすべて運び出した。もうタオル一枚、スリッパ一足さえ残さず、きれいに片付けた。この夜は、星奈が隆成の別荘で過ごす最後の晩だった。星奈は早めに隆成にメッセージを送り、今夜こそは全てを話そうと決めていた。心を込めて作った最後の夕食。これが離婚前の、最後の食卓だ。けれど、隆成は約束を守らなかった。夜の十時になっても帰ってこない。スマホを見れば、SNSには隆成が雫の新居祝いをしている投稿が。なんと、今日は雫が新しい部屋に
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第9話
電話のコール音が空しく響いていた。隆成は、何度も星奈に電話をかけ続けた。そのたびに、呼び出し音が鳴り続けるだけで、誰も出ることはなかった。ただただ虚しい呼び出し音が、繰り返し鳴り続ける。そのたびに、隆成の胸は締めつけられるようだった。何年も結婚してきた中で、星奈と連絡が取れなかったことはこれが初めてじゃない。だが、これまでは「電源が入っていません」というアナウンスが流れるだけだった。今は違う。呼び出し音はずっと鳴りっぱなしで、どこまでも沈黙が続く。隆成は、スマホを手にしたまま、バッテリーが切れるまでかけ続けた。だが最後まで、誰も出てはくれなかった。考えうる限りの言い訳を自分に並べてみる。スマホを落としたのか?カバンに入れたままで、気づいていないのか?だが、どうしても受け入れたくない理由がひとつだけあった。星奈が、本当に自分の前から消えてしまったのではないか。その可能性だけは、どうしても認められなかった。隆成は力なくテーブルの前に座り、手元の離婚協議書を開く。ピンと張っていたはずの紙は、今やしわくちゃになってしまっている。【夫:安藤隆成 妻:安藤星奈 両者は離婚に合意し、婚姻関係を解消するものとする。財産分与についても協議済みで、その他に争いはない……】最後の欄には、星奈の直筆サインがあった。そして、夫の署名もたしかに自分自身の筆跡だ。見慣れた自分のサイン。だが、いつの間にこれを書いたのか、どうしても思い出せない。隆成は突然、我を失ったように書類を丸めて投げ捨てた。目に涙を浮かべ、胸を上下させて声を震わせる。長い沈黙のあと、突然、テーブルを蹴り上げた。「星奈、そんなこと、絶対に許さない。俺は、お前と離婚なんてしない!」空っぽの部屋に、隆成の叫び声がむなしく響いた。テーブルの上にあった水のグラスが倒れ、床に砕け散る。その音に我に返った隆成は、無意識のうちにガラスの破片を拾い上げる。その時、ふいに何かが足りないと感じた。このグラスは、星奈と結婚一周年の記念に買ったものだった。それは、星奈が「割ってしまったから」と言って、弁償してくれたグラスだった。「ねえ、知ってる?『カップ』って『カップル』ともかかってるんだよ。私があなたに新しいカップを買うってこと
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第10話
隆成は突然、ソファから転げ落ちるようにして目を覚ました。夜が明け始め、薄明かりが部屋に差し込んでいる。夢だったのか。けれど、その夢はあまりにもリアルだった。夢の中で星奈が手に持っていたのは、あのカップ。自分がもらった大切なカップだった。翌日、隆成はどこにも出かけず、ずっと別荘の中にいた。目が覚めて最初にしたのは、もう一度、家中をくまなく探すこと。星奈の痕跡が、どこかに残っていないかと、必死になって探した。だが、最後まで何一つ見つからなかった。玄関前にあった鉢植えでさえ、星奈はすべて持ち去っていた。まるで最初から、星奈という人間が自分の人生に存在しなかったかのように――隆成は失意のまま、ソファに腰を下ろした。広い別荘でたった一人、空っぽの部屋で、隆成は自分の心の中に渦巻く疑念をひとつずつほどき始める。星奈は、いったいいつから離婚を決意していたのだろう。思い返せば、星奈はずいぶん前から様子がおかしかった気がする。だが、頭の中は整理がつかず、どこから間違ったのかも分からない。雫から何度も電話があったが、隆成は一度も応じなかった。ようやく誰かが玄関のドアをノックした。あわてて駆け寄り、もしかしてと思って開けた扉の向こうにいたのは、雫だった。雫だと分かった瞬間、隆成の目から失望の色があふれ出す。「どうしてここに来たんだ」冷たい声で問いかけると、雫は慣れた様子で部屋に入ってきた。かつて隆成が一番可愛がっていた、あの無邪気な笑顔を浮かべている。「隆成さん、何度電話しても出てくれなかったから、心配になって来ました」だが、今の隆成には、その気遣いさえ重く感じられた。無言で雫の腕をつかみ、部屋から出そうとする。雫は抵抗し、もみ合いになった拍子に、キッチン横のゴミ箱を倒してしまう。その中から、細かく破られた手紙と、手つかずの料理が床に散らばった。その瞬間、隆成の胸に昨日の夜の出来事が鮮やかに蘇る。あの食事は、星奈が自分のために用意してくれたものだった。それを、隆成は一口も食べないまま、無駄にしてしまった。倒れたゴミ箱から油がにじみ出し、雫は袖をまくり「私が片付けるから」と言って部屋に残ろうとする。「出て行け!」隆成は思わず怒鳴っていた。雫は驚き、そして傷
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