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第110話

Author: 歩々花咲
苑はその夜、ぐっすりと眠った。

それも酒の効能だろう。

目を覚ますと、蒼真が部屋着のままソファに座り、朝刊を読んでいた。

鼻筋には眼鏡が乗っている。

寝起きのせいだろうか。

その一瞬、苑は蒼真の姿に、兄である優紀の面影を見た。

だが、それも一瞬のこと。

苑はすぐに意識をはっきりさせ、すっと体を起こした。

「起きたか?」

蒼真が朝刊のページをめくる。

ぱらり、と硬質な紙が立てる音が、やけに空気に響いた。

苑は「ええ」とだけ返事をして携帯を手に取った。

時間を見ると、もう午前九時。

苑は眉をひそめた。

この天城家で迎える二度目の朝も、また寝過ごしてしまったようだ。

以前、早起きしようとして蒼真に窘められたことを思い出す。

彼がとっくに目を覚ましているのに、まだこの部屋にいる理由も、それで察しがついた。

「甲斐性なし」の濡れ衣を着せられたくないのだろう。

「ネックレスの件、どうなりました?」

苑が口にした最初の言葉は、それだった。

蒼真は読んでいた朝刊を閉じた。

月の光のように澄んだその眼差しが、レンズ越しにこちらに向けられる。

「今、調べさせている」

彼の手腕をもってすれば、簡単なことではないのだろうか?

苑は少しがっかりした。

「そうですか」

蒼真は苑のその些細な感情の変化を見逃さず、ベッドのサイドテーブルに目をやった。

「あんなネックレスが好みなら、後でいくつか取り寄せさせて、好きなだけ選ばせてやる」

「いいえ、あれじゃなきゃだめなんです」

苑はそう言ってベッドから下り、バスルームへと向かった。

「あのネックレスに、何か特別なことでも?」

蒼真が尋ねた。

苑はバスルームの入り口で足を止め、蒼真の方を振り返った。

ここ数日を共に過ごし、彼がひどく疑り深い人間だということはわかっている。

彼にあれこれ推測させるくらいなら、はっきりと伝えた方がいい。

だが、この件は彼女の生い立ちに関わることで、あまり明かしたくはなかった。

「込められた意味が、素敵だからです」

それは昨日、美桜に答えた言葉。

今日はそれを、そのまま使った。

蒼真は軽く頷き、口元に淡い笑みを浮かべた。

「まだ愛を信じているのか?」

その言葉には、嘲りがたっぷりと含まれていた。

だが、苑は意に介さない。

「ええ、信じますよ。
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