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第361話

Author: 歩々花咲
電話が切れると、蒼真はすぐに工場を飛び出し一刻も無駄にしなかった。

夜風が工業地帯特有の鉄錆の匂いを運び、蒼真の髪を乱す。

車へ早足で向かいながら、イヤホンに向かって低く言った。

「照平、奴らが場所を変えた。市東部の廃墟の埠頭だ」

「了解した。すぐに人を連れてそっちへ向かう」

蒼真は車を発進させ、タイヤが砂利道の上で耳障りな摩擦音を立てた。

腕時計を見る――二十三時四十七分。

誘拐犯が指定した三十分の期限までもう十分も残っていない。

埠頭は化学工場よりさらに荒れ果てていた。

照平の声がイヤホンから聞こえる。

「次男坊、うちの連中はもう埠頭で待機している」

「軽率に動くな」

蒼真は車を発進させた。

「まず苑の安全を確保しろ」

潮風が唸りを上げ、長年手入れされていないコンテナに当たり空虚な反響音を立てた。

蒼真は一人で三号倉庫の前に立ち、懐中電灯の光が錆びついた大きなドアを照らした。

不意に蒼真の携帯が再び鳴った。

「天城社長はさすがに時間厳守ですね」

誘拐犯の声にはからかいの色があった。

「ですが万全を期すために、また場所を変えるというのはどうでしょう?」

蒼真のこめかみがどくどくと脈打っている。

「俺をからかっているのか?」

「まさか」

誘拐犯は軽く笑う。

「ただ天城社長が奥様を救う覚悟がどれほどのものか、見てみたかっただけです。今から南部のゴミ処理場へ」

こうして蒼真は完全に手玉に取られた。

首都の西部から東部へ、そして東部から市南部へ。

最後にはなんと最初の廃工場へ戻るよう要求された。

蒼真が再びあの鉄のドアの前に立った時、すでに午前二時十七分だった。

汗がシャツを濡らし、ハンドルを固く握りしめていたせいで掌がわずかに震えている。

「いかがです?」

誘拐犯の声が工場の奥から聞こえてきた。

「猿のように弄ばれる気分はなかなかのものでしょう?」

蒼真は大股で工場へ入っていき、懐中電灯の光を声の源へとまっすぐ向けた。

「俺の妻はどこだ?」

「そんなにお急ぎで?」

誘拐犯は陰の中に立ち、相変わらずマスクと野球帽をつけていた。

「上をご覧ください」

蒼真は顔を上げ、懐中電灯の光が錆びついた鉄骨に沿って上へ上へと昇っていく――

地上三十メートル近くのクレーンの頂上に、苑は椅子に縛り付けられ宙吊りに
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