FAZER LOGIN玲央side
宿の和室に立ち込める空気は、湿り気を帯びて重く逃げ場のない沈黙が四人を支配していた。璃子が淹れたお茶はすでに冷めきり、微かな湯気さえ立っていない。父が落ち着いた声で璃子の母の祐実さんに問いかけた。
「……祐実。君はなぜ二年前、唐突に姿を消したんだ。君を探しに行った璃子ちゃんの目の前で逃げていなくなるなんて。残された彼女がどんな思いで過ごすか一瞬でも考えなかったのか」
祐実さんはその問いに、びくりと肩を揺らしたが、その視線は目の前で傷ついている娘を無情にも通り越し、父の瞳だけを熱っぽく射抜いている。祐実さんの唇がゆっくりと動き、この場にはそぐわないほどの猫撫で声が漏れた。
「それは、貴一くんに真実を知られるのが怖かったのよ。璃子の出生の件をずっと隠していたことがバレて、あなたに失望されると思ったら……恐怖で夜も眠れなかった。それなら、いっそのこと私が消えてしまえば、あなたは心配して私を探してくれるかもしれない。もし、それでまた再会できたら、それはもう『運命』だと思ったわ。だから、その運命を感じるにふさわしいあの場所で、鐘を鳴らしながらずっとあなたのことだけを待っていたの」
祐実さんは、娘への謝罪も二年間の空白に対する悔恨も一切なかった。
彼女の頭の中は、大学時代の愛しい恋人の貴一くんが深く居座っており「貴一くんにどう思われるか」「貴一くんとどう結ばれるか」という歪んだ感情が支配していた。
母の告白に
佐奈side「婚約破棄したとか言ってるけれど、璃子に捨てられただけじゃないの? それで、会社にも居づらくなって困って私のところに縋ってきたんじゃないの?」蓮から連絡が来ないことの苛立ちを颯にぶつけるように、自分でも質が悪いと思いながらも、つい意地悪な言葉を投げかけてしまっている。「違う。決してそんなんじゃない。だけど、佐奈が俺のことを信用できなくなっても仕方ないとも思っている。俺は、その失った信用を回復するところから始めたいんだ。……佐奈は、もう結婚するのか? まだ、今からでも俺が入り込む余地はあるかな?」颯の声から弱々しさが消えた。璃子と一緒にいた時の顔色を伺うような情けない颯ではない。少し強引で力強く話しかける颯に思わず言葉が詰まる。「……まだ入籍はしていないけれど、そのうち結婚するわ。だから、もう無理なの。遅すぎるわ」「そうか。……それなら、まだ佐奈のことを想っていてもいいかな?」「そんなこと、私に聞かないで! もう電話切るから」これ以上、颯の言葉を聞いている余裕なんてない。電話を切ろうとしたその時、颯が焦ったような早口で尋ねてきた。「待って! ネットニュースで見たんだ&hell
佐奈side「伝えたいこと?」「佐奈、俺、すべて終わらせてきた。璃子との婚約を破棄してきたよ」「え、なんで?」「最後に会った時に、佐奈が言っただろう?『璃子の悪事を知っていながらも、未だに璃子の隣にいるのは璃子のことを想っているからだ。それに、被害者ぶっているけれど颯は何も失っていない』って……」「それはそうだけど……」「そう言われて気づかされたんだ。確かに俺は何も失っていない。それどころか、婚約してすぐに家は1DKのアパートから高級なマンションに変わって、会社のポストも上がった。婚約したままで佐奈のことを想っているなんて伝えても、説得力もないし本気だなんて思えないよなって。佐奈からしてみれば、結婚前にふらふらしている軽い男みたいに俺は映っているかもしれないと思ったんだ」颯の言葉をただただ無言で聞いていた。今言っている言葉は、私があの時感じた心のモヤモヤや苛立ちをしっかりと言語化してくれている。婚約している立場でありながら、声を掛けてくることにも、もしかしたらなびくかもしれないと私自身を軽く見られていたのかと思うと何をふざけた事を言っているのだろうと全く笑えなかった。「あの時、事情があって婚約者のフリをしていたんだ。でも、もうする必要がなくなった。だから璃子との婚約を正式に解消したよ。俺は、もう璃子とは関
佐奈side蓮から連絡が来ないまま二日が過ぎた。今までも、出張期間中など仕事が立て込んでいる時は返事が遅くなることもあったが、特別大切な内容でもなかったし仕事に集中して欲しかったので、特に気にしていなかった。だけど、今回は違う。(お互いの会社間でのトラブルが発生して、心配だから連絡をしていたいと言っているのに……蓮の声を聞いて今後の話をしたり、安心したかったのにな)蓮だってメッセージの内容を見れば重要かそうでないか位、分かるはずだ。ましてや、仕事では、たくさんの取捨選択をして方針を決定し、先頭に立って動かしていく立場だ。そんな蓮が見落としたり、後回しにするとは思えなかった。だからこそ、この空白の時間は、私の事を避けているのではないか、何かご両親から言われて、蓮自身が考え事をしているのではないか、と深い影を落として私の心を不安にさせていた。スマホをぼんやりと眺めては、蓮からの通知がないか確認する。しかし、通知が届くことはなく、現実逃避するようにSNSのタイムラインを指でなぞっていた。 犬が尻尾を振る可愛い動画を見つけ再生ボタンをタップした、その瞬間だった。画面を割り込むように表示された着信に、指が勝手に反応してしまった。(あ、間違えた。ワンちゃんの動画を見て、癒されたかったのに……)
佐奈side事件の波紋は、私の想像を遥かに超える速さで広がっていった。MURAKIの不祥事は連日ネットニュースやテレビのワイドショーでも取り扱われた。社内の空気は一変し、他支店の派遣社員からも「自分の残業代は正しく支払われているのか」という不安の声が殺到しているそうだ。そんな中、週刊誌の続報は決定打となった。紙面には、藤堂グループから派遣されていた女性の痛切な告白が書かれている、彼女は単に残業代を支払われなかっただけでなく、支店長から「派遣の分際で権利を主張するな」という言葉を投げつけられていたという。(あの時、蓮が元気なかったのは……このせいだったんだ)一週間前の電話の異変がようやく繋がった。派遣会社の創業者一族である蓮と、今回加害者側になってしまった私の会社。今のタイミングで入籍や結婚に向けた動きが周囲に知られれば、藤堂グループ内でも蓮への激しい反発を招くのは目に見えていた。もしかしたら、この事態を蓮は一週間前から把握していて、既に父親である社長から何か言われていたのかもしれない。その夜、私は震える指で蓮にメッセージを送った。『蓮、記事を見たよ。被害に遭っていたのは、蓮の会社に登録していた派遣さんなんだね。何か言われていない?今
佐奈side蓮と自分の両親に隠し事をしてしまったことに後ろめたさを感じていたが、蓮が守ってくれたことで先のことを考えすぎるのはやめることにした。私たちのペースで進んでいけばいい、そう思っていた時に事件は起こった。「MURAKI、派遣社員の残業代承認せず。社員は過剰労働で過労死―――――」とある支店の支店長が、業績重視・実績がないなら休むなという考えの人物だったようで、営業職の社員に対して振替休日を認めない、深夜残業の圧力などハラスメントを行っていたらしい。その被害は派遣社員にまで飛び火をして、遅くなったのは営業員の責任として会社からは払わないと拒否をし、営業員に直接請求するように言ってきたそうだ。そのことに不満を持った派遣社員が派遣会社を通してクレームを入れ、事態が発覚。人事や関連部門は対応に追われた。被害者遺族への謝罪、派遣社員への残業代の遡り支給と支店長は、役職の降格と再発防止のためハラスメント教育を徹底的に叩きこむことにした。会社の不祥事に胸が痛くなりながらも、残業を終えて帰宅すると蓮から電話が入っていた。(電話なんて珍しいな……何だろう?)「もしもし蓮?おつかれさま」「ああ、おつかれさま」短い言葉だったが、その一言で蓮が沈んでいるこ
颯side「そういうつもりじゃない。後継者がいないとこの会社が続かないというのなら、私にチャンスをちょうだい。私自身を、後継者として教育してほしいの」「なんだって?」「後継者になる人と結婚するのではなくて私自身の手でこの会社を守っていきたい。そして、結婚は自分が好きだと信頼できる人としたいの。だから、松田さんとの結婚はなしにして、本郷さんとの結婚を認めてください」璃子は、そう言い切ると深々と頭を下げた。俺はその隣で彼女の勇気を見届けていた。これで俺の役目は終わる。あとは社長がこの「現実」をどう飲み込むかだ。――――社長室には、重苦しい静寂な空気が流れている。璃子は頭を下げたまま動かない。その横で、俺もまた社長の裁定を待っていた。社長は深く背もたれに体を預け、組んだ指の隙間から璃子を凝視していた。その瞳には、怒りだけではなく、一人の経営者を見極めるような鋭い光が宿っている。「……璃子を教育しろ、だと?」「はい。誰かに頼るためのではなく、自分の力で会社を守っていきたいです。守るべきものがあるからこそ強くなれると、私は本郷さんから教わりました。だから、私は会社のための結婚はしたくないです。後継者が必要なら、私にやらせてください」







